マリオネットは契約結婚で愛を知る。
二月の中旬。静と優一は新婚旅行に来ていた。
旅館のチェックインは午後三時。それまでは旅先の近隣を探索する。
寺院や公園といろいろまわるだけであっという間に時間が過ぎる。
そろそろお昼を食べようかという話になって、駅前の喫茶店に入った。
木製のテーブルセットが並ぶ店内は落ち着いた雰囲気で、メニューも古き良き昭和レトロな喫茶店といった感じだ。
静はあんみつセットを、優一はホットケーキセットを選んだ。
「初めてくるのに、なんだか懐かしい感じがするね」
「うん。すごく好き。おじいちゃんとおばあちゃんとも来てみたいね」
運ばれてきたコーヒーの香りも良くて、自然と笑顔になってしまう。
祖父はつい先日無事に退院した。静と優一は、先週その復帰お祝いをしに行った。
一緒にご飯を食べて、そのとき、昔話をたくさんしてくれた。
祖父母は結婚したての頃、二人で喫茶店巡りをするのが趣味だったそうだ。
店ごとにコーヒーのブレンドは違うし、トーストも自家製パンなら全然違う風味になる。
特に好きなメニューがナポリタンだそうだ。
「いいね。今度一緒に来よう。きっと喜ぶよ」
食事を終えてコーヒーを楽しんでいると、新しい客が来店する。
静たちと同じような旅行客らしい二人組の男性、「宿の温泉楽しみだねー」なんて話している。それから、近くのオフィスで働いているのだろう、紺の制服にコートをかるく羽織った女性が一人。
女性は、静たちのテーブルのすぐそばのカウンターに座った。
メニューも開かず「チーズトーストのコーヒーセットでお願いします」と言って、バッグから文庫本を取り出す。そしてチラと静たちの方を見て、目を見開いた。
「静ちゃん!?」
「え? えーと……あ。チコ先輩?」
そのひとは、実家の近所に住んでいた、一つ上の先輩だった。
高校卒業後はそのままどこかで就職してひとり暮らしをすると言っていた気がする。三年会っていなかったし、最後にあったときよりずっと大人びていたから一瞬誰だかわからなかった。
チコは大きな声を出してしまったことで、慌てて自分の口をふさいだ。
それから静と優一を交互に見て、聞いてくる。
「あの、この方は?」
「彼は私の夫、優一さんです。優一さん、彼女は実家近くに住んでいた先輩で、チコ先輩」
優一は軽く会釈して挨拶をする。
「はじめまして、静の夫で、優一といいます」
「こちらこそ。……うーん、キララのことを信じてはいなかったけれど、結婚したことだけは本当だったの?」
「あいつは昔から虚言癖があるから……うん。まわりにどう言っていたのか、大体は想像つく。僕のこと、静をこき使う相当なクズとでも言っていたんじゃない? それってキララの自己紹介でしかないのに」
優一は顔色一つ変えずに半笑いだ。予想通りなようで、チコは曖昧な笑みを返す。
「静ちゃんは家を出てから全然連絡取ってないの?」
「うん」
「数日前にお母さんから電話で聞いたんけどね、キララとおばさん、家中のもの売って、その日暮ししているんだって。電気が止められて夜も家が真っ暗なのに、「もうすぐ親父が死んで遺産が入る」って言ってまわっているらしいよ」
「へぇ、そうなんだ」
自分で思っている以上に冷たい声が出てしまい、静はうつむく。
母もキララも、静を追い出してひと月以上経つのに、まだ働こうとしていない。
しかも、お見舞いに行っていないから祖父がとっくに退院していることを知らない。
一度でも病院に行けば、もうすぐ死ぬなんて発言は出ない。
心優しい祖父が死ぬのを心待ちにしている二人のことを理解できなかった。
きっとあの二人は、この先も自分で努力する日はこない。
嫌なことを誰かに押し付けて生きていくだろう。
家にある売れそうなものなんて、キララが買い集めていた美容アイテムやら、母が一回使っただけでやめたダイエット器具くらいだ。
引っ越していてよかったと改めて思う。連絡先を知られていたら、絶対に|集《たか》られていた。静も優一も、助ける気なんて微塵もない。
「あ、ごめん。旦那さんとデート中だったよね。無事だってわかって、嬉しくなってつい。湯河原の旅、楽しんでね」
「ううん。心配してくれてありがとう、先輩。私は幸せにやっているから、大丈夫」
会計をして店を出ると、そろそろチェックインの時間だった。
「静。大丈夫?」
「うん。行こう、優一さん」
車で今回泊まる予定の旅館に向かった。
外観を見上げて、ボストンバッグをさげた優一が浮き足立つ。
「静、すごいね。ホームページの写真で見たのよりずっと大きくてきれいだ」
「うん、素敵だね」
