夢で満ちたら
家を出た駆は、軽く柔軟してから走った。
最寄り駅まで徒歩なら十分ほど。
踏み出すたびに、ポケットに入れた宝箱がカシャカシャと音を立てる。
いつもはスマホとハンカチくらいしか入れていないから、右側だけやけに重く感じる。
三十年という時を経た分、箱はやや色あせている。けれど、メダルはあの日の輝きを保っている。
親が駆の賞状やメダルを全部捨てたように、歩もとっくにメダルを捨てたと思っていた。
夢を追いたいと言う歩の背中に、「現実を見ろ、お前にできるわけない」と暴言を吐いた兄のことなんて、嫌いになっていると思っていた。
歩に会いに行ったら負けた気がするなんて、意地をはっていた自分が馬鹿みたいだった。
駅の改札にスマホをかざしせば、交通電子マネーアプリが反応してゲートが開く。
電光掲示板に光る文字を見上げれば、あと五分で鎌倉方面行きが入る。
車両扉の位置を示すマークのところで息を落ち着ける。
たった五分走っただけでこんなに息が上がる。
三十年という|空白《ブランク》は大きいのだと身を持って感じる。
真夏の夕方はまだ空が明るくて、薄紫色をしている。
頬を撫でる風は生ぬるい。
スーツ姿ということもあって、汗が引くどころか、さらに汗が吹き出す。
でも、なんて心地いいのだろう。
海風を浴びながら、早朝の少しずつ明るくなっていく空を見ながら走るのが好きだった。
通学定期を買ってもらっていたのに、登校するときはわざわざ海岸線を走っていた。
十二月でもサーフィンを楽しむ猛者がいたり、犬の散歩をしている老人と軽く挨拶を交わしたり。
一度走ってしまうと、陸上部だった頃の記憶が次々呼び起こされていく。
毎日タイムを伸ばすことだけを考えて走っていた。
オリンピックにだって行ける自信があった。
運動会のときは歩が応援に来ていた。
ゴール前でお手製の旗を振っていたのが恥ずかしくて、誇らしくもあった。
電車に乗り込み手すりに掴まり、自身に問いかける。
(なんで俺は、夢を捨てちゃったんだろうな。自分が親父たちに捨てられても、夢を手放すべきじゃなかった)
電車が鎌倉駅について、急いで改札をくぐる。
一度も行ったことはなくても、何度も地図で見ていたから場所がわかる。
|ゴール《ワンダーウォーカー》目指して再び走る。
商店街には仕事帰りのサラリーマンの姿がちらほら。夏休み期間がだから、遊び足りないらしい学生がカフェに並ぶ姿もある。
ワンダーウォーカーのショーウインドウには、民族衣装や外国のティーセット、香炉などが並んでいる。
店自体が歩の宝箱なのかもしれない。
「……ガキの頃から好みが変わってないんだな」
扉には定休日の札が下がっている。
休みだから当然、店内の電気もついていない。
店の場所は知っていても、現住所までは知らない。店舗兼住居タイプの物件でない限りは、今日ここにいない。
SNSをやっていないから連絡が取れないし、どうしたものか。
「ごめんなさいね。今日は定休日なのよ」
背後から声が聞こえた。
男の声なのに、語り口は女性のよう。
「歩……」
振り返ると、二十四年ぶりに会う弟がそこにいた。
最後に会ったときよりも背が高い。
瞳はカラーコンタクトで青に、髪は鮮やかなライトブルーに染まっている。
ネイルアートで彩った指先、薄化粧もしていて、子供の頃よりずっと生き生きした表情を浮かべていた。
親に押し付けられる「男らしさ」より、「自分らしさ」を選んだ立派な大人だ。
「買い物に来たわけではないのでしょう。アタシになんの用なの、兄貴」
歩は笑顔なのに、どこか挑発的な口調で聞いてくる。お兄ちゃん大好きっ子だった小学生の頃の面影なんて、欠片もない。
それも当たり前だ。
二人とも、現実を知ったいい大人だ。
お互いの夢を話して笑っていたあの頃に、戻れやしない。
