ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜

 旅から帰ってきた翌朝。ディーは自室の掃除をしていた。

 ここは兵舎の隣にある棟で、召使いや文官、補佐官のための宿舎。ディーは補佐官用の一室を与えられている。

 旅一座の人間だった自分に帰る家ができた。反乱軍になる前の自分に言っても信じないと思う。

 窓から入る陽光に、チラチラとホコリが見える。ホコリを吸わないよう、ハンカチで口周りをおおって頭の後ろで縛り、簡易マスクにする。
 床をひとなでするだけで濡れ雑巾が黒ずむ。
 部屋がこの状態だから、昨夜は城内にある召使いの仮眠室を借りていた。 

「う〜ん。やっぱ六ヶ月も空けているとホコリが溜まるねぇ」

 バケツの水も真っ黒。掃除や片付けは慣れっことはいえ、かわいた笑いがもれるというものだ。
 一通り掃除を終えて部屋をみまわす。
 寝台にランタン、弦楽器のウード。机にはイズティハル文字の教本とルベルタ文字の本。
 そして衣装棚の上には、ヤ・ポン土産のシャ・ケクマ。

「あはははっ。クマだけ異色ー!」

 イーリスがどうしても欲しいといったから買ったけれど、いかめしい顔のクマのどこが可愛いのか。ディーにはわからない。
 小ぶりだからこっちのほうが土産に向いているよと、竹細工の扇子を薦めたのに却下された。
 
「おう。掃除が終わったか、ディー」
「サーディクじゃん。どうしたの、こんなとこまで来るなんて」

 掃除道具を片付けているとサーディクが来た。兵舎とこの宿舎、建物が隣とはいえ兵がここに来ることは殆どない。

「ディーはうちの子にまだ会ってねーだろ。会ってやってくれよ」
「わー、サーディクがお父さんなんて世も末だね」
「どういう意味だコノヤロー」

 容赦なく手刀が降ってきた。

 他に予定もないし、誘われるままサーディクの部屋を尋ねる。エウフェミアが、まだ首の座らない赤ちゃんを抱いて出てきた。
 エウフェミアは半年ぶりの再会を喜ぶでもなく、淡々と口を開く。

「あぁ、ディーも来たんだ」
「前から思っていたけど、ボクに冷たいよねキミ。……ディーもって、どういうこと?」
「イーリスも来ている」

 エウフェミアの後ろから、イーリスがひょっこり顔を覗かせた。

「見てくださいディー。ヤークトです。小さいサーディクです」
「ぷっ」

 まだ口もきけない赤ちゃんなのに、鼻筋や目元が驚くほどサーディクに似ている。

「性格まで似ないことを祈るのみだね」
「あたしもそう思う」
「せめて性格はエウフェミアに似てほしいですよね」
「ちょ、ちょちょ、ディー! エウフェミア、イーリスまで。そりゃないぜ。これでもオレ、いいお父さんになろうと努力してるんだぜ」
 
 味方がいなくて涙目になっているお父さん。 
 そんなことを知らない息子《ヤークト》はきゃっきゃと笑っている。


 あまり長居するわけにもいかないから、軽く挨拶をして帰路につく。

 イーリスが帰るのはスラム開発区の診療所だ。
 日が傾いてきているため、念の為ディーが診療所までおくる。

 なんだか今日は口数が少なくて、いやに大人しい。
 
「ディーは……」
「ん、なに」
「いえ、何でもありません」
「そう? ほら、イーリス。診療所に着いたよ。医学の勉強がんばってね」

 別れ際に手を振ると、イーリスはぎこちなく笑って手を振り返した。



 部屋に帰ると、先客がいた。
 もう一度言う。先客がいた。
 何度考えてもここはディーの一人部屋。棚にクマが置かれているから間違えようもない。

「は!? なんでここにいんの? ボクの部屋だよね!?」
「おかえりディー。早かったな」

 オイゲンが我が物顔でお茶を楽しんでいた。敷布には糖蜜コーティングの焼き菓子、お茶のカップがニ人分。

 ディーの前にその一つが置かれた。

「質問に答えてよ」
「休憩時間なんだよ」
「いやいやいやいや、ボクの部屋を使うのやめてよ。これから寝ようと思ってたのに。オイゲンも兵舎に自分の部屋があるでしょ」
「俺の部屋、片付いてねーから」

