拝啓、風見鶏だった僕へ。
求職に入って三週間。
今日は三回目の通院日だ。
ちっとも良くなっている気がしない。
日記が全てを物語る。
ーーおきているのが辛い
歩くのすらつかれる
ーーこのまま治らなかったらどうしよう。じいちゃんとばあちゃんにメイワクをかけつづけるくらいなら、死んだほうが楽なんじゃ
そこまで読み返してノートを閉じた。
自分でも怖いくらい、後ろ暗い。
休職終了まであと十日。
センリはうつむいたまま声を絞り出す。
「先生。僕、……このまま復職、できる気がしないです」
「そうですね。貴方をみているかぎり、わたしもそう思います。休職をあと二ヶ月、延長してもらえるよう交渉しましょう」
きっぱり言われてホッとした。
「はじめに言ったでしょう。治るのにかかる時間は人それぞれだと。一ヶ月で治った人はいません。ようやく薬の合う合わないが見えてくるのが一ヶ月です」
「そっか」
「副作用は出ていませんか。いつもよりだるいとか、吐き気がするとか、異様に眠いとか、日記に書き残していたら教えてください。別の薬を試すか、量を減らすか考えます」
「はい」
初田は常に穏やかな話し方で、かすかに笑顔を浮かべている。
毎日毎日、患者の苦しい辛いという話を聞いていて嫌になったりしないのだろうか。
センリなら、自分のように暗い男の話を聞いていたら疲れる。
「おや。わたしの顔に何かついていますか?」
「あ、いえ」
じっと見ていたせいで、不審がられてしまった。
「あの、嫌になりませんか。話、きくの」
「わたしは人の心を研究するのが趣味なので、むしろ歓迎しますよ。妻と娘を連れて植物園に行ったときなどは、人によって違う行動パターンをとっているのでそれを観察して楽しみます。角度を変えて写真を撮るのに必死な人、花を楽しむ人、みんなそれぞれ面白い」
「…………かわった趣味ですね」
センリの中で、植物園とは花を見る場所だ。
植物園にくる客を観察して楽しむ、なんて思いもしなかった。
「必ずこうしなければならない、という答えはありませんからね。迷惑行為以外なら好きに過ごしていいんです。それくらいゆるく考えていいんですよ、秤さんも、気の向くままで」
センリの言葉はいつも、“選んだ”ものだ。
自分がどう思っているかではなくて、相手にどう思われるかで言葉が変わる。
「難しいです」
「今は難しくても、いずれわかります。……コウキくんに、会ったそうですね。コウキくんから聞きました」
「あ、はい」
コウキも初田の患者だから、センリとたわいない話をしたことを初田に言うのも不自然ではない。
「コウキくん、人の顔色を気にしないでしょう? センリのように人の気持ちを察せられる人になったら、生きやすいかな、なんて言っていました。ならなくていいと伝えましたが」
「僕も、僕みたいにはなりたくないです」
センリは、今ならもうわかっている。自分を持っていない人間。いつでも誰にでもいい顔をする人間。
初田がセンリのようにならなくていいと言うのは、きっとそういうことだ。
「秤さん。勘違いしないでくださいね。みんな違うからいいんですよ。他の誰かになろうなんて、しなくていい。ただ、あなたの場合は自分の気持ちも大切にできるようになりましょう」
センリの考えたことを察して、初田が先回りする。
今さら、自分の気持ちを口にしたら、嫌われてしまわないだろうか。
「まあ、さじ加減が難しいですよね。ちなみにわたしは、先輩にコーヒーを奢られても、コーヒーは嫌いだから要らないと言って叩かれるタイプです。だってほんとうに飲みたくないんですもの」
「笑って言うことですか」
(人の意見や嫌われるのを気にしないタイプってすごいな)
軽いノックの音がして、受付の女性が顔を出した。
トレーに飲み物を乗せている。
「アイスミルクティーをいれたので、どうぞ」
「ありがとう、ネルさん」
ネルはテーブルにミルクティーをおいて、ペコリとおじぎをして出ていく。
「さ、秤さんどうぞ。飲んでください。わたしものどが渇いたので飲みます。医者も人間なのでのどが渇きます」
「……ありがとうございます」
甘い、甘い、ミルクティーだ。
味覚が前より戻ってきているような気がする。
グラスも冷やしてくれているのか、指先がひんやりとする。
「あまい、です」
「それは良かった」
初田は笑いながら紅茶を飲む。
(ここは、先生の診察室は、時間がゆっくり流れているな。誰に急かされるでもない)
職場では田井多に一分一秒でも早く、多く仕事をしろと怒鳴られていたから、なおそう思う。
「おかげんがいいようなら、帰りに植物公園に行ってみるといいですよ。ここからそう遠くないので、落ち着くと思います」
「はい」
センリは受付で次の予約をして、処方箋を受け取る。
「はい、秤さん。いちごアメをどうぞ」
もう定番となったやりとり。このネルという人ものんびりとした口調の人で、センリが財布を出すのに手間取ったりしても急かさない。じっと待っている。
(こういう職場だったらいいのにな)
二ヶ月後に配属先を変更してもらえたとして、どうなるだろう。
不安があるけれど、センリは頭を下げてクリニックを出る。
