マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 二月の終わり、松のもとに実家から手紙が来た。
 ついに、ついに遺産の話をするという。
 電気がつかなくなった家の中で、手紙を握りしめて松は狂喜乱舞した。

「ああ、ああ、死んだのね。あのクソジジイが! いくらもらえるのかしら。五百万? それとも一千万? まあ百万円単位が入るのは間違いないわよね。こんなに嬉しいことはないわ!」
「そうに違いないよ母さん。遺産が入れば携帯代も払える。SNSできないのマジきついしー。アタシの分もあるよね絶対! 爺さん家は一軒家だし、あれを売るなら少なくても三百万はもらえるはず」

 キララも口の端を持ち上げて笑う。
 公共料金が支払えなくなって丸一ヶ月以上が経過した。
 電気とガスは止められ、支払いの請求書が届いている。
 携帯電話も今月分の利用料金も払えなかったため、強制解約処分までカウントダウンが始まっている状態だ。
 水道は辛うじて使えるが、来月も未納だった場合、水も使えなくなる。

 家のローンも、松の口座から引き落とされる形になっていたから、静の口座から金を移せなくなったせいで二ヶ月滞納している。
 督促状に遅延損害金を加えた請求書も届いて、首が回らない状態だ。
 家を買うときに、松が少しでも節約するため、実を団体信用生命保険に加入させなかったのが原因だ。団信に加入していれば実の死後の返済がなくなることを知らなかった。

 唯一加入していた生命保険はおりるにはおりたが、入院費と葬儀代、キララの大学学費で消えた。


 静を追い出したあとキララは何社面接を受けても不採用。大卒で美貌の若い女というのは、かくも嫉妬されてしまうものなのだ。
 静が働いていた店ならまかないも出るし便利かと思ったが、店長はキララのバイト希望を断固拒否した。
「高校中退の静ですら時給千三百円もらえたのよ。キララちゃんなら時給三千円三食付きが妥当でしょ」と言っただけなのに。
 
(きっと、キララちゃんを雇わないよう静が言ったんだ。もしくはこの店長がキララちゃんの可愛さに嫉妬していて、キララちゃんを入店させたら、男たちがキララちゃんの可愛さに惑わされて仕事をしなくなってしまうと判断したのよ。あたしにそっくりで、ものすごい美人なんだもの)


 松にもキララにも、とにかくお金がなかった。
 お金がないのに生活レベルを落とせない。
 エステに行きたいしヘアサロンに行きたい。

 人気レストランの一日十食限定ランチも、遺産が入れば毎日食べられる。
 
 いち早く遺産の金額が知りたくて、手紙が届いたその日のうちに、なけなしの金でバスに乗り、実家最寄りのバス停で降りた。

 高校卒業まで住んでいたから、買って知ったる我が実家。
 松はチャイムも押さずに上がり込んだ。キララもそれにならう。

 居間にはすでに梅が来ていた。
 座卓には母のイヨが座っていて、梅はその向かいに座っている。イヨを睨んで、苛立たしげに座卓に肘をついていた。

「あ~疲れた。カフェラテないのカフェラテ。もしくはキャラメルマキアート」

 キララが畳の上に足を投げ出して、イヨに言う。
 イヨは聞こえていないのか、松たちのちらりとも見ずにスマホのカメラをテレビに向けている。
 テレビでおすすめ時短料理なんて特集をやっているから、レシピを撮影するんだろう。

「ちょっと母さん、失礼じゃない! キララちゃんが飲みたいっていってるでしょ。出しなさいよ!」

 松が声を荒らげてもテレビを注視して、返事ひとつしない。

「チャイムを押さずに勝手に上がり込んで、挨拶すらしないお前たちに失礼だなんて言われる筋合いはないよ。仏壇に手を合わせようっていう素振りすらみせない。なにか飲みたいなら自分で用意しな。コーヒーを淹れることすらできないなんて、お前たちの手足はなんのためについているんだい」