中居さんに丁重に出迎えられ、部屋に案内されてまた感動する。
広々した和室で座卓があり、古民家のような落ち着いた雰囲気がある。専用露天風呂に続く出入り口があって、展望も最高だった。
「わー! 本当に部屋の隣に露天風呂がある!」
「滞在中はいつでもお好きなタイミングでご入浴いただけますよ」
「嬉しいです」
中居さんが「ご用命がお有りの際は、そちらの内線でフロントにお申し付けくださいませ」と頭を下げて退室する。
セルフサービスでお茶のセットも用意されているから、さっそく二人分のお茶を入れてくつろぐ。
「優一さん運転で疲れたでしょ。夕食の前に、お風呂で温まるといいと思う」
「ありがとう。でも見て。内風呂は広いから二人で入れるよ」
優一に提案されて、静は顔が熱くなった。
本当の夫婦になると誓い合ってからは夜の関係もあるけれど、一緒にお風呂に入ったことはない。それに、寝るときは部屋の電気を消しているから、体を直視されることはほとんどなかった。
結婚しているのに今さら、と言われるかもしれないけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「で、でも、私、このひと月半でちょっぴり太ったし、いま、明るいし」
「これまでが痩せすぎていただけ。太ったんじゃなくて、健康的な体型になったんだよ。もしかして僕とお風呂に入るのは嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まりね。背中の流しっこしよう」
無邪気に言われ、ついに静は根負けした。
こんなふうに、優一はときどき静より幼い面を見せる。
温泉に入るのにもすごく嬉しそうで、微笑ましい。
かけ流しの源泉特有の香りを楽しんでいたかと思えば、両手で静の頬を包み、不意打ちのキスをしかけてくる。
「ちょ、ゆ、優一さ……」
「ごめんごめん、意地悪しすぎた。睨まないでよ」
反省したと言いながらも、もう一度キスをねだる優一。
「夕食後までおあずけです!」
「かわいいから、つい」
「つ、つい、って、ダメなものはダメです!」
「夕食後ならいくらでもいいってことだよね。楽しみにしているよ」
「言質を取るのひきょうですーーーー!!」
新婚旅行初日の夜は、そんなしょうもない言い合いをしたとかしないとか。
旅館のチェックインは午後三時。それまでは旅先の近隣を探索する。
寺院や公園といろいろまわるだけであっという間に時間が過ぎる。
そろそろお昼を食べようかという話になって、駅前の喫茶店に入った。
木製のテーブルセットが並ぶ店内は落ち着いた雰囲気で、メニューも古き良き昭和レトロな喫茶店といった感じだ。
静はあんみつセットを、優一はホットケーキセットを選んだ。
「初めてくるのに、なんだか懐かしい感じがするね」
「うん。すごく好き。おじいちゃんとおばあちゃんとも来てみたいね」
運ばれてきたコーヒーの香りも良くて、自然と笑顔になってしまう。
祖父はつい先日無事に退院した。静と優一は、先週その復帰お祝いをしに行った。
一緒にご飯を食べて、そのとき、昔話をたくさんしてくれた。
祖父母は結婚したての頃、二人で喫茶店巡りをするのが趣味だったそうだ。
店ごとにコーヒーのブレンドは違うし、トーストも自家製パンなら全然違う風味になる。
特に好きなメニューがナポリタンだそうだ。
「いいね。今度一緒に来よう。きっと喜ぶよ」
食事を終えてコーヒーを楽しんでいると、新しい客が来店する。
静たちと同じような旅行客らしい二人組の男性、「宿の温泉楽しみだねー」なんて話している。それから、近くのオフィスで働いているのだろう、紺の制服にコートをかるく羽織った女性が一人。
女性は、静たちのテーブルのすぐそばのカウンターに座った。
メニューも開かず「チーズトーストのコーヒーセットでお願いします」と言って、バッグから文庫本を取り出す。そしてチラと静たちの方を見て、目を見開いた。
「静ちゃん!?」
「え? えーと……あ。チコ先輩?」
そのひとは、実家の近所に住んでいた、一つ上の先輩だった。
高校卒業後はそのままどこかで就職してひとり暮らしをすると言っていた気がする。三年会っていなかったし、最後にあったときよりずっと大人びていたから一瞬誰だかわからなかった。
チコは大きな声を出してしまったことで、慌てて自分の口をふさいだ。
それから静と優一を交互に見て、聞いてくる。
「あの、この方は?」
「彼は私の夫、優一さんです。優一さん、彼女は実家近くに住んでいた先輩で、チコ先輩」
優一は軽く会釈して挨拶をする。