 一人住まい用として作られた部屋だから、正直居座られると狭い。

「それでどうよ。姫さんとは進展したのか?」
「は? 進展ってなに」

 オイゲンを避けて寝台に潜り込もうとしたのに、足首を掴まれた。

「まあまあ。座って話そうぜ」
「もう一度言うけど、ここボクの部屋なんだよね」
「半年もふたりで旅したのに何もないのか?」
「あのさぁオイゲン、マラ教の教えとして『伴侶以外の者と色事禁止』ってのがあるの知ってる?」
「俺もディーもマラ教徒じゃないじゃん」

 ディーがどう言おうと、自分の思う方に話を進めたいらしい。
 諦めてそこに足を投げ出し、お茶を受け取る。

「ボクが無宗教でもイーリスはマラ教の人でしょ。それにようやく政略結婚うんぬんの立場から解放されたんだから、まだ自由に行きたいんじゃない?」
「バカだなぁ。女が好きでもない男とふたり旅なんてするかよ」
「未婚のオイゲンに女心を説かれても、説得力ないよ」

 どれだけ蜜を入れたのか、お茶本来の風味がわからないくらい甘ったるい。

「イーリスを狙っているやつがいるのに、そんなこと言っていていいのか?」
「は?」

 寝耳に水とはまさにこのことか。
 ディーの反応に気を良くしたのか、オイゲンが言う。

「ダギルっていう貴族の男。ガーニムが王だった頃決めた婚約者。姫でなくなっても見目を気に入っているから、第四夫人に迎えたいとかなんとか。先月、ファジュルのところに打診に来てたんだよ。交流があるなら話を通してくれって」
「は?」

 ファジュルが王になったことで、ガーニムが配下とした約束なんてほぼ有耶無耶になっていた。
 だがダギルの中では、有耶無耶ではなく生きた約束のまま。

「それ兄さんが断るべきでしょ!」
「仲介を持ちかけられたのはファジュルなんだから、俺に言われても」

 オイゲンと話していても好転しない。
 ディーは弾かれるように立ち上がり、ファジュルのもとに向かった。


 ファジュルは執務室で書類に目を通していた。

「兄さん、イーリスのところにダギルってやつが話を持ってきたって!? なんで断固拒否しないのさ! 自分の意志と関係なく見知らぬオッサンが夫になるなんてかわいそうじゃん」

 前置きなしにまくし立てたのに、ファジュルはいつも通り冷静だ。書類から目を離さずに答える。

「なぜディーが怒る。男側から婚姻の話を持ちかけて輿入れの金を払う、女性は求婚を受けるかどうか決める。……マラ教の教えに則った求婚を、国王の俺に私情で歪めろと言うのか? 求婚を拒む権利があるのはイーリス本人だけだ」
「それはええと、でも、なんか違うよそんなの!」

 ここはマラ教の国で、みんなその教えを大切にして生きている。
 それを、マラ教徒でないディーが「かわいそう」と言うのは自分勝手なことだって言うのもわかっている。
 わかっているけれど、許せないと感じてしまう。

 つっ立ったままのディーに、ファジュルは視線だけ向けて言う。

「ディー。一つ教えてやろう。マラ教において男性は複数人の妻を持てるが、女性は重婚できないんだ」
「何言って……」

 ファジュルのそばに控えていたディヤが、クックと喉を鳴らす。

「ここまで手がかりをもらってもわからないなんて、鈍い子ねぇ」
「何なのさ」
「いくら貴族でも、既婚女性を妻にすることはできないのよ」
「それ、嫌な婚姻を拒絶するという理由で他の誰かと書類上夫婦になればいいってこと!? そんなのマラ神の教えに反するでしょ」

