マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 土曜の朝。
 目を覚ますと、優一に抱きしめられていた。
 事務業をしているから、鍛えた人に比べたら腹筋が割れるようなことはないけれど、無駄な肉がついていない、男性らしい胸板だ。
 布団から出た部分が外気に触れて冷たい。けれど、触れ合っている部分は温かい。
 優一はまだ寝ているのかと、視線を動かせば微笑む優一と目が合った。

「おはよう、静」
「お、はよう、ございま……え、あれ?」
「ごめんごめん。寝ているところもかわいいから、起きるのを待ってた」

 ものすごく恥ずかしいことを素で言われて、静は頭から布団をかぶった。

「ううう、恥ずかしい。かわいいって言うの、禁止です」
「なんで。素直に思ったことを言おうって約束したじゃない。照れているのもかわいい。静ちゃんの可愛いところ百選に追加しないと」
「照れてないです、これは、その、なんでもないんです」

 優一の大きな手が静の頭をゆっくりと撫でる。
 このままだと来年の今頃には、静ちゃん百選が二百選になっているかもしれない。
 言いたいことを我慢していた状態でもかなりかわいがってくれていたのに、さらにグレードアップして蜂蜜みたいに甘々になっている。

「体、大丈夫?」

 両手で静の頬を包むようにして、顔をのぞき込んでくる。
 両想いだとわかったからか、触れるのをためらわなくなったし、……昨夜も、酔っていたときよりもずっと積極的だった。
 静はまだだるさの残る体を起こす。

「大丈夫です。朝食を作る前にいったんお風呂に入りたいんですけど、いいですか」
「そうだ、一緒に入る? 続き、しようか」
「え」
「冗談。お風呂が沸くまでもう少し休もうか。お茶をいれるよ」

 静が戸惑っている間に優一は服を着て、キッチンに向かった。
 からかわれただけとわかって、顔が熱い。

 少しだけ眠らせてもらい、お風呂が沸いたらゆっくり湯船に浸かる。
 浴槽の中で膝を抱えて、目を閉じる。ラベンダーの入浴剤の香りで少し気分が落ち着いた。

 年末、バイトに追われていたときには想像もしなかった。
 従兄の優一があの地獄から静を助け出してくれたこと。
 優一がいなかったら、今も母とキララに搾取されるだけの日々を過ごしていたんだろう。

 優しく触れてもらえて、口づけされて、名前を呼ばれて、幸せだという気持ちが大きくなっていく。こんなに静を愛してくれる人は他にいない。


 入院中の父がプレゼントしてくれたときに言っていた。
 いつの間に買ったのか、抱えきれないくらい大きな金色のラッピング袋に黄色のリボンが結ばれていて、見た瞬間胸が踊った。
 外出許可が出ていないから、看護師の誰かに頼んだのかもしれない。

「わたしはもう長く生きられないから、このバッグを持って、いろんなところを旅してほしい。修学旅行だけじゃない。卒業旅行も、その先の旅も。…………大人になったら、好きな人ができて、結婚して、新婚旅行にも行くかもしれない。子どもが生まれたら、家族旅行だってするだろう」
「そんな悲しいこと、言わないで。ずっと、私が親になるまで、生きていてよ。いつか私が自分でお金を稼げるようになったら、一緒に、どこかに行こうよ」

 泣きじゃくる静の頭をなでて、父は笑った。
 自分の死期が近いのに、静を安心させようと精一杯の笑顔で。

「だいじょうぶだよ、静。いつかきっと、静を大切にしてくれる人、静も大切にしたいと思える人と出会えるから。父さんができなかった分、たくさん、幸せになっておくれ」



 父が亡くなってすぐに学校をやめさせられたから、修学旅行と卒業旅行は叶わなかった。けれど、静を大切にしてくれて、静も大切にしたいと思える人に出会えた。

(お父さんが、生きていたらな。この人が私の好きな人ですよって、お父さんに直接話したかったな)

 家を追い出されるとき、遺影を持ってくることはできなかった。
 けれど、父の願いが込められたバッグだけでも、手元に残ってよかった。

 このバッグを持って、たくさん旅をしよう。
 父が望んだからというだけでなく、静自身も勇一といろんなところに行って、いろんなものを見たい。知りたい。
 もう、静を縛りつける人たちはここにいないんだから。


 お風呂からあがると、優一がドライヤーで髪を乾かしてくれる。
 椅子に座った静の後ろから、ていねいに風を当てていく。

「自分でできるのに」
「そう言わないで。こういうのって、夫婦や恋人の特権ってやつじゃない。僕以外に誰もこんなふうに触れることができないんだから」

 幸せそうな笑顔でそんなことを言われたら、自分でします、ともう一度言うことができなくなってしまう。
 静も優一の手が心地よくて、口元が緩んでしまう。

 優一もいれかわりでお風呂に入り、あがってきてドライヤーを静に手渡す。

「静に乾かしてもらいたいな」
「ええっ」
「してくれないなら放置しちゃおう」
「だ、だめ。風邪ひいちゃいます」

 小さい子のようなことを言い出した。
 いつもの頼もしい優一の姿は、じつは静のために気を張っていただけなのかもしれない。

「いつからそんな甘えん坊になったんですか」
「頼りになるお兄さんはいまお休み中なんだ」
「もう……仕方ないですねー」

 静だってずっと張り詰めていたら疲れてしまう。優一も誰かに甘えたくなる日がある。相手が静だからこそ、こうして甘えてくれる。
 心を許してもらえているのがなんだか嬉しくて、黒髪をクシでとかしながら、乾かしていく。