駆が夢を諦めたあの日から、歩は駆を“兄さん”と呼ばなくなった。
夢を追っていた駆と諦めた駆は別人だとでも言うように、兄貴と呼んだ。
駆はポケットから宝箱を出して、歩に押し付ける。
「俺がせっかくやったものを返すな馬鹿」
歩は何度か目を瞬かせたものの、宝箱を受け取って口角を上げる。
「あら。馬鹿って言う方が馬鹿なのよ。駆って名前なのに、ここまで来るに五年もかかるなんて、名前負けもいいところだわ。ウサギとカメのカメより歩みが遅いじゃない。アタシと名前を交換する?」
「しばらく会わないうちに随分生意気な口をきくようになったなぁ。駆と名乗りたいなら、短距離走で一度でも俺に勝ってから言え」
歩も駆ももういい年なのに、子どもの頃と変わらない口論が繰り広げられる。
しかもここは商店街で、まだ人通りがある。通行人が何事かとこちらを見ている。
なのに二人とも止まらない。
長い間会っていないから、互いに言ってやりたいあれこれが溜まっていた。
「そっちこそ。アタシはまだ次のメダルをもらってないわよ? いつになったら持ってきてくれるのかしら。インターハイは通過点に過ぎないって言ったじゃない」
「馬鹿言え。背広と革靴は、走るのに向かない」
走って痛感している。背広も革靴も、オフィスで着るためのものであり、全速力で走るために作られたものではない。
駆の答えを聞いて、歩はお腹を抱えて笑い出す。
「あははははっ。そうよ。自分でも本当はわかっているんでしょ。兄貴に似合うのは、背広でなくてユニフォームとスニーカーよ。アタシは次のメダルをもらうために、ちゃんとゴールで待っていたんだから」
「くそ。余計な真似を。歩のせいで俺は陸上大会に出る羽目になったんだからな。ユメが「走れないなら近所のおじいちゃん以下」って言いやがるから」
売り言葉に買い言葉で引っ込みがつかなくなったとはいえ、原因の一端が歩だというのが腹立たしい。
歩がミチルにメダルを渡したりしなければ、走るのが好きだったことを思い出したりせず済んだのだ。
「あらあら。やるわねあの子。ちょっとおバカさんだけど勢いがあって、見ていて面白いわ。将来大物になるわよー」
「…………アイツは後先考えないで失敗するクチだろうから、軽々しくお前を真似してほしくない」
向こう見ずというかなんというか、石橋どころかボロの吊り橋でも全力で駆け抜けて、基礎ごと川に落としそうなところがある。
「勢いで飛び出せるのは若さゆえよ。大人になると下手に知恵がつくから言い訳ばかり探して、できないことが増えていくもの」
「……そうだな」
子どもの頃はなんにでもなれると信じていられた。
大人になれば、金銭面ではできることが増える。
なのに、大人になるにつれて「無理に決まっている、できっこない」が口ぐせになっていく。
はなから無理だと思って、夢を見ることすらしなくなる。
駆自身がそうだ。
無理に決まっていると言って自分を無理やり納得させて、ここまできた。
歩は宝箱を両手で包み込んで、心から嬉しそうに笑う。
「アタシはずっと、待っていた。“駆兄さん”がまた笑えるようになる日を。……大会の日取りがわかったら教えてね。約束したでしょう。賞状でもメダルでも、お店に飾って自慢するの。アタシの兄さんは、チーターより速いって」
歩は子どもの頃の馬鹿みたいな約束を、今も信じて待っていた。
歩が店を開いたのは、駆の夢もそこに繋がっているから。
(そんなことを言われたら、もう、何がなんでも賞を取ってくるしかないじゃないか)
ずっと心のどこかで羨ましくて、妬ましくて、憎かったのに。
やっと、素直に口から出てきた。
「そうだな。次来るときにはメダルなり賞状なり持ってくる。…………開店おめでとう、歩」
「ありがとう、兄さん。ゴールで待っているわ」
