マリオネットは契約結婚で愛を知る。
新居に荷物を運び終えたときには、夜の九時を回っていた。
荷解きをしてしまうと、それなりに音を立てることになるし他の部屋の住人に迷惑がかかる。運べただけでも良しとする。
優一はレンタカーをショップに返却して帰宅した。
ダンボールが山積みのダイニングで、静がコートも脱がず畳に横になっていた。閉じた目元にはうっすら涙が浮かんでいる。
引っ越し直前に叔母が押しかけてきたことで、とても怖い思いをしていた。
優一が帰ったときに、隣に住む老夫婦が静のそばにいてくれて、助かった。
子どもなら親に金をよこせだとか実家の家事をやれとか、意味不明なことを喚いていたらしい。
静はここにきてから半月経っていないけれど、穏やかな性格と親しみやすさで、隣近所の人間と仲良くなっていた。おばあさんは、我が子が傷つけられたくらいの勢いで怒っている。
「こんなに優しくていい子なのに、なんなんだいあの人は。親が子に金を無心するなんてどうかしているよ」
「そう、ですよね。もう会わなくて住むように、早急にここを離れます。ありがとうございます。静ちゃんを助けてくれて」
丁重にお礼を言って、前の住まいを離れた。
少しでも早く休ませてあげたいけれど、このまま畳に転がっていると体が痛くなるだろう。
優一は静を揺り起こす。
「ただいま、静ちゃん。ほら、寝るならちゃんと布団を敷いてからにしないと」
「う……、ん。あ、ゆ、優一、さん。ごめんなさい、せめて、おゆうごはん、つくろうとおもった、のに」
静は慌てて部屋を見回して調理器具のダンボールを開ける。
「静ちゃん、静ちゃん、落ち着いて。ほら、今日はもう疲れただろう。帰りに買ってきたんだ。一緒に食べよう」
「……あ、ありがとうございます」
親子丼ふたつと、緑茶。ダンボールをどけて最低限食事をするスペースをつくり、遅めの夕食をいただく。
荷物を運ぶ間は忙しくて落ち込むひまがなかったけれど、今になってズンときたようだ。
静はうつむいたままで、箸があまり進んでいない。
「どうしたの、静ちゃん。苦手だった?」
「いえ。親子丼、好きです。……ただ、お隣のおじいちゃんとおばあちゃんに、すごくめいわく、かけちゃったから。優一さんも、ごめんなさい。本当なら、もっとゆっくり、荷造りして明日引っ越しだったのに」
「僕は気にしていないから、そんなに落ち込まないで。おじいさんたちもわかってくれているから」
叔母かキララのどちらかが金の無心をしに来るのをは予想していた。予想より早く来てしまっただけだ。静が謝る必要なんてない。
謝るべきは突然来て迷惑をかけた叔母の方。自分の非をわびる殊勝な心がけができる人間だったなら、はじめから自分で働いて稼いでいる。
静も優一も、ろくでもない親のせいでする必要ない苦労をしている。
「今日は朝から荷造りしたり搬入したりすごく忙しかったでしょう。落ち込んでしまうのは疲れているからだと思うんだ。ほら、ゆっくりお風呂に浸かりなよ」
「でも、優一さんだってお仕事のあとに引越し作業したんですよ。疲れているのは優一さんも同じでしょう。優一さんが先に入ったほうがいいです」
「こんなときでも僕のことを優先するなんて、君って人は……」
なにをどうしたら、あの叔母のもとでこんな天使が育つのか。
形だけの結婚でなかったなら、思うまま抱きしめてキスの一つもしていたかもしれない。なんならその先も。
契約結婚だから夫婦としての営みは無しだと言ったのは優一自身。
静が契約結婚を受け入れてくれたのだって、形だけの夫婦だからだ。夜の相手も込での結婚なんて言ったら絶対受け入れてくれなかっただろうし、優一のことを信用せず逃げ出していたかもしれない。
優一もあの家から出してやりたい一心だっただけで、そこに恋愛感情がなかったから言えたこと。
母やキララたちから逃げ切れたら婚姻関係を終了させて、地元を遠く離れたどこか別の土地で、静自身の幸せを掴んでもらおうと思っていた。
こんなふうに好きになってしまうなんて、予想していなかった。
なんで自分は契約結婚という形を取ってしまったのか、過去の自分をどつきたい気持ちだ。
好きになったから本当の結婚にしよう、なんて、心が弱っている今の静に言うのは卑怯な気がして、言い出せない。
今の状態なら、誰に言われたってほだされてしまいかねない。
一緒にどこまでも逃げるから、本当の結婚をしてほしいなんて。
交代で風呂に入って、優一があがると、静は布団に包まって眠りに落ちていた。
ずれた布団をかけなおしてやり、静の髪をそっと撫でると、甘い香りがした。
同じシャンプーを使っているのに、静のほうがいい香りがするのはなぜだろう。とても不思議だ。
同僚の鳩羽には、好きならちゃんとアプローチしないと伝わらないんじゃないか、なんて偉そうに言ったけれど。
妻であるはずの静に、面と向かって好きだと言えない。
この契約は形だけ、そうでなかったら静は結婚しなかった。
いつか静がほんとうの恋を見つけるときは手放さないと。
静が心から幸せになりたい、生涯添い遂げたい人と出会えたと言われたら、笑顔で祝福してあげたいのに。
そんな日がこなければいいなんて考えてしまう。
ずっとここにいてほしい。
こんなのエゴだ。叔母が静を手元において好き勝手に扱うのと大差ない。