 二人で軽い朝食を作って、優一は指輪のことを説明してくれる。


「鳩羽さんが教えてくれたんだけど、自分たちで望むデザインの指輪を手作りできる、ジュエリー工房があるんだって。鳩羽さんのお兄さん夫婦が、婚約指輪と結婚指輪をそこで作ったらしい」
「手作り! なんだか、すごく素敵です」
「既製品を宝石店で買うっていう選択肢もあるけど、静ならこういうほうが好きかなって思って」
「はい。大好きです」

 自分たちで作るなら、一生の思い出になりそうだ。指輪を見るたびに、作るときにこんなことがあったね、って笑いあえるのは想像するだけで楽しい。
 優一も行ってみたかったようで、見せてくれたスマホのサイトブックマークに工房の案内が入っている。

「そっか。それじゃあ、見学予約を入れよう。製作は材料の用意なんかもしてもらわないといけないから、見てから決めればいい。自分たちで作る製作体験と、職人に作ってもらうオーダーメイドが選べる」

 初心者でも工房の人が丁寧に教えてくれることなどが書かれている。
 材料はプラチナ、ゴールド、シルバー他。デザインや表面の加工も選べるようだ。
 オプションでダイヤなどのメジャーな宝石以外にも、誕生石を埋めることも可能。

「前にメールで問い合わせをしたら、今日は見学オーケーだって言われたから行ってみよう」

 静がプロポーズを受け入れてくれた場合を考えて事前に確認しておいたという。


「そのあと、旅行代理店でパンフレットをもらう。その場で決めてもいいけど、いくつか候補を決めて帰ってきてからじっくり考えるのもいいよね。インターネット予約限定のプランなんてのもあるから、旅行サイトも調べたい」
「ふふふ。私、修学旅行にも行っていないから、ほとんど鎌倉を出たことがないんです。だから、どこだって新鮮で楽しいな」
「今の季節なら家族風呂付きの温泉宿なんて良さそうじゃない? それとも、遊園地のチケット付き宿泊プラン?」

 ジュエリー工房に向かいながら、旅行はどこがいいか話に花を咲かせる。
 もうすぐ二月。
 風は刺すように冷たいけれど、手袋をした手を繋いで歩くと心もあたたかくなる。

「新婚旅行、温泉がいいです。暖かい季節が来たらお花見したい。花火大会を見てみたいし、海に行きたいし、秋は紅葉狩りもしてみたい」

 次から次に行ってみたい場所、やってみたいことが浮かんでくる。
 優一も少年のようにはしゃぐ。

「うん。全部しよう。僕はね、家族でキャンプっていうのに憧れていたんだ。小学生になる前に父さんが出て行っちゃったから、叶わなくて。夏休みにどこにも出かけないで家事ばっかりしていたなんて、僕だけだったんだ」
「いいですね。キャンプ、私もしたことがないな。行くなら、飯ごうでご飯を炊いてみたい」
「あはは。火加減が難しそうだ。木炭のバーベキューコンロってガスコンロと違って火加減の調節ができないだろう」
「バーベキューもしよう。お肉と野菜を串に刺して焼くの」 

 もりあがって話しているうちに工房に到着した。
 担当のスタッフにサンプルのリングを見せてもらう。
 プラチナ、シルバー、ピンクゴールド。
 ひとつひとつ、指にはめてみる。

「静、どんな指輪がいい?」
「うーん。石は埋め込まないシンプルなデザインがいい。そう簡単に落ちないってわかるんですけど、無くしそうで気が気じゃないので」
「いいと思う。素材はこれかな。静は肌が白いからプラチナが似合う」

 静と優一が相談している間、自分たちのリングを制作しているカップルもいて、その人たちはすごく幸せそうだ。

「セルフメイドとフルオーダーメイドが選べますが、どうなさいますか。もちろんん、お客様ご自身でお作りになる場合でも、こちらで完成までサポートします」
「どうしようか」

 優一が選択を静に委ねる。

「私は、自分で作りたい。優一さんは?」
「僕も、自分で作りたい。決まりだね」

 作る日の予約を入れて、工房を出た。 
 旅行代理店でパンフレットをもらって、あとは家に帰ってゆっくりしようかと話していると優一のスマホが鳴った。

「先輩から? ごめん、ちょっと話してくるからここで待ってて」
「はい」

 優一は雑踏の音が入らないよう、人の少ない路地に入って電話に出た。夫婦とはいえ、仕事の話を聞くのはよくない。静は優一の声が届かないところに移動して、道の端による。
 駅の近くは観光客が多くて、日本語以外の言語も飛び交っている。
 ポツポツと雨が降り出す。

 優一の傘も静が預かっていたから、優一に渡さないと。

「ねえあなた」
「え?」

 ふいに、見知らぬ女性に話しかけられた。
 メガネをかけた、ロングヘアの女性。年齢はおそらく三十手前。
 女性は射るような目を静に向けて言い放った。

「用。……そうね。遠回しなのは嫌いなの。単刀直入に言うわ。優一と別れて。あなたがいなければ、わたしと再婚してくれるはずだもの」
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