 ようやく口をきいたかと思えば説教してくる。嫌な女だ。

「実家なんだから好きにしてもいいじゃない。さっさと遺産よこしなさい。あるんでしょ! こっちは支払いの滞納がたくさんあって大変なのよ!」
「おいババア。松とキララが来るまでは話すことはないって言っていたじゃない。来たんだから話せ」
「そうだそうだ。アタシの取り分だってあるはずでしょ。ちょうだいよ」

 梅も我慢の限界で声を荒らげ、キララも援護する。
 イヨは眉をひそめ、深々とため息を吐く。

「遺産の話をするのはわたしじゃあないよ」

 イヨが言うのを待っていたように、イヨの背後、ふすまが開いた。
 松は心臓が止まるんじゃないかと思うくらい驚いた。
 死んだはずの父、和男がそこに立っていたのだ。

「な、なんで、生きて」
「そりゃあ生きているさ。病気が快癒して、十日で退院したからな」
「はぁあああああ!?」

 松と梅、キララの声が裏返る。
 死んで遺産を受け取れると思ったから来たのに、生きている。

「ざけんな、ジジイ。騙しやがったな! 遺産の話でなきゃこんなところに来ないっての!!」

 怒鳴る松を無視して、和男はイヨの隣に腰を下ろす。

「遺産の話をするとも。退院したあと、遺言書を作成して公証人に託した。だから、お前たちにも話しておこう」
「もったいぶらずに早く話しなさいよ」

 和男が出したのは、二枚の紙だ。
 松と梅に一枚ずつ。

 分配金額について書かれているはず。
 和男の手からひったくり、文面を見て目を疑った。

「推定相続人排除届け…………!? クソジジイ、まさかあたしたちに遺産を渡さないつもり!? 血を分けた娘なのに! 親なら子に金を渡せよ!」
「子どもだから無条件でもらえると思っていたのなら相当の阿呆だ。親が子に金を渡せ? お前、静に一円もやったことがないだろう。それどころか静を働かせて全額自分たちの遊ぶ金にしていた」

 矛盾点を指摘されて、松は唇を噛む。
 廃除届を力任せに破き、細切れにしてばらまく。

「ばーか! 粉々になっちまったからもう提出できないよ! これであたしの取り分は」
「それはコピー。もうとっくに役所に提出して、受理されている。これは決定事項だ。松と梅は遺産相続権を持たない。オレが申請すれば取り消しも可能だが、お前たちの行動は目に余る。入院しても見舞いをする気はない、葬式に出る気はないのに金だけ受け取れると思ったら大間違いだ」
「取り消せるなら取り消せ。アタシも松も金を受け取る権利がある! 遺言書を書き直せ!」

 梅が卓を蹴ってつかみかかってきても、和男は顔色を変えない。
 イヨに視線をやり、イヨはゆっくりと頷く。

「和男さんへの暴行、遺言書を書き直すよう脅迫……優一が録画してくれているわ。この証拠を警察と弁護士に提出すればどうなるか。あなたたちが聡明なら、わかるわよね。あなたたちは相続する権利を失ったの。それを理解できず、まだお金を寄越せと言うなら、すぐ警察に行くわ」

 イヨがずっと持っていたスマホは、テレビ通話で優一に繋がっていた。
 優一はパソコンの講師をしているから、画面録画をするのは容易い。
 データを破棄させようにも、優一の居場所を、連絡先を知らない。婚姻届に書かれていた電話番号はとっくに破棄されていた。

 静を優一のところにやった日から、全部がうまくいかなくなった。
 静の金を使えなくなったし、静と連絡が取れない。
 家事をさせることができないから家は汚れる一方。
 そのうえ、父の遺産相続人から排除されてしまった。
 あと一言でも遺産を寄越せと言ったら、イヨは本気で警察を呼び弁護士を雇う。
 慰謝料請求されたらいくら払うことになるんだろうか。