歩も幼い頃のように、ふわりと微笑んだ。
最寄り駅まで徒歩なら十分ほど。
踏み出すたびに、ポケットに入れた宝箱がカシャカシャと音を立てる。
いつもはスマホとハンカチくらいしか入れていないから、右側だけやけに重く感じる。
三十年という時を経た分、箱はやや色あせている。けれど、メダルはあの日の輝きを保っている。
親が駆の賞状やメダルを全部捨てたように、歩もとっくにメダルを捨てたと思っていた。
夢を追いたいと言う歩の背中に、「現実を見ろ、お前にできるわけない」と暴言を吐いた兄のことなんて、嫌いになっていると思っていた。
歩に会いに行ったら負けた気がするなんて、意地をはっていた自分が馬鹿みたいだった。
駅の改札にスマホをかざしせば、交通電子マネーアプリが反応してゲートが開く。
電光掲示板に光る文字を見上げれば、あと五分で鎌倉方面行きが入る。
車両扉の位置を示すマークのところで息を落ち着ける。
たった五分走っただけでこんなに息が上がる。
三十年という|空白《ブランク》は大きいのだと身を持って感じる。
真夏の夕方はまだ空が明るくて、薄紫色をしている。
頬を撫でる風は生ぬるい。
スーツ姿ということもあって、汗が引くどころか、さらに汗が吹き出す。
でも、なんて心地いいのだろう。
海風を浴びながら、早朝の少しずつ明るくなっていく空を見ながら走るのが好きだった。
通学定期を買ってもらっていたのに、登校するときはわざわざ海岸線を走っていた。
十二月でもサーフィンを楽しむ猛者がいたり、犬の散歩をしている老人と軽く挨拶を交わしたり。
一度走ってしまうと、陸上部だった頃の記憶が次々呼び起こされていく。
毎日タイムを伸ばすことだけを考えて走っていた。
オリンピックにだって行ける自信があった。
運動会のときは歩が応援に来ていた。
ゴール前でお手製の旗を振っていたのが恥ずかしくて、誇らしくもあった。
電車に乗り込み手すりに掴まり、自身に問いかける。
(なんで俺は、夢を捨てちゃったんだろうな。自分が親父たちに捨てられても、夢を手放すべきじゃなかった)
電車が鎌倉駅について、急いで改札をくぐる。
一度も行ったことはなくても、何度も地図で見ていたから場所がわかる。
|ゴール《ワンダーウォーカー》目指して再び走る。
商店街には仕事帰りのサラリーマンの姿がちらほら。夏休み期間がだから、遊び足りないらしい学生がカフェに並ぶ姿もある。
ワンダーウォーカーのショーウインドウには、民族衣装や外国のティーセット、香炉などが並んでいる。
店自体が歩の宝箱なのかもしれない。
「……ガキの頃から好みが変わってないんだな」
扉には定休日の札が下がっている。
休みだから当然、店内の電気もついていない。
店の場所は知っていても、現住所までは知らない。店舗兼住居タイプの物件でない限りは、今日ここにいない。
SNSをやっていないから連絡が取れないし、どうしたものか。
「ごめんなさいね。今日は定休日なのよ」
背後から声が聞こえた。
男の声なのに、語り口は女性のよう。
「歩……」
振り返ると、二十四年ぶりに会う弟がそこにいた。
最後に会ったときよりも背が高い。
瞳はカラーコンタクトで青に、髪は鮮やかなライトブルーに染まっている。
ネイルアートで彩った指先、薄化粧もしていて、子供の頃よりずっと生き生きした表情を浮かべていた。
親に押し付けられる「男らしさ」より、「自分らしさ」を選んだ立派な大人だ。
「買い物に来たわけではないのでしょう。アタシになんの用なの、兄貴」
歩は笑顔なのに、どこか挑発的な口調で聞いてくる。お兄ちゃん大好きっ子だった小学生の頃の面影なんて、欠片もない。
それも当たり前だ。
二人とも、現実を知ったいい大人だ。
お互いの夢を話して笑っていたあの頃に、戻れやしない。
