マリオネットは契約結婚で愛を知る。

 静は目を覚ましておおいに焦った。

「あ、あれ? ……もしかして私、あのまま寝ちゃった?」

 自分の部屋に歩いて帰った記憶がないのに、きちんと自分の布団で寝ていた。
 それはつまり優一が静を部屋まで運んでくれたということに他ならない。

(ああああ、絶対重たかったよね、途中で寝ちゃうなんて、もう、私のバカバカバカ。どんな顔して優一さんに会えばいいの)

 よだれを垂らしていたんじゃないかとか、変な寝言を言ってなかったかとか、申し訳無さと恥ずかしさで頭がパンクしそうだった。
 混乱しながらも洗面台で顔を洗って頭をシャキッとさせて、朝食の支度をする。ご飯を作ることに頭のリソースを割いて、意識をそらした。

 甘じょっぱい味付けのだし巻き卵を焼いて、大根おろしを添える。それにほうれん草のおひたしと、豆腐の味噌汁を作った。
 たまご焼きの好みが甘いのかしょっぱいのか確認したほうが良かったか迷ったけれど、バイト先の食事処で人気だったレシピで作ってみた。
 ごはんは昨夜のうちに炊飯器の予約を入れてあるから、炊けるのを待つだけだ。

「おはよう……」

 優一がぼんやしりながら起きてきた。前髪に寝癖がついていて、日中のキリッとした姿からは想像できないくらい気が抜けている。

「お、おはようございます、優一さん。昨夜は迷惑をおかけしたみたいですみません。私変な寝言とか言ってないですよね」
「だいじょうぶだよ。朝ごはん作ってくれたんだ。ありがとう。おいしそうな匂いがする」

 二人で手を合わせて、いただきますをする。

「ああ、美味しい。すごく優しい味がする。静ちゃんはいいお嫁さんになれるよね。奥さんにできる人は幸せだろうな」

 すでに自分の嫁である。ということに気づいて優一は自分の発言に焦った。変な空気になったのを咳払いしてきりかえる。

「僕が寝坊したから任せる形になっちゃったね。明日は僕が作るから」
「いえいえ。当番制にすると疲れちゃいそうだから、どちらかできるほうがやればいいんです」
「そう、だね。ありがとう」

 朝食のあとはふたりで携帯ショップに行って、電話番号の変更と契約事項変更手続きをとった。名字と住所の移行以外にも、支払い口座を変えておく必要がある。
 給与振込の口座がそのままスマートフォンの支払い口座だったから、優一の口座で二人の分をまとめて払えるように切り替える。
 二人ともたまたま同じキャリアの携帯だから、手続きはスムーズに終わった。

「最近の携帯って、すごいんですね。私、機種変更しないと電話番号を変えられないものだと思っていました」
「豆知識だよね。実はちょっと書類を書けばその日のうちに済むんだよ。僕のものも知られちゃっていたから、変えるいい機会だった」

 静だけでなく優一の番号も変更した。これで優一も実家から電話がかかることはない。それでも念の為、母とキララ、伯母の電話番号も着信拒否設定にした。

「あとは叔母さんたちに押さえられてしまっている銀行口座をとめておこうか。引っ越しのときに通帳とキャッシュカード一式紛失したっていうことにして」
「その手続きをすると、どうなるんです?」
「キャッシュカードが再発行される。新しいものは静ちゃんのところに届く。紛失したほう・・・・・・つまり叔母さんが持っているカードと通帳を使えなくなる。使おうとするとエラーが表示される。静ちゃんの口座はあくまでも静ちゃんのためのものなんだから、当然だよね」

 優一はにこりと人のいい笑顔を浮かべる。静も、がんばって働いたお金をこれ以上勝手に使われたくないから、アドバイスに従って手続きを取る。警察にも遺失届を提出した。引っ越しに伴って失くしてしまった体でいく。

 それからマンスリー物件の取扱もしている不動産屋に足を運んだ。
 優一が「今のマンションの契約が今月末までなので、できるだけ早く入居できるところを探しているんです」と説明する。
 担当についてくれた宅建士の男性は、五十くらいに見える。落ち着きのある人で、いくつかピックアップしたバインダーを広げてくれた。

「鎌倉市内でふたり暮らしからファミリー向け、四ノ宮様のご予算内で即入居可ですと、このあたりですね。内見も可能です」

 部屋探しが初めての静は驚くばかりだ。
 担当者が物件によっては1Kでも2DKより高い。築年数、駅や学校などの施設の距離で変動する。ということを説明してくれて、なんども頷いた。
 物件情報の一覧をめくり、優一は静の希望を聞いてくる。

「静ちゃん、部屋で譲れない条件ってある?」
「え? ううーん。…………えと、あ、あれ、あれがいいです。CMで見たことがある……お客さんが誰なのか、家の中の機械で顔が見える。なんて言うんでしょうあれ」
「インターフォン?」
「多分それです」

