マリオネットは契約結婚で愛を知る。
優一を送り出した静は、荷造りをしていた。
明日引っ越しだから、今日中に調理器具と布団以外はしまう予定だ。
急ぎの引っ越しだから、請け負ってくれる業者がいなかった。
管理人と両隣の住人への挨拶は昨日済ませた。
今住んでいる場所もとてもいいところだ。緑が豊かだし、ご近所さんは優しいし。
親に住所がばれていなかったら、住み続けたかったと思う。
優一は休みをとれなかったことを何度も謝っていた。
数日前になってから急に有給を取りたいと言っても通らないのはしかたのないこと。どんな仕事にだって責任というものがあるのだから。
それに、手間のかかる物は夜のうちに優一がまとめてくれたから、静が詰めるのは季節外れの衣類が主だ。
荷解きのときすぐわかるように、箱に油性ペンで【春・秋物】【夏物】【下着】と記していく。
あらかた片付いて、部屋の中はだいぶすっきりとしてきた。
時計を見れば、もうすぐ昼になる。
冷蔵庫の要冷蔵品は夕飯で使い切る計算だから、昼はトーストとお茶で軽く済ませようと思っていると、チャイムが連打された。
宅配業者なら、チャイムを鳴らすのは一回二回程度。それに必ず、「○○運輸です」と業者名を名乗る。
静は誰にも今の住所を教えていないし、優一の仕事中だとわかる時間に優一の友人が訪ねてくるとも考えにくい。
嫌な予感がして、静は息を殺して自分の口を両手で塞いだ。
心臓の音がうるさくて、冷や汗が止まらなくなる。
「おい開けろ! いるのはわかっているんだよ静! 金をよこせ、家の掃除もサボるな。うちに来て洗濯しろ!!」
ドン! と扉を殴る音があたりに響く。
居留守をつかうと音がひどくなっていく。バッグを振りかぶって叩きつけているんだと想像がついた。
母がお金の無心にくる前に逃げ切りたかったのに、間に合わなかった。
近所の人からどんな目で見られるか、想像するのも怖い。
実家にいたときだって、母がこんなふうに傍若無人な振る舞いをするから、静はいつも肩身の狭い、居た堪れない思いをしていた。
(なんで、こんな目にあうの。私が、なにをしたっていうの。いつまで、こんなふうに怯えて暮らさないといけないの)
幼い頃から家事を押し付けられて、父が亡くなったあとは休み無く仕事をさせられて。まるで奴隷かなにかのような扱い。キララはどんなわがままも許されてきたのに。
静がどれだけがんばっても、母は優しい言葉をかけてくれなかった。
いい子でいたらいつか愛してくれるかもしれないと期待したこともあった。
でも、静に優しいのは父だけ。
期待はうち砕かれて、静が傷つくだけで終わった。
どんなにがんばったって、母は静を愛さないし、都合のいい人形 としか思っていない。
黙っていろ、喋るな、クソ親父と似た顔を見ているだけで殴りたくなる。母の口癖だった。
扉を殴りつける音を聞きながら、静は考える。
お金を渡せば帰ってくれる。
でも、一度渡してしまえばこれからも静からむしりとれると思って、何度でもやってくる。
かといってこのまま無視を続ければ、いつまでも居座りそうだ。そのうち、帰ってくる優一と対面してしまう。
(ごめんなさい、優一さん。迷惑かけたくないのに)
震えてうずくまっていると、隣の部屋の扉が開く音がした。
隣に住んでいる老夫婦の怒鳴り声がこだます。
「あんたなんだい、何分もそこで騒ぎよって。常識がないんか! そこんちは昨日引っ越してったよ。いくら怒鳴ったって誰も出てきやしないんだからさっさとどこか行ってくれないか!」
「は!? あたしの許可なく引っ越したっての? 嘘つくな! チャイムの音がしているじゃないか!」
「不動産屋の最終チェックがあるからそりゃ、すぐにブレーカーを落としたりはしないだろうさ。わかったら失せな。早く行かないと警察を呼ぶぞ!」
母は舌打ちをしたあと、足音荒く立ち去った。
たぶん、もう帰った。それでも、静の震えは止まらない。
扉を軽くノックして、おばあさんが呼びかけてくれる。
「四ノ宮さんや、うるさいのは行っちまったから、安心しな。また来るようなら、あたしらがほんきでお巡りさん呼ぶけんね」
静は勇気を振り絞って扉を開け、その場にうずくまった。
「ありがとう、ございます……めいわくかけて、ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい……。こうなるのがわかっていたから、はやく、逃げたかったのに」
泣きじゃくる静の背を、おばあさんがなでてくれる。
隣人に礼儀知らずな来客があっても、多くの人は関わり合いになりたくなくて無視するだろう。ささいな言い争いで殺傷事件に発展することも多い昨今だ。
それなのに、母を諌め追い返してくれた。
この夫婦には感謝しかない。
「わしらにもあんたくらいの孫がいるからの。だから不憫で見ておれんかった。あんたが来て間もないのに引っ越す理由も、よくわかった」
「ごめん、なさい。ごめんなさい、まきこんで、しまって」
早く逃げないと、きっとまだ引っ越しが終わっていないことがばれてしまう。
優一に母が来たとメッセージを送ると、本来の時間より早めに帰ってきてくれた。
すぐにレンタカーショップでトラックを借り、日付が変わる前に新居に移動した。