 どうにも苛立ってしまう。イーリスはそういうのが嫌だから姫の立場を捨てたのに。自由に生きているのが似合う子なのに。

「そうじゃない、ディー。イーリスにはすでに想う相手がいるんだから、ダギルより先にそいつと結婚すればいいと言っている」
「はぁ?」

 今度こそ、ファジュルは顔を上げてディーと視線を合わせた。

「法の上で、ただの従弟のディーじゃ、イーリスが求婚されることに口出しできない」

 口出ししていいのは伴侶だけ。

「なんだよ、それ。ボクにどうしろって言うのさ!」
「自分で考えろ」

 ファジュルは書類を片付けると、寝室に下がってしまった。

 重い気持ちで自分の部屋に戻る。
 もうオイゲンはいなかった。かわりに焼き菓子とお茶だけテーブルにおいてあって、「無自覚バカ」と走り書きされている。

「なんだよ、みんなして」

 頭から布団をかぶって、枕を抱きしめる。
 本当は何をしないといけないのかわかっている、けれど認める気になれない。

 書類上だけでもディーと夫婦になれば、イーリス貴族からの求婚を逃れることができる。
 本当に夫婦になりたい人を見つけたらその時離婚して、再婚すればいいという話ではない。
 マラ教では、離婚経験のある女性はそれだけで倦厭される。

 翌朝、ディーは食事を終えて開拓地区に向かった。開拓作業を手伝わないと。

「おはよ、ユーニス!」
「ん、おはよ」

 ユーニスが駆け寄ってきた。最後に会ったときよりだいぶ背が伸びている。四才から十代前半は成長期だから、来年の今頃は見違えるくらい大きくなっているんだろう。

「ディー、いつもより元気ないね。なんかあった?」
「別に何も。ボクはいつもどおりのボクだよ」

 いつもどうやって笑っていたっけ。わからない。

「困ります。私はここで仕事をしていきたいんです!」
「ダギル様のところに行けばお金に困らないのになぜそのようなことを」
「娘を嫁にやることはできません。お引き取りください」

 診療所の前で、イーリスと使者らしき男が言い争っていた。
 ヨハンが至極丁寧な口調で追い返そうとしているけれど、キレる寸前の顔をしている。

 考える間もなく、足が動いていた。

「人の嫁を横取りなんて、やめてよね」
「ディー……」

 背後からイーリスの声がする。

「何だきさま」
「ボクはこの子の夫。もう婚約式の予定も決まってるから諦めてくれない? 貴族なら、女性の重婚が禁じられているのはわかるよね」
「ぐ……」

 法を犯せば、家名に傷がつく。使者は唇を噛み、逃げるように立ち去った。

「ディー、イーリスを助けてくれてありがとう」
「いいっていいって。こうでも言わなきゃあいつら諦めないでしょ」

 ヨハンがほっと息をつく。父親であっても婚姻を邪魔できる範囲には限度がある。ディーしかできなかったと思う。

「うぁああんん!」

 イーリスがその場に座り込んで泣き出した。
 ヨハンが背中を撫でても、なかなか泣きやまない。

「ごめんごめん。言うだけならタダだから、追い返せるかなって思ったんだけど……嘘でも嫌だったならもうしないから、泣きやんでよ」
「ううん、ありがとう」

 膝をついて目線を合わせて言うと、ようやくイーリスは笑った。

「わー、ディーはイーリスと結婚してたの? おれ披露宴よばれてない! ごちそう食べたかったのに!」


 とっさについた嘘を、ユーニスはバカ正直に受け止めてしまった。

「ばあちゃんーー! ディーがひどいんだよ、仲間なのにおれを披露宴に呼んでくれなかった!」
「え、いや、待って? 今のは違う! 違うから、ユーニス、待ってってば!」

 王子が生まれたときよろしく、みんなに触れ回る気だ。ディーが止めるのも聞かずに行ってしまった。

「相変わらず風のように素早いですねー、ユーニスは」
「伯父さん、笑ってないでユーニスを止めてよ! このままだとイーリスとボクが夫婦扱いされちゃうんだけど」
「これまでが書類上そうじゃなかっただけで、似たようなものでしょう。いけ好かない貴族のもとに嫁に出すより、ディーのほうが安心」
「伯父さんーー!?」

 本人たちの意志が固まらないうちに、親公認になっている。

「父親としては、プロポーズの言葉が何だったのか聞いてみたいところだ」
「してないから! あいつを追い返すための嘘だから!」

 イーリスもイーリスで、嫌がるどころか笑いをこらえている。

「イーリスも、このままだとボクと夫婦になっちゃうよ?」
「このままがいいです」
「ええと……それって」
「私はディーと夫婦なの、嬉しいもの。ディー、この先もずっと、私と一緒にいてくれる?」

 そう言って、これまでで一番きれいに笑った。



 ディーがようやく腹をくくって告白し、披露宴が行われたのは三月後のこと。



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