夢で満ちたら
ユメが来る日の朝。
ミチルは久しぶりに目覚まし時計をセットして早起きした。
玄関先で母が新聞の束をしばっていて、ミチルに気づくと顔を上げる。
「おはよう、ミチル。悪いんだけど、ゴミ捨ての手伝いをお願いできる? 今日は新聞と雑誌の日だから量が多くて」
「わかった」
ふと見ると、アジアン雑貨ショップのガイドブックや、鎌倉街歩きといった雑誌が積んである。
発行日は五年前から去年くらいまでけっこうな冊数がある。そしてなぜか表紙の一部が切り取られている。
蛇場見家はミチルと両親の三人暮らしで、母の趣味ではないし父もガイドブックに興味を持つ人間ではない。
ミチルも買った覚えがない。
母が友達にもらったのかもしれない。そう思って深く考えず、集積所に運んだ。
朝食の席に座ったのはだいぶ久しぶりだ。数ヶ月ぶりに娘の顔を見たというのに、父ときたら小言をいう。
「今日から沙優さんのところの娘が来るんだろう。ミチル。どこかのバカみたいな道を辿らないようきちんと勉強を教えておけよ」
「……うん」
どこかのバカ、というのは父の弟のことである。
もう二十年以上前。ミチルの叔父は夢を追うため、高校を中退して家を飛び出してしまったそうだ。
父が学歴学歴とうるさくいうのは、実の弟が不安定な道を選んだからというのもある。
「大学を出れば公務員なり大手企業なり、いい職に就いて安定した収入を得られるんだ」
県内指折りの企業に勤めている父に言われると、ぐうの音も出ない。
ミチルは言いたいこと何もかも、ご飯と一緒に飲みこんだ。
父が出勤してまもなく、チャイムが鳴った。
「えへへ。ミチルちゃん、久しぶり! 来たよ!」
元気よく現れたのは、高校生になったユメだ。
大きな旅行カバンを二つ両脇に下げて満面の笑みを浮かべる。
ショートヘア、半袖Tシャツ、デニムのホットパンツ。どれもユメにとてもよく似合っている。
「家庭教師受けてくれてありがとうねー」
「ああ、うん」
母が早速二人分の麦茶を用意してくれる。
ユメは麦茶を一気飲みして、リビングの床にどさりとカバンを下ろす。服だけでも結構な量があるから、三日以上滞在する気マンマンなのがわかる。
ミチルはとりあえず座布団に座り、ユメの現状を確認する。
「勉強が苦手としか聞いていないんだけど、どこがわからないの?」
「んー。ぜんぶ。これ前回のテストなんだけどねー。五教科合計で100点なの」
ドヤ! と出された答案用紙は、国語30点、英語24点、数学20点、現代社会16点、科学10点。一枚出すごとにどんどん下がっていって、10点を見た時には背筋が震えた。
どれも赤点。ミチルはこんな点数、とったことが無い。
赤点大王の本人はあっけらかんとしている。
「……………よく三年生になれたね」
「担任のしょーちゃんにも言われたー。皆勤賞なのが唯一の救いだって」
担任教師に同情する。皆勤賞なのにこの点数じゃ、授業でなに聞いてんだと言われるのも仕方ない。
汗をかいたグラスの中で、氷がビキリと音を立てる。
「わからないところがわからないの。春にお母さんが塾通わせてくれてたんだけどね、塾の先生に「最低限高校の勉強ができるようになってから来てください」って泣かれた」
「そうだろうね……」
この成績では、大学受験は絶対無理だし高校卒業できるかどうか怪しいところだ。
家庭教師を引き受けた以上は、最低でもどの教科も赤点を免れるまでにはしてあげないといけない気がする。
ミチルはまず、ユメがわからないところまで戻ることから始めることにした。
中三の時から高三までのテキストが本棚に残っているから、それを全てリビングに運んだ。
テキスト付録の練習問題テストをユメに解いてもらい、採点する。
明らかになったのは、数学と英語が中三の段階でつまずいているということ。
中三の数学で50点、英語で46点。国語は68点なのでまあまあ救済できそう。
練習テスト三枚やったところで、ユメはテーブルに頬をくっつけて伸び切っている。
「もー疲れたよう。ミチルちゃん今日はここまでにしようよ」
「まだ二時間経ってないよ、ユメ」
「閉店がらがらー。今日のユメちゃんは終了しました」