好きになったなんてこと、気づかれちゃいけない。
荷解きをしてしまうと、それなりに音を立てることになるし他の部屋の住人に迷惑がかかる。運べただけでも良しとする。
優一はレンタカーをショップに返却して帰宅した。
ダンボールが山積みのダイニングで、静がコートも脱がず畳に横になっていた。閉じた目元にはうっすら涙が浮かんでいる。
引っ越し直前に叔母が押しかけてきたことで、とても怖い思いをしていた。
優一が帰ったときに、隣に住む老夫婦が静のそばにいてくれて、助かった。
子どもなら親に金をよこせだとか実家の家事をやれとか、意味不明なことを喚いていたらしい。
静はここにきてから半月経っていないけれど、穏やかな性格と親しみやすさで、隣近所の人間と仲良くなっていた。おばあさんは、我が子が傷つけられたくらいの勢いで怒っている。
「こんなに優しくていい子なのに、なんなんだいあの人は。親が子に金を無心するなんてどうかしているよ」
「そう、ですよね。もう会わなくて住むように、早急にここを離れます。ありがとうございます。静ちゃんを助けてくれて」
丁重にお礼を言って、前の住まいを離れた。
少しでも早く休ませてあげたいけれど、このまま畳に転がっていると体が痛くなるだろう。
優一は静を揺り起こす。
「ただいま、静ちゃん。ほら、寝るならちゃんと布団を敷いてからにしないと」
「う……、ん。あ、ゆ、優一、さん。ごめんなさい、せめて、おゆうごはん、つくろうとおもった、のに」
静は慌てて部屋を見回して調理器具のダンボールを開ける。
「静ちゃん、静ちゃん、落ち着いて。ほら、今日はもう疲れただろう。帰りに買ってきたんだ。一緒に食べよう」
「……あ、ありがとうございます」
親子丼ふたつと、緑茶。ダンボールをどけて最低限食事をするスペースをつくり、遅めの夕食をいただく。
荷物を運ぶ間は忙しくて落ち込むひまがなかったけれど、今になってズンときたようだ。
静はうつむいたままで、箸があまり進んでいない。
「どうしたの、静ちゃん。苦手だった?」
「いえ。親子丼、好きです。……ただ、お隣のおじいちゃんとおばあちゃんに、すごくめいわく、かけちゃったから。優一さんも、ごめんなさい。本当なら、もっとゆっくり、荷造りして明日引っ越しだったのに」
「僕は気にしていないから、そんなに落ち込まないで。おじいさんたちもわかってくれているから」
叔母かキララのどちらかが金の無心をしに来るのをは予想していた。予想より早く来てしまっただけだ。静が謝る必要なんてない。
謝るべきは突然来て迷惑をかけた叔母の方。自分の非をわびる殊勝な心がけができる人間だったなら、はじめから自分で働いて稼いでいる。
静も優一も、ろくでもない親のせいでする必要ない苦労をしている。
「今日は朝から荷造りしたり搬入したりすごく忙しかったでしょう。落ち込んでしまうのは疲れているからだと思うんだ。ほら、ゆっくりお風呂に浸かりなよ」
「でも、優一さんだってお仕事のあとに引越し作業したんですよ。疲れているのは優一さんも同じでしょう。優一さんが先に入ったほうがいいです」
「こんなときでも僕のことを優先するなんて、君って人は……」
なにをどうしたら、あの叔母のもとでこんな天使が育つのか。
形だけの結婚でなかったなら、思うまま抱きしめてキスの一つもしていたかもしれない。なんならその先も。
契約結婚だから夫婦としての営みは無しだと言ったのは優一自身。
静が契約結婚を受け入れてくれたのだって、形だけの夫婦だからだ。夜の相手も込での結婚なんて言ったら絶対受け入れてくれなかっただろうし、優一のことを信用せず逃げ出していたかもしれない。
優一もあの家から出してやりたい一心だっただけで、そこに恋愛感情がなかったから言えたこと。
母やキララたちから逃げ切れたら婚姻関係を終了させて、地元を遠く離れたどこか別の土地で、静自身の幸せを掴んでもらおうと思っていた。
こんなふうに好きになってしまうなんて、予想していなかった。
なんで自分は契約結婚という形を取ってしまったのか、過去の自分をどつきたい気持ちだ。
好きになったから本当の結婚にしよう、なんて、心が弱っている今の静に言うのは卑怯な気がして、言い出せない。
今の状態なら、誰に言われたってほだされてしまいかねない。
一緒にどこまでも逃げるから、本当の結婚をしてほしいなんて。
交代で風呂に入って、優一があがると、静は布団に包まって眠りに落ちていた。
ずれた布団をかけなおしてやり、静の髪をそっと撫でると、甘い香りがした。
同じシャンプーを使っているのに、静のほうがいい香りがするのはなぜだろう。とても不思議だ。
同僚の鳩羽には、好きならちゃんとアプローチしないと伝わらないんじゃないか、なんて偉そうに言ったけれど。
妻であるはずの静に、面と向かって好きだと言えない。
この契約は形だけ、そうでなかったら静は結婚しなかった。
いつか静がほんとうの恋を見つけるときは手放さないと。
静が心から幸せになりたい、生涯添い遂げたい人と出会えたと言われたら、笑顔で祝福してあげたいのに。
そんな日がこなければいいなんて考えてしまう。
ずっとここにいてほしい。
こんなのエゴだ。叔母が静を手元において好き勝手に扱うのと大差ない。
好きになったなんてこと、気づかれちゃいけない。