駆が夢を諦めたあの日から、歩は駆を“兄さん”と呼ばなくなった。
夢を追っていた駆と諦めた駆は別人だとでも言うように、兄貴と呼んだ。
駆はポケットから宝箱を出して、歩に押し付ける。
「俺がせっかくやったものを返すな馬鹿」
歩は何度か目を瞬かせたものの、宝箱を受け取って口角を上げる。
「あら。馬鹿って言う方が馬鹿なのよ。駆って名前なのに、ここまで来るに五年もかかるなんて、名前負けもいいところだわ。ウサギとカメのカメより歩みが遅いじゃない。アタシと名前を交換する?」
「しばらく会わないうちに随分生意気な口をきくようになったなぁ。駆と名乗りたいなら、短距離走で一度でも俺に勝ってから言え」
歩も駆ももういい年なのに、子どもの頃と変わらない口論が繰り広げられる。
しかもここは商店街で、まだ人通りがある。通行人が何事かとこちらを見ている。
なのに二人とも止まらない。
長い間会っていないから、互いに言ってやりたいあれこれが溜まっていた。
「そっちこそ。アタシはまだ次のメダルをもらってないわよ? いつになったら持ってきてくれるのかしら。インターハイは通過点に過ぎないって言ったじゃない」
「馬鹿言え。背広と革靴は、走るのに向かない」
走って痛感している。背広も革靴も、オフィスで着るためのものであり、全速力で走るために作られたものではない。
駆の答えを聞いて、歩はお腹を抱えて笑い出す。
「あははははっ。そうよ。自分でも本当はわかっているんでしょ。兄貴に似合うのは、背広でなくてユニフォームとスニーカーよ。アタシは次のメダルをもらうために、ちゃんとゴールで待っていたんだから」
「くそ。余計な真似を。歩のせいで俺は陸上大会に出る羽目になったんだからな。ユメが「走れないなら近所のおじいちゃん以下」って言いやがるから」
売り言葉に買い言葉で引っ込みがつかなくなったとはいえ、原因の一端が歩だというのが腹立たしい。
歩がミチルにメダルを渡したりしなければ、走るのが好きだったことを思い出したりせず済んだのだ。
「あらあら。やるわねあの子。ちょっとおバカさんだけど勢いがあって、見ていて面白いわ。将来大物になるわよー」
「…………アイツは後先考えないで失敗するクチだろうから、軽々しくお前を真似してほしくない」
向こう見ずというかなんというか、石橋どころかボロの吊り橋でも全力で駆け抜けて、基礎ごと川に落としそうなところがある。
「勢いで飛び出せるのは若さゆえよ。大人になると下手に知恵がつくから言い訳ばかり探して、できないことが増えていくもの」
「……そうだな」
子どもの頃はなんにでもなれると信じていられた。
大人になれば、金銭面ではできることが増える。
なのに、大人になるにつれて「無理に決まっている、できっこない」が口ぐせになっていく。
はなから無理だと思って、夢を見ることすらしなくなる。
駆自身がそうだ。
無理に決まっていると言って自分を無理やり納得させて、ここまできた。
歩は宝箱を両手で包み込んで、心から嬉しそうに笑う。
「アタシはずっと、待っていた。“駆兄さん”がまた笑えるようになる日を。……大会の日取りがわかったら教えてね。約束したでしょう。賞状でもメダルでも、お店に飾って自慢するの。アタシの兄さんは、チーターより速いって」
歩は子どもの頃の馬鹿みたいな約束を、今も信じて待っていた。
歩が店を開いたのは、駆の夢もそこに繋がっているから。
(そんなことを言われたら、もう、何がなんでも賞を取ってくるしかないじゃないか)
ずっと心のどこかで羨ましくて、妬ましくて、憎かったのに。
やっと、素直に口から出てきた。
「そうだな。次来るときにはメダルなり賞状なり持ってくる。…………開店おめでとう、歩」
「ありがとう、兄さん。ゴールで待っているわ」
歩も幼い頃のように、ふわりと微笑んだ。