口を尖らせて膨れている。やる気スイッチは完全に切れている。
洗濯しながら様子を見ていた母は、こっそり笑っている。
ユメはテーブルに頬をくっつけたまま、片手でテキストをつまんでページを開いて閉じて繰り返す。
「……あたし思うんだけどさ。義務キョーイクじゃないのに、なんで高校行かないといけないんだろ。分数の割り算とか、二次関数とかさ、生活で使わなくない? 伯母ちゃんもさ、社会に出てから使ってる?」
「使っては、いないわね」
母も話を振られたけれど「実生活で使わないけどそれが授業で学ぶことだから勉強なさい」が出てこない。
「ミチルちゃん、たしか伯父さんの弟さんは高校中退して家を出てったんでしょ。夢を追って」
「そうみたい。自分の好きなものを集めたセレクトショップを作るんだって言って、飛び出したって。バカなことする弟だ……って酔うたびに言うんだ」
親族の集まりで酒が入ると、父の愚痴は決まって家を出ていった弟・歩 さんの話だ。
実家を捨ててまで追いたい夢があるなんて、羨ましくなる。
ミチルは父に言われるまま勉強しかしてこなかった結果、大学を卒業した今でも自分のしたいことがわからない。
今頃、叔父はどこでなにをしているんだろう。
夢破れて大人しくただの会社員になったのか、ホームレスになったのか、それとも。
「いいなあ。あたしも高校やめてどっか飛び出したいよー」
「あてもなく飛び出したら路頭に迷うよ、ユメ」
「ぶーぶー」
現実問題として、目標もなく家出したってホームレス一直線待ったなし。
「大卒したって就活でめちゃくちゃ落ちまくったんだから、せめて高校は出とかないと、バイト探すのだって困るよ」
「ムー。大人になるってつまらないことだったんだね。やりたくもないのに意味のない勉強しなきゃでさ。あたし、大きくなったら楽しいことばかり待ってると思ってたのにな。雲になって、風になって、猫になって、鳥になって……何にでもなれるって」
ユメが盛大なため息とともにつぶやく言葉に、ミチルも心から同意する。
手を繋いで空を見上げていたあの頃は、根拠もなく、なににだってなれる気がしていた。
ミチルは久しぶりに目覚まし時計をセットして早起きした。
玄関先で母が新聞の束をしばっていて、ミチルに気づくと顔を上げる。
「おはよう、ミチル。悪いんだけど、ゴミ捨ての手伝いをお願いできる? 今日は新聞と雑誌の日だから量が多くて」
「わかった」
ふと見ると、アジアン雑貨ショップのガイドブックや、鎌倉街歩きといった雑誌が積んである。
発行日は五年前から去年くらいまでけっこうな冊数がある。そしてなぜか表紙の一部が切り取られている。
蛇場見家はミチルと両親の三人暮らしで、母の趣味ではないし父もガイドブックに興味を持つ人間ではない。
ミチルも買った覚えがない。
母が友達にもらったのかもしれない。そう思って深く考えず、集積所に運んだ。
朝食の席に座ったのはだいぶ久しぶりだ。数ヶ月ぶりに娘の顔を見たというのに、父ときたら小言をいう。
「今日から沙優さんのところの娘が来るんだろう。ミチル。どこかのバカみたいな道を辿らないようきちんと勉強を教えておけよ」
「……うん」
どこかのバカ、というのは父の弟のことである。
もう二十年以上前。ミチルの叔父は夢を追うため、高校を中退して家を飛び出してしまったそうだ。
父が学歴学歴とうるさくいうのは、実の弟が不安定な道を選んだからというのもある。
「大学を出れば公務員なり大手企業なり、いい職に就いて安定した収入を得られるんだ」
県内指折りの企業に勤めている父に言われると、ぐうの音も出ない。
ミチルは言いたいこと何もかも、ご飯と一緒に飲みこんだ。
父が出勤してまもなく、チャイムが鳴った。
「えへへ。ミチルちゃん、久しぶり! 来たよ!」
元気よく現れたのは、高校生になったユメだ。
大きな旅行カバンを二つ両脇に下げて満面の笑みを浮かべる。
ショートヘア、半袖Tシャツ、デニムのホットパンツ。どれもユメにとてもよく似合っている。
「家庭教師受けてくれてありがとうねー」
「ああ、うん」
母が早速二人分の麦茶を用意してくれる。