 本来の、正当な権利を主張することを許されない。
 なんて腹立たしい。

 キララはこんな状況でも、手の平を打ち合わせて笑う。

「それってー、廃除されたのは伯母さんと母さんだけでしょ。学校で習った気がする。排除されてないアタシはもらえるのよね」
「それは今後のキララの行い次第だ。自分で金を稼いで自立するなら、まだ可能性はあるが……これまで通り静や他の人間を足蹴にして生きるなら、廃除手続きをすることになる」

 金をもらえると喜んでいたのもつかの間。キララの笑顔も凍りついた。

「これで話は終わりだ。さあ、お前たちが望んでいた遺産の話は終わったから帰りなさい」

 くそったれ、と怒鳴り散らしたいのに、和男を気絶するまで殴りたいのにできない。したら最後、警察のお世話になる。下手をすれば罰金を取られて、さらに金を失う。

「…………待って、あたしと姉さんが廃除されたなら、あんたの金は誰が相続するの」
「子が相続権を失った場合、孫のキララに相続権が発生する、つまり静と優一も相続人になる。オレになにかすると警察行きになるのは当然だが、他の相続人……イヨと静と優一に危害を加えたり、金をよこせと言った場合も、法的措置を受けることになる」

 探偵に静の居所を突き止めさせて、静に金をよこすように言うことも、できない。
 
 もうどうしたって、松たちは金を取れない。
 和男からも、イヨからも、静と優一からも。

 寄生先を絶たれた松とキララに残った金は五百円に満たない。
 帰りのバス代に足りない。
 バスで一時間かかる距離を歩いて帰らなければならなかった。
 


 正月の寒空に無一文で放り出された静と、同じ状況だ。
 あの日の静と違うのは、電話が使えないこと。

 二人の胸中にあるのは、自分に金をくれなかった人たちへの怒りと憎しみ。

(なんであたしたちがこんな扱いを受けなきゃいけないのよ。なんで。なんで。なんで無能な高校中退の静が遺産をもらえる権利を得て、娘のあたしはこんな寒空に放り出されるの。全部全部、悪いのはあいつら。あたしはなにもしてないのに。なにも、してないのに。そもそも、なんで静を家政婦にするって言った優一が遺産の相続権を得られるのよ。おかしいわ)


 日が暮れる頃、ようやく家に帰り着いて、ゴミの中から優一が百万円を渡してきたときの封筒を見つけ出した。いつか役立つと思って取っておいてよかった。

 優一が最低な人間だという証拠を警察に出せば、優一が相続権を失ってキララの取り分が増えるかもしれない。

 水引きが結ばれ、金色の鶴が印刷された和紙製の、豪奢な袋。
 内袋には、【百万円 結納金として】と達筆な文字で書かれていた。


 これを警察に持って言って「優一が娘を家政婦として買った」ところで、ただの虚言としか取られない。
 静と優一は婚姻届を出して結婚している。そして金が入った袋には結納金と書かれているから、優一の言葉のほうが真実になる。

 
 あの場にいた親族に証言をお願いすればいい。
 キララが受け取ることになる遺産のうち五万やると言えば、証言してくれるはずだ。

 公衆電話から父方の叔父に電話した。
「何を寝ぼけているんだ、松。優一くんは最初から、静と結婚したいから結納金を渡すと言っていたじゃないか」と答えた。
 母方の叔母に電話しても、叔父と同じ証言をする。


 自分たち以外のみんながそう云うのなら、松とキララが「家政婦として買う」と思い込んでいただけなのだろうか。

 聞き違いだと思えなくて、松とキララは往生際悪く近所の人たちのこのことを話してまわる。

 日頃から自意識過剰で虚言癖、傍若無人な二人が「嘘をついているのは親戚連中で、自分たちのほうが正しい」と騒いだところで信じてもらえない。

 もともと近所の人間は、松とキララが遊び歩き、静が虐げられているところを見ていた。
 優一という従兄が静を連れて、毒家族の手が届かないところに逃したとすぐに理解した。

 以降、近所の人間は、松とキララの姿を見ても挨拶一つしなくなった。
 顔を見れば蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 自分たちの行いが悪かったからだと松には理解できなかった。
 
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