トイレの個室の扉を開けた瞬間、げっ――思わず顔が引き攣ってしまった。
 いる。
 いるのだ。
 『貞子』が。
 『貞子』は私に気が付いた様子はないようで、洗面台に設えられた大きな鏡に向かってご自慢の髪の毛に櫛を入れている。真っ黒な腰の下まである長い髪の毛は彼女の情念の深さを思わせるようでぞっとしない。このまま髪の毛自ら意志を持って触手のようにうねうねと動き出しそうだ。不意にこちらに伸びてきて首に絡み付いてぎゅうと締められる――束の間そんな空想をして背筋がふるえた。
 私は深呼吸して莫迦げた妄想を振りほどき、個室を出ると手を洗うために『貞子』の隣に立った。不自然にならないよう、なるべく彼女の方を見ないようにして手を洗う。しかし見まいとしようとするほど却って彼女のことが気になって意識がそちらに向かってしまう。『貞子』から何か得体の知れない、負のエネルギーが発散されているような気がして彼女と私との間に重たい空気がわだかまった。駄目だ、間が持たない。どうにも気まずくてわざとらしく軽く咳払いするとちらと鏡越しに『貞子』を一瞥した。
 お疲れ様です――勤め人の枕詞、最早定型文となっている挨拶を言おうとして上手く発音できずに声が掠れた。と、『貞子』は私が話しかけてきたのを意外に思ったのか、少し不思議そうな眼付きでこちらを見た。虹彩と白目のコントラストがはっきりしているために、とても目が印象的だ。それを魅力的と思うか不気味に思うかは人によって意見が分かれそうである。あの目でじっと見られたら動けなくなりそうだ。宛らメドゥーサの瞳である。
「さだ……、山本さんの髪、凄いですね」
 うっかり陰で呼ばれている彼女の綽名あだなで呼びそうになってしまって慌てて笑顔を作る。上手く笑えているか自信がないけれど。
 『貞子』とは一体誰が言い出したのか、そのぞろりと長い黒髪故に名付けられた通称である。本来の名前は山本由美子。私より五つ年上の先輩である。おとなしくて物静かな人、というのが彼女の印象だが実際はどうだか知れない。一緒の部署で働いているとはいえ、普段はほとんど言葉を交わさないので彼女がどんな人なのか良く知らないのだ。彼女が社内で親しくしている人がいるかどうかもあやしい。少なくとも私は彼女が誰かと親しく雑談している姿は見たことがなかった。ただ勤務態度は普通で無駄口を叩かず、黙々と与えられた業務をこなしている。真面目な社員である。仕事仲間としてはこれといって特に問題はないが、しかしプライベートでも付き合いたいかといわれたら躊躇ってしまう。
 人を外見で判断するのは良くないし、そういったことは人として問題があるのではと思うものの、外見から受ける印象や雰囲気、イメージはどうしたって「その人がどういう人なのか」という判断材料に含まれてしまう。
 『貞子』――山本由美子は異様に長い髪故にどことなく不気味な雰囲気が拭えない。化粧も身なりもきちんとしている分、余計に髪の毛の異様さが際立つ。そのアンバランスな見た目が一種独特の不気味さとなって彼女から滲み出ている。だからだろう、『貞子』という綽名がついたのは。そして彼女がそれとなく皆から遠巻きにされているのも。本人は知らないだろうけれど。
 ――一体何年髪を切らずにいたらこんなに長く伸びるのだろう。
 髪の毛は死滅した細胞の集積である。髪の毛には死が堆積している。可視化された死。
「以前はウィッグを被ってたんだけど、暑くて」
 彼女から言葉が返ってきて驚いた。てっきり「はあ」とか曖昧な返事しか返ってこないかと思っていたから。自分から話を振ったくせにどきまぎしてしまう。ぶわりと全身の毛穴が開いて俄かに動悸が激しくなる。私が瞠目していると『貞子』は「髪の毛、長いから」微かにはにかんだような表情かおをする。
「地毛を一つにまとめてウィッグを被ってて」
「はあ……なんでまた」
 私の言葉の意味が判らなかったのか、彼女はメドゥーサの瞳を瞬かせると軽く首を傾げてみせる。と、今度は左側の髪を櫛で丁寧にく。手に握られた赤い櫛が猶更彼女を幽鬼のように見せ、おどろおどろしい雰囲気が漂ってくる。
 ――あの映画にもこんなふうに髪の毛を梳くシーンがあったよな。
 思い出して背筋が寒くなる。映画はフィクションだと理解しているが、不気味なものは作り物でも不気味だ。
「あの、……どうしてそんなに髪の毛を伸ばしているんですか? ヘアドネーションとかですか?」
 髪の毛を伸ばしている理由がそれくらいしか思い付かない。そう思ってみれば、彼女の髪はなかなか健康そうではある。だが、彼女から返ってきた答えは全く違った。予想の斜め上をいくものだった。
「――髪の毛には魂が宿っているから」
「え?」
 知らない?――ぞっとするような笑みを片頬にのせて『貞子』は言う。
「髪の毛にはその人の魂が宿ってるの。丑の刻参りってあるでしょう。相手に呪いをかける儀式。藁人形に五寸釘を打ち込むやつ。あれに呪いたい相手の髪の毛を使うのは髪の毛に魂が宿っているから。そういう話を子供の頃、祖母から聞いてね。それから髪の毛を切ることが怖くなった。髪の毛を切ると自分の魂が切り取られてしまう――髪の毛を切れば切るほど、寿命が短くなってしまうって」
「……だから、切らずに伸ばしているんですか」
「そう。全く切らないっていうのは難しいから、誕生日の時だけ切ってるわ。毎年ひとつ年をとるということは、それだけ寿命が短くなって死に近づくことだから」
 あなたは迷信だって嗤うかもしれないけれど――彼女は重たげな黒髪を片手で束ねて手早く黒い髪ゴムでくくる。
「髪の毛にその人の魂が宿っているのは本当。祖母はそれで死んだから」
 鏡の中で『貞子』は意味深長に唇を歪めた。
 
