拝啓、風見鶏だった僕へ。
祖父の利男が帰宅した。
「センリ。職場の人にも聞いて、食べられそうなものを買ってきたぞ。好きなのを選べ。日持ちするやつだから、好きな日に食えるだろう」
利男はスーパーのレジ袋を掲げてみせる。
半透明の側面から見えるだけでも、茶碗蒸し、フルーツゼリー、フルーツ豆乳、トマトジュース、魚のペースト。盛りだくさんだ。
休職することになったことは、診療のあとすぐにチヨがメッセージで伝えていた。
仕事できなくなることを叱ることなく、こうして気遣われて、センリは申し訳なさでいっぱいになった。
「……余計な手間かけて、ごめん」
センリが謝ると利男はぽんとセンリの頭に手を乗せる。幼い頃センリにそうしていたように、グシグシと力強くなでる。
「謝らなくていいんだよ。お前は俺たちの大事な家族なんだから」
都合がつくならみんなでごはんを食べる。
それが利男の決めた、秤家唯一の家訓だ。
センリは固形物を飲み込むのが辛いため、利男が買ってきた豆乳と白桃ゼリーをもらう。
これまで普通に食べられていたものなのに、ゼリーに入っている桃を噛むのにも時間を要した。
「……ね、センリ」
ふいに話をふられ、センリは意識をそふに向ける。
「なに?」
「ほら見て、近く。七里ヶ浜。先週取材したんですって」
祖母がテレビを指す。
テレビでは鎌倉夏のオススメのレジャースポットをめぐる! というローカル特番放送している。
ふたり組の男性がマイクを持って取材している。
音がやたらと尖って聞こえて、インタビューにテンション高く答える小学生たちの笑い声が甲高く、頭と耳が痛くなる。
(前は平気だったのに、子どもの声がうるさいなんて)
「センリ、どうしたの? 顔をしかめて。具合が悪いの?」
「だいじょうぶだよ、ばあちゃん。疲れただけ」
うまく笑顔をつくれなかったのか、センリを見るチヨは困った顔をする。
「風呂に浸かるのが嫌なら、せめてシャワーは浴びなさいね。たくさん歩いたし、汗を流さないとあせもになってしまうよ」
「……うん」
「着替えを用意しておくから、入ってきなさいな」
促されて脱衣所に向かうと、豆大福がついてきた。
エビのケリぐるみを咥えている。
『なーなぅー』
「マメ。お前風呂嫌いなのに、なんでいつもここで待つんだ」
『あおー』
脱いだ服を脱衣かごに入れると、待っていましたとばかりに豆大福がそこに入る。
頭を撫でてやってから風呂場に入った。
シャワーを浴びて、頭を振る。
服の脱ぎ着どころか起きていることすら疲れる。
風呂上がりには処方された薬を飲んで、早々に部屋に引き上げる。
初田から言われたことだ。
現状、普通の生活リズムを守ろうとするとかえって疲れるから、眠いときは寝ていいし、食べるのも食べられると思ったとき口にしなさいと。
それから家にあった余り物のノートを開き、日記を書く。
これも初田に言われたこと。
「一言でいいから、その日あったことを記しましょう。ぐちでも何でもいいです。自分でも日々の変化がわかります。うちに来ている患者さんで、闘病記録を五年続けている人もいます」
治療の助けになればと、センリは日記を書く。
ーー会社がやすみになって、しょうじき安心した。センパイのかおをみるのはつかれる。しにたいくらい、つかれる。
ノートを閉じて布団に横になれば、豆大福がくっついてくる。毎晩一緒に寝るのは、子猫のときから変わらない習慣だ。
豆大福はセンリが高校一年生のときに見つけた。
帰宅途中、空き地の草むらの中に、タオルにくるまれた生まれたての子猫が数匹。
息をしているのはこの子だけだった。
センリはハンカチでくるんで連れ帰り、夕飯の支度をしていたチヨに頭を下げた。
「ごめん、ばあちゃん。この先ずっとおこづかい要らないから、そのお金でこの子を置いてやって」
チヨも利男もすぐ動物病院に連れて行ってくれて、その日の夜に名前を考える会が開かれた。
三人で考えた案をティッシュの空き箱に入れて、引き当てた名前はチヨの案・豆大福。
略してマメと呼んでいるから、豆大福自身も自分の名前はマメだと思っているフシがある。
右にいたと思ったらセンリを踏み越えて反対側に移動する。今日は、お腹のところが一番落ち着くのか、前足で寝床を整えて丸くなった。
背中をなでてやり、センリは目を瞑る。
「猫はいいな、いつでもすぐ眠れて」
疲れていてすごく眠りたいのに、なかなか眠気がこない。部屋の電気を消すと、窓の外の音が鮮明に聞き取れる。
風が木々を揺する音。
さざなみのように擦れ合う木の葉の音。
家の前の道路を車が通り過ぎる音。
子どもたちが走る音。
これまでこんなにも、音に敏感だったことはない。
センリがうつになる前からたしかにそこにある音なのに、聞こうとしていたことがなかった。
(気づかなかった。僕以外の世界は、つねに動いている)
世界に反して、センリの機能は退行している。
ご飯を食べること。
漢字を書くこと。
起きて働くこと。
少し前までは、できて当然だった。
症状がすすんでいたら、ここからどさらに減っていたのか。
『なぅー』
「大丈夫だよ、マメ」
センリは眠れなくてもそのまま横になる。布団の中にいれば、起きているよりは楽だから。
