拝啓、風見鶏だった僕へ。

 通院から二週間経ち、日中起き上がっていることができるようになった。
 少しずつ薬が効いてきたのかもしれない。
 久々に、八時前に起きることができた。

「おはようセンリ。今日は顔色がいいな」
「おはよう、じいちゃん」

 
 今日は仕事が休みだから、利男もこの時間家にいた。

「どうだいセンリ。起きられるならじいちゃんと散歩してみるかい?」
「そう、だね。少しなら、いけるかも」

 このまま家で寝ているだけだと、一ヶ月で復職は難しいかもしれない。
 そんな焦燥感もあり、センリは利男と散歩に出た。

 時期としては夏休み。
 小学生だけでなく、中高生も多く見受けられた。
 この暑いのに、体操服姿で学生鞄を背負って駅に向かう子もいる。
 体育会系部活は夏も練習があるようだ。

 元気よく駆け抜けていく子どもたちを、センリはぼんやりと眺める。

「センリ、稲村ヶ崎行ってみるか」
「何かあるの?」
「海の見える温泉があるんだ。たまには広い風呂ってのもいいだろう」

 江ノ電に乗って少し。稲村ヶ崎駅で降りて坂道を下ると、目の前に真っ青な海が広がる。


 七里ヶ浜や江ノ島はサーフィンや水上オートバイ客で賑わっているが、稲村ヶ崎はそちらに比べて人がまばらだ。

 潮騒と潮の香りが心地良い。
 センリは顔を上げて、流れていく雲を眺めた。

 海も空も、どこまでも広い。
 伸ばしっぱなしだった髪も風でバサバサなびく。

「センリ、やっぱ海はいいなぁ。海に向かって叫びたくならんか?」
「……そう、かもね」

 そういえば最近、ずっと下ばかり向いていたような気がする。

 スポーツウェアを着た若い男女が、「こんにちは!」と元気よく挨拶して走っていく。
 センリは軽く会釈だけ返して、また海を眺める。

「たまにはこうして海を見に来よう。次はチヨも誘って。俺一人じゃ寂しいから」
「うん」

 
 これは、センリを連れ出すための優しさだ。
 センリにはきちんと伝わっている。

「ありがとう」

 何でもかんでも自分のうちに溜め込みすぎると辛くなりますよ、と初田に言われたから、センリはまず感謝を言葉にした。
 もっとちゃんした言葉でこれまでのこととや、こうして病気のサポートをしてくれることの感謝を伝えたいのに、言葉がうまくでてこない。

 たくさん言葉を学んできたはずなのに、思い浮かばない。


 見上げればいつもそこにある空。
 こんなふうに見たことはない。
 空が青いこと、潮風の臭い、気にも止めなかったいろんなものが一気に頭に押し寄せてきて溢れて、流れていく。

 センリの中は今、幼子みたいに僅かなものしか掴めなくなっている。
 
 だから、ただ、今掴んでいられる僅かな言葉を。
 伝えられる唯一の言葉を伝える。


「ありがとう、じいちゃん。そら、青いね」
「ああ。青くてでっかいな」

 饒舌に離せなくなってしまったポンコツなセンリを憐れむでもなく、叱責するでもなく、利男は歩調を合わせて歩く。

 稲村ヶ崎にある温泉に二人で入り、浴槽から海を眺めた。

「いやぁ、江ノ島も見えるなんて最高の場所だなぁ。教えてくれた|根津美《ねづみ》さんにゃ感謝しないといかん」
「ねずみ?」
「シルバーで働いてる店のパートさんだよ。たまーにお孫さん連れて、ここの温泉にくるんだってよ」
「へぇ」

 見回してみれば、親子で来ているような人もちらほらいる。
 家の風呂はそんなに大きいわけではないから、祖父と風呂に入るのも二十数年ぶりだ。
 特に会話もなく、利男の背中を流して、利男もセンリの背中を流してくれる。

 最後にまた湯船であたたまる。

「また来ようなぁ」
「そうだね」

 のんびり湯につかっていると、利男が他の利用客に声をかけられる。

「お孫さんとお風呂ですか、いいねぇ一緒に来てくれるって。うちの孫なんて、ジジイうざいって言って、会話してくれねぇのよ」
「そら悲しいなぁ。話せるとき話さんとな」

 利男と男性の会話を聞くとなしに聞いて、そんな子もいるんだなとセンリは他人事で考える。


「風呂上がりといえばコーヒー牛乳だ。センリも飲め。俺のおごりだ」
「ありがとう」

 ビン入りのコーヒー牛乳なんて、古いドラマの中にしかないと思っていたが、風呂屋では健在らしい。
 なんだか懐かしい気がする。
 コーヒー牛乳は甘くて、美味しいと感じた。
 飲み干すと、利男が嬉しそうに笑う。

「あぁ、センリが笑うのを久々に見た。良かった」
「僕、笑ってた?」
「おおとも。また来ような、センリ」
 
 幼い頃のように、ポンと頭を撫でられる。

 そうだ。
 そういえば祖父母に引き取られて間もない頃。
 まだふさぎがちだったセンリに、利男がどこかの店先でこんなふうにコーヒー牛乳を買ってくれたことがある。
 その時のコーヒー牛乳に、味が似ている。

 嫌なことを何もかも忘れて、幼い日に戻ったような心地がした。

 


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