拝啓、風見鶏だった僕へ。

 休職に入った初日。
 七時にスマホのアラームが鳴った。

(ああ、起きなきゃ。今日も田井多先輩に面倒ごと押し付けられるのかな、やだなあ)

 起きようとして、今日から休職になっていることを思い出す。
 仕事に行かなくて良くなったことにほっとして、センリはアラーム設定を切った。

『にー、なうー』

 豆大福が、センリの頭をまたいで右に左に移動する。
 朝ご飯が欲しいときのパターンだ。
 豆大福の朝ご飯を用意するのはセンリの役目。

 重い頭を持ち上げて、昨日の水とカリカリの残りを捨てて、新しい水とカリカリを器に盛った。

 豆大福が伸びあがってセンリのシャツに爪をかけ、早く早くとせかしてくる。

「ほら、マメ。焦るなよ」
『なー』

 チヨも起きてきた。

「おはようセンリ。朝ご飯、食べられそう?」
「むりそう。あとで、てきとうになんかたべる」

 どうにもだるくて起きていられない。
 初田が「薬の効果が出るには数週間を要するので、明日すぐ効き目が表れるということではないです」と説明されていた。

 この重いだるい感じが消えてくれるのなら、早く効き目がでてほしい。

 部屋に戻って布団に横になる。
 そのまま眠りに落ちて、気づくと時計の針が十時をまわるところだった。

 チヨも利男も、もう仕事に行っている時間。
 二人が働いている中で自分だけ休む。なんだか申し訳ない気がしてくる。

 冷蔵庫の麦茶を飲んでヨーグルトだけ食べて、また横になった。

(よくこんな状態で仕事に行けていたな、僕)

 ここ二週間くらいは、田井多に仕事を押し付けられたからではなく、仕事が遅くなっていた。
 頭がうまく働かなくて凡ミスが増え、専務に指摘されることもしばしば。

 厚手のカーテンを閉めていても光がまぶしくて、顔にタオルをかけて寝た。

 数日そんな感じでほとんど寝て過ごした。外に出るのはゴミ出しの日くらい。

 初診から一週間、二度目の通院日。
 センリはクリニックで初田に今週の様子を聞かれる。

「その後、どうでしたか」
「……すみません、あの、ずっと寝てました」
「それでいいんですよ。休みは休むためにあるので」

 初田はカルテに書き付けていく。

「寝る時間が不規則なのは、もんだいないんですか」
「今は眠りたいときに寝て食べられるときに食べてください。そうですね、少し調子がいいときは軽くストレッチしてください。体がなまってしまわないように」
「ストレッチ」
「こう、腕を大きく伸ばしたり前屈したり」

 初田がその場でやってみせる。
 センリは小さくうなずいて、息を吐く。
 必ずこうしてくださいとか、治りたいならもっとやる気見せろとか、スポコンみたいなことを言われるのではないかと不安だったから、安心した。

「なにか考えていますね」
「いえ、だいじょうぶ、なんでもないです」

 センリが答えると、初田は目を細めて指摘する。

「それも口癖ですね。大丈夫って。飲み込まなくてもいいんですよ。わたしは貴方の主治医なので、思うまま好きに話してください。職場で嫌なことがあるとか、不安があるとか。そういうのも治療に大切です」

 愚痴を吐いていいと言われて、センリは先輩のことを言ってもいいのかと迷いながらも、口を開いた。

「えと、部署の先輩に、残業を、押し付けられるから……、そのうち回復して、復帰してもまたあの人のしごとしないと、かなって……。求職の手続きをする日にも言われたんです、仮病だとかずるいとか」

 言ってて悔しさと悲しさ、怒りが込み上げてきた。
 誰かに話したことはない。
 チヨにも利男にも、心配させたくなくて相談しなかった。

 これまで我慢していた先輩への怒りを吐き出すと、涙が出た。

「なんで、僕は、ずるいなんて言われなきゃ、ならないんです、起きてるのも、つらいのに。もどりたく、ない」

 休職に入って田井多の顔を見なくなって、うれしいとすら感じていた。休むことへの罪悪感、センリの仕事をほかの誰かが肩代わりしていることを思うと、ごめんなさいと言いたい。
それでも、復帰したら何を言われるか怖くて仕方がない。

 初田がそっとハンカチを差し出し、センリは自分の涙を拭いた。
 センリが落ち着くまで待ってくれて、初田は言葉を選んでつむぐ。

「そのことはそのうち、復帰が近くなったら人事に相談しましょう。今の部署に戻っても、またぶり返してしまうかもしれない。どうしても事務課でないと嫌というわけでないなら、今より負担のない場所へ部署移動をお願いするのもいいでしょう」
「逃げたって、言われませんか」
「逃げたと言われたくなくて、がまんして、またその先輩がいる場所にいたいですか?」

 センリは頭を左右に振る。

「いまはそのことを考えず、休みましょう」
「はい」

 診察室を出て、待合室にはセンリより若い青年がいた。おそらく二十になっているかいないか。
 不思議の国のアリスの絵本を読んでいる。
 膝には日記と書かれたノートを乗せていた。

(こんなに若い子でも、なにか病気を抱えているんだな)

 ソファに座ると、受付の女性が「|珠妃《たまき》さん、診察室へどうぞ」とうながす。

 青年は本を閉じてラックに戻すと、診察室に向かった。

「秤さん、次の診察はまた一週間後です。なにかありましたらいつでも電話をしてくださいね」

「オマケです。疲れたら甘いものです」と言って、受付の女性はイチゴあめをくれた。

 小さい頃よく食べたあめ。
 クリニックを出るときに、いれかわりで年配の男性と女性が入ってくる。

(心の病を抱えてるの、僕だけじゃないんだな。年齢も、性別も関係なく)

 前回ここに来たときは、自分のことでいっぱいいっぱいだったから、ほかの患者のことなんて見えていなかった。

 自分ひとり、霧に包まれた森に放り出されたような暗い気持ちだったけれど、同じようなものを抱える人がほかにもいると気づいて、一人じゃないと思えた。
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