「センリ。職場の人にも聞いて、食べられそうなものを買ってきたぞ。好きなのを選べ。日持ちするやつだから、好きな日に食えるだろう」
利男はスーパーのレジ袋を掲げてみせる。
半透明の側面から見えるだけでも、茶碗蒸し、フルーツゼリー、フルーツ豆乳、トマトジュース、魚のペースト。盛りだくさんだ。
休職することになったことは、診療のあとすぐにチヨがメッセージで伝えていた。
仕事できなくなることを叱ることなく、こうして気遣われて、センリは申し訳なさでいっぱいになった。
「……余計な手間かけて、ごめん」
センリが謝ると利男はぽんとセンリの頭に手を乗せる。幼い頃センリにそうしていたように、グシグシと力強くなでる。
「謝らなくていいんだよ。お前は俺たちの大事な家族なんだから」
都合がつくならみんなでごはんを食べる。
それが利男の決めた、秤家唯一の家訓だ。
センリは固形物を飲み込むのが辛いため、利男が買ってきた豆乳と白桃ゼリーをもらう。
これまで普通に食べられていたものなのに、ゼリーに入っている桃を噛むのにも時間を要した。
「……ね、センリ」
ふいに話をふられ、センリは意識をそふに向ける。
「なに?」
「ほら見て、近く。七里ヶ浜。先週取材したんですって」
祖母がテレビを指す。
テレビでは鎌倉夏のオススメのレジャースポットをめぐる! というローカル特番放送している。
ふたり組の男性がマイクを持って取材している。
音がやたらと尖って聞こえて、インタビューにテンション高く答える小学生たちの笑い声が甲高く、頭と耳が痛くなる。
(前は平気だったのに、子どもの声がうるさいなんて)
「センリ、どうしたの? 顔をしかめて。具合が悪いの?」
「だいじょうぶだよ、ばあちゃん。疲れただけ」
うまく笑顔をつくれなかったのか、センリを見るチヨは困った顔をする。
「風呂に浸かるのが嫌なら、せめてシャワーは浴びなさいね。たくさん歩いたし、汗を流さないとあせもになってしまうよ」
「……うん」
「着替えを用意しておくから、入ってきなさいな」
促されて脱衣所に向かうと、豆大福がついてきた。
エビのケリぐるみを咥えている。
『なーなぅー』
「マメ。お前風呂嫌いなのに、なんでいつもここで待つんだ」
『あおー』
脱いだ服を脱衣かごに入れると、待っていましたとばかりに豆大福がそこに入る。
頭を撫でてやってから風呂場に入った。
シャワーを浴びて、頭を振る。
服の脱ぎ着どころか起きていることすら疲れる。
風呂上がりには処方された薬を飲んで、早々に部屋に引き上げる。
初田から言われたことだ。
現状、普通の生活リズムを守ろうとするとかえって疲れるから、眠いときは寝ていいし、食べるのも食べられると思ったとき口にしなさいと。
それから家にあった余り物のノートを開き、日記を書く。
これも初田に言われたこと。
「一言でいいから、その日あったことを記しましょう。ぐちでも何でもいいです。自分でも日々の変化がわかります。うちに来ている患者さんで、闘病記録を五年続けている人もいます」
治療の助けになればと、センリは日記を書く。
ーー会社がやすみになって、しょうじき安心した。センパイのかおをみるのはつかれる。しにたいくらい、つかれる。
ノートを閉じて布団に横になれば、豆大福がくっついてくる。毎晩一緒に寝るのは、子猫のときから変わらない習慣だ。
豆大福はセンリが高校一年生のときに見つけた。
帰宅途中、空き地の草むらの中に、タオルにくるまれた生まれたての子猫が数匹。
息をしているのはこの子だけだった。
センリはハンカチでくるんで連れ帰り、夕飯の支度をしていたチヨに頭を下げた。
「ごめん、ばあちゃん。この先ずっとおこづかい要らないから、そのお金でこの子を置いてやって」
チヨも利男もすぐ動物病院に連れて行ってくれて、その日の夜に名前を考える会が開かれた。
三人で考えた案をティッシュの空き箱に入れて、引き当てた名前はチヨの案・豆大福。
略してマメと呼んでいるから、豆大福自身も自分の名前はマメだと思っているフシがある。
右にいたと思ったらセンリを踏み越えて反対側に移動する。今日は、お腹のところが一番落ち着くのか、前足で寝床を整えて丸くなった。
背中をなでてやり、センリは目を瞑る。
「猫はいいな、いつでもすぐ眠れて」
疲れていてすごく眠りたいのに、なかなか眠気がこない。部屋の電気を消すと、窓の外の音が鮮明に聞き取れる。
風が木々を揺する音。
さざなみのように擦れ合う木の葉の音。
家の前の道路を車が通り過ぎる音。
子どもたちが走る音。
これまでこんなにも、音に敏感だったことはない。
センリがうつになる前からたしかにそこにある音なのに、聞こうとしていたことがなかった。
(気づかなかった。僕以外の世界は、つねに動いている)
世界に反して、センリの機能は退行している。
ご飯を食べること。
漢字を書くこと。
起きて働くこと。
少し前までは、できて当然だった。
症状がすすんでいたら、ここからどさらに減っていたのか。
『なぅー』
「大丈夫だよ、マメ」
センリは眠れなくてもそのまま横になる。布団の中にいれば、起きているよりは楽だから。