 ◆◆◆

 一日の仕事を終えて、疲れた躰を引き摺るようにしていつもの電車に乗り込む。帰宅ラッシュの時間は過ぎていたが、それでも乗車率は高めで、空いた座席はどこにもなかった。重たい鞄を肩にかけて吊革を握る。程なくして電車が動き出す。夜を透かす窓ガラスに見慣れた自分の顔が映る。午後の間中ずっとパソコンとにらめっこをしていたせいか、目の下が黒く淀んでいるような気がした。お風呂に入りながら目元も温めよう――そんなことをぼんやり考えて何気なく髪の毛に手櫛を入れる。
 ――髪の毛には魂が宿っているから。
 不意に昼間の『貞子』との会話が脳裏をよぎる。
 祖母はそれで死んだから――結局、どうして彼女の祖母が亡くなったのかは訊けなかった。何だか訊いてはいけないような――知ったらおしまい・・・・のような気がしたのだ。
 トイレから戻ったあと、まだ午後の業務まで時間があったので『貞子』が言っていたことが本当なのかスマホで調べてみた。
 確かに、古来より髪の毛そのものが「その人自身」であり、魂や想いが宿る神聖なものだと信じられてきたというのはあるらしい。また脳の近くにあることから「想い」や「思念」が髪に宿り、長く伸びるほどその力は強くなるとも言われ、長さを保つことが女性の願掛けや、神仏と繋がる行為とされてきたとも。あるいは髪にはマイナスのエネルギーや邪気も溜まりやすいと考えられており、髪を切ることでそれらを断ち切り、心を清める「厄落とし」や「心身を整える」という意味合いも持つらしい。
 これらが本当であれば、フィクションの中にある幽霊――主に女性のそれ――がやたら髪の毛が長いのも頷ける。あの長く伸びた髪の毛には恨みや怒り、無念、言葉では到底言い表すことのできない情念が絡んでいるのだ。髪の毛は死だけではなく、情念の可視化、情念そのものなのだ。
 彼女――山本由美子の髪に絡む情念は一体何であろう。恨みか嫉妬か、それとも死にたくないという本能に根差した強欲か。彼女が抱えている情念を思ってうそ寒くなる。
 ふと髪の毛を引っ張られるような感じがした。車内が混み合っているから、そのせいかと思って髪に触れると。ない。
「――え?」 
 ない。
 あったはずの髪の毛の先がない!
 唖然として右手を見詰める。掌に疎らについた短い自分の髪の毛。
 切られた。
 誰かに切られたのだ!
 ――髪の毛にはその人の魂が宿ってるの。
 脳内で山本由美子の声がこだまする。
 ――丑の刻参りってあるでしょう。
 ――相手に呪いをかける儀式。
 ――呪い。
 ――呪。
 私は大きく目を見開いて同じ車両に乗り合わせた見知らぬ人々の顔をひとつひとつ見た。
 皆、一様に口を引き結んで素知らぬ顔をしていた。
 ――一体誰が。
 私は叫び声をあげた。

(了)
1/1ページ
    スキ