『母やキララが居場所を突き止めて突撃してきたら怖い』とまっ先に考えてしまった。静は自分の中に刻まれた暗くて根深いものを感じてしまって、悲しくなる。
 優一も同じ境遇で育ったため、深く聞かずともわかってくれた。

「最近は何かと物騒だもんね。他にはある? ペット可の物件がいいとか、そういうの」
「ペットって、アパートやマンションでも飼っていいんですか。一軒家の特権だと思っていました。許可なく飼うと怒られるんでしょう」

 静の頭に、庭付きのお宅に犬小屋とかわいいワンコ、という典型的なイメージが浮かんだ。
 担当者がくすくす笑っている。

「オーナー様によっては、小動物を許可しているところもあります。ですがペット可の物件は敷金礼金がそうでないお部屋より一月分から二月分高いです。猫ちゃんやワンちゃんは、壁を引っ掻いて傷つけてしまったり、ふん尿の臭いがしみていまいますから。退去の際のハウスクリーニング料も、飼っていない借り主様より高い傾向にあります。ペットを飼っていなくても、ヘビースモーカーの方ですと壁紙に臭いがついて変色、壁紙全部張替えで費用が高くつくなんてこともザラです。タバコは本当に勘弁してください……。オーナー様だけでなく次の入居者様も迷惑しますので」
「だ、大丈夫です。なにも飼う予定はないです。タバコも吸わないので安心してください。ね、優一さん」

 過去にヘビースモーカーの方となにかあったのか、担当者さんの顔は悲壮感漂うおつかれモードになった。
 静が知らなかっただけで、不動産屋の賃貸事情はとっても奥が深かった。

「さっきから私の希望ばかり聞いているけど、優一さんだって住むんですからちゃんと希望を出してください」
「僕は二人で住めるならどこでもいいから、静ちゃんの希望を聞いているんだ」

 さらりと恥ずかしいことを言われて、静の顔に熱が集まった。

「勤務先から車で十分以内だったり、駐車場付きだったり、通勤に便利なところを選ぶ方が多いですよ。そのあたりはいかがでしょう」
「今の出向先が鎌倉なのでそこからあまり遠くないと嬉しいですが、車で移動できるので問題ないです。細かいところは妻の希望に合わせます」

 冗談でなく、本気で静の希望を最優先にするつもりだ。静は嬉しいよりは責任重大という気持ちのほうが大きくて、緊張した。
 宅建士の方いわく、外の様子をビデオで確認できるインターフォンは、備え付けがない部屋でも自分で買って設置もできるそうだ。とくに女性のひとり暮らしでそういうものを買って取り付ける人が多いのだとか。
 

 最寄りにスーパーがあるかどうかや駐車場、などなどを考えて二部屋まで絞り込み、内見して、鎌倉駅近くの物件に決まった。
 ベランダがあって、洗濯物を干すだけでなくプランターでガーデニングも楽しめそうというのが決め手だ。一月中に入居することも可能。

 賃貸契約申込書を書くのを横で見ていて、静はここで初めて優一の職業を知った。
 職の欄に会社員・パソコンインストラクター、と記載されている。

「職業訓練校の講師、ワードやエクセル、パワーポイントといったソフトを教える。去年は初級クラスを教えていたけれど、今教えているのは中級技能クラスなんだ」とこっそり小声で教えてくれた。
 静はパソコンに触ったことがないから詳しくはわからないけれど、先生になれるくらいパソコンに詳しいというのはわかった。
 ひとあたりがいいし、穏やかだし、講師という仕事は優一にとても合っているように感じた。

 マンションに帰ってから、静は改まって優一に申し出る。

「お部屋の入居費用、私も出します。昨日受け取ってきたお給料、使ってください。お引っ越しが済んだら近くで働けるところを探して生活費も半分負担しますし……」
「ありがとう。でも、静ちゃんはこれまで十分すぎるくらいに働いていたんだから、しばらくはゆっくりしていていいと思うんだ。そのお金も静ちゃん自身のために使ってほしい」

 優一には助けたときに出した百万円を返せと言う権利がある。
 大人の男性だから、非力な静を殴ってお金を取ることだってできる。
 それをしないで、静の自由にしていいと言う。
 ひとりの人として尊重してくれているのが伝わってきて、こそばゆい気持ちになる。
 優一のために何かしたいという想いが芽生える。

「私が使い道を決めていいのなら、引っ越しのときにかかる費用を少しくらい出させてください。だって、私のためにすでに百万円も払ってもらっているんです。優一さんに助けてもらってばかりなのは、対等じゃないです。夫婦っていうのは苦労も分け合うものでしょう」

 静が言い募ると、ついに優一が根負けした。

「そこまで言うなら、ちょっとだけ静ちゃんに負担してもらおうか」
「はい。任せてください」

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