「はじめまして、静の夫で、優一といいます」
「こちらこそ。……うーん、キララのことを信じてはいなかったけれど、結婚したことだけは本当だったの?」
「あいつは昔から虚言癖があるから……うん。まわりにどう言っていたのか、大体は想像つく。僕のこと、静をこき使う相当なクズとでも言っていたんじゃない? それってキララの自己紹介でしかないのに」
優一は顔色一つ変えずに半笑いだ。予想通りなようで、チコは曖昧な笑みを返す。
「静ちゃんは家を出てから全然連絡取ってないの?」
「うん」
「数日前にお母さんから電話で聞いたんけどね、キララとおばさん、家中のもの売って、その日暮ししているんだって。電気が止められて夜も家が真っ暗なのに、「もうすぐ親父が死んで遺産が入る」って言ってまわっているらしいよ」
「へぇ、そうなんだ」
自分で思っている以上に冷たい声が出てしまい、静はうつむく。
母もキララも、静を追い出してひと月以上経つのに、まだ働こうとしていない。
しかも、お見舞いに行っていないから祖父がとっくに退院していることを知らない。
一度でも病院に行けば、もうすぐ死ぬなんて発言は出ない。
心優しい祖父が死ぬのを心待ちにしている二人のことを理解できなかった。
きっとあの二人は、この先も自分で努力する日はこない。
嫌なことを誰かに押し付けて生きていくだろう。
家にある売れそうなものなんて、キララが買い集めていた美容アイテムやら、母が一回使っただけでやめたダイエット器具くらいだ。
引っ越していてよかったと改めて思う。連絡先を知られていたら、絶対に|集《たか》られていた。静も優一も、助ける気なんて微塵もない。
「あ、ごめん。旦那さんとデート中だったよね。無事だってわかって、嬉しくなってつい。湯河原の旅、楽しんでね」
「ううん。心配してくれてありがとう、先輩。私は幸せにやっているから、大丈夫」
会計をして店を出ると、そろそろチェックインの時間だった。
「静。大丈夫?」
「うん。行こう、優一さん」
車で今回泊まる予定の旅館に向かった。
外観を見上げて、ボストンバッグをさげた優一が浮き足立つ。
「静、すごいね。ホームページの写真で見たのよりずっと大きくてきれいだ」
「うん、素敵だね」
中居さんに丁重に出迎えられ、部屋に案内されてまた感動する。
広々した和室で座卓があり、古民家のような落ち着いた雰囲気がある。専用露天風呂に続く出入り口があって、展望も最高だった。
「わー! 本当に部屋の隣に露天風呂がある!」
「滞在中はいつでもお好きなタイミングでご入浴いただけますよ」
「嬉しいです」
中居さんが「ご用命がお有りの際は、そちらの内線でフロントにお申し付けくださいませ」と頭を下げて退室する。
セルフサービスでお茶のセットも用意されているから、さっそく二人分のお茶を入れてくつろぐ。
「優一さん運転で疲れたでしょ。夕食の前に、お風呂で温まるといいと思う」
「ありがとう。でも見て。内風呂は広いから二人で入れるよ」
優一に提案されて、静は顔が熱くなった。
本当の夫婦になると誓い合ってからは夜の関係もあるけれど、一緒にお風呂に入ったことはない。それに、寝るときは部屋の電気を消しているから、体を直視されることはほとんどなかった。
結婚しているのに今さら、と言われるかもしれないけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「で、でも、私、このひと月半でちょっぴり太ったし、いま、明るいし」
「これまでが痩せすぎていただけ。太ったんじゃなくて、健康的な体型になったんだよ。もしかして僕とお風呂に入るのは嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まりね。背中の流しっこしよう」
無邪気に言われ、ついに静は根負けした。
こんなふうに、優一はときどき静より幼い面を見せる。
温泉に入るのにもすごく嬉しそうで、微笑ましい。
かけ流しの源泉特有の香りを楽しんでいたかと思えば、両手で静の頬を包み、不意打ちのキスをしかけてくる。
「ちょ、ゆ、優一さ……」
「ごめんごめん、意地悪しすぎた。睨まないでよ」
反省したと言いながらも、もう一度キスをねだる優一。
「夕食後までおあずけです!」
「かわいいから、つい」
「つ、つい、って、ダメなものはダメです!」
「夕食後ならいくらでもいいってことだよね。楽しみにしているよ」
「言質を取るのひきょうですーーーー!!」
新婚旅行初日の夜は、そんなしょうもない言い合いをしたとかしないとか。