花を見たら少しは落ち着くかもしれない。
今日は三回目の通院日だ。
ちっとも良くなっている気がしない。
日記が全てを物語る。
ーーおきているのが辛い
歩くのすらつかれる
ーーこのまま治らなかったらどうしよう。じいちゃんとばあちゃんにメイワクをかけつづけるくらいなら、死んだほうが楽なんじゃ
そこまで読み返してノートを閉じた。
自分でも怖いくらい、後ろ暗い。
休職終了まであと十日。
センリはうつむいたまま声を絞り出す。
「先生。僕、……このまま復職、できる気がしないです」
「そうですね。貴方をみているかぎり、わたしもそう思います。休職をあと二ヶ月、延長してもらえるよう交渉しましょう」
きっぱり言われてホッとした。
「はじめに言ったでしょう。治るのにかかる時間は人それぞれだと。一ヶ月で治った人はいません。ようやく薬の合う合わないが見えてくるのが一ヶ月です」
「そっか」
「副作用は出ていませんか。いつもよりだるいとか、吐き気がするとか、異様に眠いとか、日記に書き残していたら教えてください。別の薬を試すか、量を減らすか考えます」
「はい」
初田は常に穏やかな話し方で、かすかに笑顔を浮かべている。
毎日毎日、患者の苦しい辛いという話を聞いていて嫌になったりしないのだろうか。
センリなら、自分のように暗い男の話を聞いていたら疲れる。
「おや。わたしの顔に何かついていますか?」
「あ、いえ」
じっと見ていたせいで、不審がられてしまった。
「あの、嫌になりませんか。話、きくの」
「わたしは人の心を研究するのが趣味なので、むしろ歓迎しますよ。妻と娘を連れて植物園に行ったときなどは、人によって違う行動パターンをとっているのでそれを観察して楽しみます。角度を変えて写真を撮るのに必死な人、花を楽しむ人、みんなそれぞれ面白い」
「…………かわった趣味ですね」
センリの中で、植物園とは花を見る場所だ。
植物園にくる客を観察して楽しむ、なんて思いもしなかった。
「必ずこうしなければならない、という答えはありませんからね。迷惑行為以外なら好きに過ごしていいんです。それくらいゆるく考えていいんですよ、秤さんも、気の向くままで」
センリの言葉はいつも、“選んだ”ものだ。
自分がどう思っているかではなくて、相手にどう思われるかで言葉が変わる。
「難しいです」
「今は難しくても、いずれわかります。……コウキくんに、会ったそうですね。コウキくんから聞きました」
「あ、はい」
コウキも初田の患者だから、センリとたわいない話をしたことを初田に言うのも不自然ではない。
「コウキくん、人の顔色を気にしないでしょう? センリのように人の気持ちを察せられる人になったら、生きやすいかな、なんて言っていました。ならなくていいと伝えましたが」
「僕も、僕みたいにはなりたくないです」
センリは、今ならもうわかっている。自分を持っていない人間。いつでも誰にでもいい顔をする人間。
初田がセンリのようにならなくていいと言うのは、きっとそういうことだ。
「秤さん。勘違いしないでくださいね。みんな違うからいいんですよ。他の誰かになろうなんて、しなくていい。ただ、あなたの場合は自分の気持ちも大切にできるようになりましょう」
センリの考えたことを察して、初田が先回りする。
今さら、自分の気持ちを口にしたら、嫌われてしまわないだろうか。
「まあ、さじ加減が難しいですよね。ちなみにわたしは、先輩にコーヒーを奢られても、コーヒーは嫌いだから要らないと言って叩かれるタイプです。だってほんとうに飲みたくないんですもの」
「笑って言うことですか」
(人の意見や嫌われるのを気にしないタイプってすごいな)
軽いノックの音がして、受付の女性が顔を出した。
トレーに飲み物を乗せている。
「アイスミルクティーをいれたので、どうぞ」
「ありがとう、ネルさん」
ネルはテーブルにミルクティーをおいて、ペコリとおじぎをして出ていく。
「さ、秤さんどうぞ。飲んでください。わたしものどが渇いたので飲みます。医者も人間なのでのどが渇きます」
「……ありがとうございます」
甘い、甘い、ミルクティーだ。
味覚が前より戻ってきているような気がする。
グラスも冷やしてくれているのか、指先がひんやりとする。
「あまい、です」
「それは良かった」
初田は笑いながら紅茶を飲む。
(ここは、先生の診察室は、時間がゆっくり流れているな。誰に急かされるでもない)
職場では田井多に一分一秒でも早く、多く仕事をしろと怒鳴られていたから、なおそう思う。
「おかげんがいいようなら、帰りに植物公園に行ってみるといいですよ。ここからそう遠くないので、落ち着くと思います」
「はい」
センリは受付で次の予約をして、処方箋を受け取る。
「はい、秤さん。いちごアメをどうぞ」
もう定番となったやりとり。このネルという人ものんびりとした口調の人で、センリが財布を出すのに手間取ったりしても急かさない。じっと待っている。
(こういう職場だったらいいのにな)
二ヶ月後に配属先を変更してもらえたとして、どうなるだろう。
不安があるけれど、センリは頭を下げてクリニックを出る。
花を見たら少しは落ち着くかもしれない。