名前のない、ましろな五線譜
とある国に姫が生まれた。
姫を育てることになった乳母には息子がいて、その子は乳兄弟になった。
同じものを食べ、庭園を駆け回り、城の礼拝堂でオルガンを弾いたり、いつも一緒。ほんとうの兄妹のように育った。
時にはケンカもした。
もちろん、乳兄弟のほうが立場が下なので、ケンカの原因が姫であった場合でも謝り、自分が悪かったと言うしかない。
それに気づくと、乳母は姫を叱った。
自分の立場が優位であることを利用して、人を貶めてはいけないと。
王族であればこそ、過ちを素直に認めて頭を下げる心を持ってください。
姫は、してはならぬことをしてしまったことを理解して、乳兄弟に謝った。
時が経ち、姫と乳兄弟は十三才になった。王の一人娘として様々な習い事に忙しくなった。
乳兄弟も、王国を支えるため、騎士見習いになった。
以前ほど一緒にいる時間はなくなったし、姫はいずれ貴族の誰かを夫に迎えなければならない身。
本人たちにその気はなくとも、妙齢の男女がともにいて、そこに恋愛感情があるのではと勘ぐる者も出てくるだろう。
婚姻に支障をきたす恐れがあるから、乳兄弟とは距離を置くようにと父王から言いつけられた。
この頃にはお互い己の役目を理解していたので、二人とも王の言いつけに従った。
さらに時が経ち、姫が十五の年。姫は両親とともに公務に勤しむようになり、乳兄弟も見習いから正式な騎士になった。
近隣国との仲が思わしくなく、騎士希望の若者は引く手あまただった。
その若手騎士の中でも、乳兄弟は侍女たちからの熱い視線をほしいままにしていた。
無駄なことを言わない寡黙さと任務に忠実な生真面目さが大人びていて良いのだそうだ。
乳兄弟が褒められるのは誇らしいはずなのに、姫はあまりおもしろくなかった。
たまに城内の移動中にすれ違うとき、他愛もない会話を交わす程度。
ともに駆け回った日々など遠い昔になっていた。
さらに三年、姫は十八才になった。
関係が悪化していた隣国と、ついに戦がはじまった。
戦地には多くの騎士が投じられることになり、その中には乳兄弟もいた。
出立の前日、乳兄弟は久しぶりに姫に会いに来た。まともに言葉をかわしたのなんて何年ぶりになるのか。
幼い頃同じくらいだった乳兄弟の背丈はとうに姫を追い越していて、見上げるときに首がいたいほど。
侍女が何人も乳兄弟に求婚して玉砕していると聞いたが、誰か一人くらい、想いを寄せてくれた少女の手を取ることをしたのだろうか。
寡黙な乳兄弟は、何か言おうとしたが、言葉を飲んだ。
姫はどうかご無事で、と乳兄弟に告げた。
幼少期を共有したというのに、見送りの挨拶に当たり障りのないことしか言えないなんて、可愛げのない女だと思ったことだろう。
姫は心配のあまり公務も手につかず、普段しないような失敗をいくつもした。
きっとケロリとして帰ってくるという思いと、もしかしたら……という不安が交互に押し寄せて来る。
どうか大切な乳兄弟が無事であるようにと祈るしかなかった。
そして半年。姫の国は多くの犠牲を払ったものの、戦争に勝利した。
騎士たちはひとり、またひとりと帰ってきた。
終戦から数ヶ月経っても乳兄弟は帰らなかった。
戦乱の世で、騎士なのだから覚悟はできていました、と乳母は気丈に振る舞った。
大丈夫だと言ったあと、乳母が城の庭園の片隅で一人泣いていたことを、姫は知っている。
最愛の一人息子を亡くして、大丈夫なわけがない。
きっと自分の弱いところを誰かに見せたくはなかっただろうから、姫はそっとその場を離れた。
乳兄弟が出立するとき、己の気持ちに素直になって、行くなと泣きすがれば、今ここにいてくれただろうか。
姫は幼い頃乳兄弟とよく一緒に過ごしていた、城内の礼拝堂に向かった。
彼と隣り合って連弾した、あの日々はもう戻らない。
姫は鍵盤に指を踊らせる。
名前のある曲ではなく、心の赴くままに弾いた。
姫は乳兄弟に対する気持ちの名前を知らない。言葉にすることは許されない。
自分たちの関係は姫と乳兄弟、それ以上でも以下でもない。
そうあるべきだと言われて育ったのだから。
だから楽譜が存在しない、姫の心にだけあるましろな五線譜のままに奏でる。
名も無きこの曲を弾いている間は、姫ではない一人の少女でいさせてほしい。
少女は泣いた。視界が滲んで鍵盤を目視できないくらいに、涙が流れる。
泣きながら一心不乱に鍵盤を指で叩く。
終わったらちゃんと、姫に戻るから。
父の決めた相手を夫に迎え、もう戦争なんて起こさない国にするから。
タタン、タンタンタタン。
曲名のない独奏が、いつまでもいつまでも城に響いていた。