ユメは麦茶を一気飲みして、リビングの床にどさりとカバンを下ろす。服だけでも結構な量があるから、三日以上滞在する気マンマンなのがわかる。
ミチルはとりあえず座布団に座り、ユメの現状を確認する。
「勉強が苦手としか聞いていないんだけど、どこがわからないの?」
「んー。ぜんぶ。これ前回のテストなんだけどねー。五教科合計で100点なの」
ドヤ! と出された答案用紙は、国語30点、英語24点、数学20点、現代社会16点、科学10点。一枚出すごとにどんどん下がっていって、10点を見た時には背筋が震えた。
どれも赤点。ミチルはこんな点数、とったことが無い。
赤点大王の本人はあっけらかんとしている。
「……………よく三年生になれたね」
「担任のしょーちゃんにも言われたー。皆勤賞なのが唯一の救いだって」
担任教師に同情する。皆勤賞なのにこの点数じゃ、授業でなに聞いてんだと言われるのも仕方ない。
汗をかいたグラスの中で、氷がビキリと音を立てる。
「わからないところがわからないの。春にお母さんが塾通わせてくれてたんだけどね、塾の先生に「最低限高校の勉強ができるようになってから来てください」って泣かれた」
「そうだろうね……」
この成績では、大学受験は絶対無理だし高校卒業できるかどうか怪しいところだ。
家庭教師を引き受けた以上は、最低でもどの教科も赤点を免れるまでにはしてあげないといけない気がする。
ミチルはまず、ユメがわからないところまで戻ることから始めることにした。
中三の時から高三までのテキストが本棚に残っているから、それを全てリビングに運んだ。
テキスト付録の練習問題テストをユメに解いてもらい、採点する。
明らかになったのは、数学と英語が中三の段階でつまずいているということ。
中三の数学で50点、英語で46点。国語は68点なのでまあまあ救済できそう。
練習テスト三枚やったところで、ユメはテーブルに頬をくっつけて伸び切っている。
「もー疲れたよう。ミチルちゃん今日はここまでにしようよ」
「まだ二時間経ってないよ、ユメ」
「閉店がらがらー。今日のユメちゃんは終了しました」
口を尖らせて膨れている。やる気スイッチは完全に切れている。
洗濯しながら様子を見ていた母は、こっそり笑っている。
ユメはテーブルに頬をくっつけたまま、片手でテキストをつまんでページを開いて閉じて繰り返す。
「……あたし思うんだけどさ。義務キョーイクじゃないのに、なんで高校行かないといけないんだろ。分数の割り算とか、二次関数とかさ、生活で使わなくない? 伯母ちゃんもさ、社会に出てから使ってる?」
「使っては、いないわね」
母も話を振られたけれど「実生活で使わないけどそれが授業で学ぶことだから勉強なさい」が出てこない。
「ミチルちゃん、たしか伯父さんの弟さんは高校中退して家を出てったんでしょ。夢を追って」
「そうみたい。自分の好きなものを集めたセレクトショップを作るんだって言って、飛び出したって。バカなことする弟だ……って酔うたびに言うんだ」
親族の集まりで酒が入ると、父の愚痴は決まって家を出ていった弟・
実家を捨ててまで追いたい夢があるなんて、羨ましくなる。
ミチルは父に言われるまま勉強しかしてこなかった結果、大学を卒業した今でも自分のしたいことがわからない。
今頃、叔父はどこでなにをしているんだろう。
夢破れて大人しくただの会社員になったのか、ホームレスになったのか、それとも。
「いいなあ。あたしも高校やめてどっか飛び出したいよー」
「あてもなく飛び出したら路頭に迷うよ、ユメ」
「ぶーぶー」
現実問題として、目標もなく家出したってホームレス一直線待ったなし。
「大卒したって就活でめちゃくちゃ落ちまくったんだから、せめて高校は出とかないと、バイト探すのだって困るよ」
「ムー。大人になるってつまらないことだったんだね。やりたくもないのに意味のない勉強しなきゃでさ。あたし、大きくなったら楽しいことばかり待ってると思ってたのにな。雲になって、風になって、猫になって、鳥になって……何にでもなれるって」
ユメが盛大なため息とともにつぶやく言葉に、ミチルも心から同意する。
手を繋いで空を見上げていたあの頃は、根拠もなく、なににだってなれる気がしていた。