逃げるように、ではない。
逃げたのだ。
明日引っ越しだから、今日中に調理器具と布団以外はしまう予定だ。
急ぎの引っ越しだから、請け負ってくれる業者がいなかった。
管理人と両隣の住人への挨拶は昨日済ませた。
今住んでいる場所もとてもいいところだ。緑が豊かだし、ご近所さんは優しいし。
親に住所がばれていなかったら、住み続けたかったと思う。
優一は休みをとれなかったことを何度も謝っていた。
数日前になってから急に有給を取りたいと言っても通らないのはしかたのないこと。どんな仕事にだって責任というものがあるのだから。
それに、手間のかかる物は夜のうちに優一がまとめてくれたから、静が詰めるのは季節外れの衣類が主だ。
荷解きのときすぐわかるように、箱に油性ペンで【春・秋物】【夏物】【下着】と記していく。
あらかた片付いて、部屋の中はだいぶすっきりとしてきた。
時計を見れば、もうすぐ昼になる。
冷蔵庫の要冷蔵品は夕飯で使い切る計算だから、昼はトーストとお茶で軽く済ませようと思っていると、チャイムが連打された。
宅配業者なら、チャイムを鳴らすのは一回二回程度。それに必ず、「○○運輸です」と業者名を名乗る。
静は誰にも今の住所を教えていないし、優一の仕事中だとわかる時間に優一の友人が訪ねてくるとも考えにくい。
嫌な予感がして、静は息を殺して自分の口を両手で塞いだ。
心臓の音がうるさくて、冷や汗が止まらなくなる。
「おい開けろ! いるのはわかっているんだよ静! 金をよこせ、家の掃除もサボるな。うちに来て洗濯しろ!!」
ドン! と扉を殴る音があたりに響く。
居留守をつかうと音がひどくなっていく。バッグを振りかぶって叩きつけているんだと想像がついた。
母がお金の無心にくる前に逃げ切りたかったのに、間に合わなかった。
近所の人からどんな目で見られるか、想像するのも怖い。
実家にいたときだって、母がこんなふうに傍若無人な振る舞いをするから、静はいつも肩身の狭い、居た堪れない思いをしていた。
(なんで、こんな目にあうの。私が、なにをしたっていうの。いつまで、こんなふうに怯えて暮らさないといけないの)
幼い頃から家事を押し付けられて、父が亡くなったあとは休み無く仕事をさせられて。まるで奴隷かなにかのような扱い。キララはどんなわがままも許されてきたのに。
静がどれだけがんばっても、母は優しい言葉をかけてくれなかった。
いい子でいたらいつか愛してくれるかもしれないと期待したこともあった。
でも、静に優しいのは父だけ。
期待はうち砕かれて、静が傷つくだけで終わった。
どんなにがんばったって、母は静を愛さないし、都合のいい
黙っていろ、喋るな、クソ親父と似た顔を見ているだけで殴りたくなる。母の口癖だった。
扉を殴りつける音を聞きながら、静は考える。
お金を渡せば帰ってくれる。
でも、一度渡してしまえばこれからも静からむしりとれると思って、何度でもやってくる。
かといってこのまま無視を続ければ、いつまでも居座りそうだ。そのうち、帰ってくる優一と対面してしまう。
(ごめんなさい、優一さん。迷惑かけたくないのに)
震えてうずくまっていると、隣の部屋の扉が開く音がした。
隣に住んでいる老夫婦の怒鳴り声がこだます。
「あんたなんだい、何分もそこで騒ぎよって。常識がないんか! そこんちは昨日引っ越してったよ。いくら怒鳴ったって誰も出てきやしないんだからさっさとどこか行ってくれないか!」
「は!? あたしの許可なく引っ越したっての? 嘘つくな! チャイムの音がしているじゃないか!」
「不動産屋の最終チェックがあるからそりゃ、すぐにブレーカーを落としたりはしないだろうさ。わかったら失せな。早く行かないと警察を呼ぶぞ!」
母は舌打ちをしたあと、足音荒く立ち去った。
たぶん、もう帰った。それでも、静の震えは止まらない。
扉を軽くノックして、おばあさんが呼びかけてくれる。
「四ノ宮さんや、うるさいのは行っちまったから、安心しな。また来るようなら、あたしらがほんきでお巡りさん呼ぶけんね」
静は勇気を振り絞って扉を開け、その場にうずくまった。
「ありがとう、ございます……めいわくかけて、ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさい……。こうなるのがわかっていたから、はやく、逃げたかったのに」
泣きじゃくる静の背を、おばあさんがなでてくれる。
隣人に礼儀知らずな来客があっても、多くの人は関わり合いになりたくなくて無視するだろう。ささいな言い争いで殺傷事件に発展することも多い昨今だ。
それなのに、母を諌め追い返してくれた。
この夫婦には感謝しかない。
「わしらにもあんたくらいの孫がいるからの。だから不憫で見ておれんかった。あんたが来て間もないのに引っ越す理由も、よくわかった」
「ごめん、なさい。ごめんなさい、まきこんで、しまって」
早く逃げないと、きっとまだ引っ越しが終わっていないことがばれてしまう。
優一に母が来たとメッセージを送ると、本来の時間より早めに帰ってきてくれた。
すぐにレンタカーショップでトラックを借り、日付が変わる前に新居に移動した。
逃げるように、ではない。
逃げたのだ。