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同じものを食べ、庭園を駆け回り、城の礼拝堂でオルガンを弾いたり、いつも一緒。ほんとうの兄妹のように育った。
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もちろん、乳兄弟のほうが立場が下なので、ケンカの原因が姫であった場合でも謝り、自分が悪かったと言うしかない。
それに気づくと、乳母は姫を叱った。
自分の立場が優位であることを利用して、人を貶めてはいけないと。
王族であればこそ、過ちを素直に認めて頭を下げる心を持ってください。
姫は、してはならぬことをしてしまったことを理解して、乳兄弟に謝った。
時が経ち、姫と乳兄弟は十三才になった。王の一人娘として様々な習い事に忙しくなった。
乳兄弟も、王国を支えるため、騎士見習いになった。
以前ほど一緒にいる時間はなくなったし、姫はいずれ貴族の誰かを夫に迎えなければならない身。
本人たちにその気はなくとも、妙齢の男女がともにいて、そこに恋愛感情があるのではと勘ぐる者も出てくるだろう。
婚姻に支障をきたす恐れがあるから、乳兄弟とは距離を置くようにと父王から言いつけられた。
この頃にはお互い己の役目を理解していたので、二人とも王の言いつけに従った。
さらに時が経ち、姫が十五の年。姫は両親とともに公務に勤しむようになり、乳兄弟も見習いから正式な騎士になった。
近隣国との仲が思わしくなく、騎士希望の若者は引く手あまただった。
その若手騎士の中でも、乳兄弟は侍女たちからの熱い視線をほしいままにしていた。
無駄なことを言わない寡黙さと任務に忠実な生真面目さが大人びていて良いのだそうだ。
乳兄弟が褒められるのは誇らしいはずなのに、姫はあまりおもしろくなかった。
たまに城内の移動中にすれ違うとき、他愛もない会話を交わす程度。
ともに駆け回った日々など遠い昔になっていた。
さらに三年、姫は十八才になった。
関係が悪化していた隣国と、ついに戦がはじまった。
戦地には多くの騎士が投じられることになり、その中には乳兄弟もいた。
出立の前日、乳兄弟は久しぶりに姫に会いに来た。まともに言葉をかわしたのなんて何年ぶりになるのか。
幼い頃同じくらいだった乳兄弟の背丈はとうに姫を追い越していて、見上げるときに首がいたいほど。
侍女が何人も乳兄弟に求婚して玉砕していると聞いたが、誰か一人くらい、想いを寄せてくれた少女の手を取ることをしたのだろうか。
寡黙な乳兄弟は、何か言おうとしたが、言葉を飲んだ。
姫はどうかご無事で、と乳兄弟に告げた。
幼少期を共有したというのに、見送りの挨拶に当たり障りのないことしか言えないなんて、可愛げのない女だと思ったことだろう。
姫は心配のあまり公務も手につかず、普段しないような失敗をいくつもした。
きっとケロリとして帰ってくるという思いと、もしかしたら……という不安が交互に押し寄せて来る。
どうか大切な乳兄弟が無事であるようにと祈るしかなかった。
そして半年。姫の国は多くの犠牲を払ったものの、戦争に勝利した。
騎士たちはひとり、またひとりと帰ってきた。
終戦から数ヶ月経っても乳兄弟は帰らなかった。
戦乱の世で、騎士なのだから覚悟はできていました、と乳母は気丈に振る舞った。
大丈夫だと言ったあと、乳母が城の庭園の片隅で一人泣いていたことを、姫は知っている。
最愛の一人息子を亡くして、大丈夫なわけがない。
きっと自分の弱いところを誰かに見せたくはなかっただろうから、姫はそっとその場を離れた。
乳兄弟が出立するとき、己の気持ちに素直になって、行くなと泣きすがれば、今ここにいてくれただろうか。
姫は幼い頃乳兄弟とよく一緒に過ごしていた、城内の礼拝堂に向かった。
彼と隣り合って連弾した、あの日々はもう戻らない。
姫は鍵盤に指を踊らせる。
名前のある曲ではなく、心の赴くままに弾いた。
姫は乳兄弟に対する気持ちの名前を知らない。言葉にすることは許されない。
自分たちの関係は姫と乳兄弟、それ以上でも以下でもない。
そうあるべきだと言われて育ったのだから。
だから楽譜が存在しない、姫の心にだけあるましろな五線譜のままに奏でる。
名も無きこの曲を弾いている間は、姫ではない一人の少女でいさせてほしい。
少女は泣いた。視界が滲んで鍵盤を目視できないくらいに、涙が流れる。
泣きながら一心不乱に鍵盤を指で叩く。
終わったらちゃんと、姫に戻るから。
父の決めた相手を夫に迎え、もう戦争なんて起こさない国にするから。
タタン、タンタンタタン。
曲名のない独奏が、いつまでもいつまでも城に響いていた。
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