ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜

 ファジュルが玉座に就いてから八ヶ月。
 イズティハル城に産声が響いた。
   
 王子誕生の知らせはスラム開拓地区にも届いた。
 ユーニスが朝早く、ヨハンの診療所に飛び込んできた。

「それでね、それでね、こんなにかわいいの! おれ、お兄ちゃんになったんだ!」
「それはおめでたいですね」
「先生とイーリスも会ってほしいって、兄ちゃん言ってたよ」
「そうですね。時間ができたらうかがいましょう」

 本来国王に会うのは、友だちに会うように気軽に行けるようなものではない。けれどファジュルは王になっても気質までは変わらないらしい。
 こまめにスラムの様子を見に来るし、時間があるときは開拓作業に加わる。
「国王陛下が自らそんなことしなくていいです!」と護衛の兵たちが嘆くのも日常となっている。

「それじゃおれ、ばあちゃんたちにも伝えてくるー!」

 ユーニスは足踏みしながら飛び出していった。
 またたく間に遠くなる背中を見送り、イーリスは笑う。

「あのぶんだと、今日中にはスラムのみんなが知ることになるわね」
「お兄ちゃんになったのがそれほど嬉しいんでしょう。僕もヨアヒムが生まれたときはあんな風だったと、よく両親に言われたものです」
「そうなのね。なんか想像つくなぁ」

 ひとりっ子なのできょうだいというものに憧れはある。
 ないものねだりなのはわかっているし、きょうだいがほしかったと言うと父が傷つくような気がするので口には出さない。

「イーリス。もうすぐ診療所を開ける時間になるから、水を汲んできてくれないか」
「わかったわ、父さん」

 イーリスはカバンを提げ、水瓶を抱えて住居兼診療所を出る。
 この八ヶ月、父の元で診療助手をしてきた。
 傷の応急手当や症状の見分け方など様々なことを教わった。
 王女として文字や歴史、国土の勉強はしていたけれど、医学の知識なんて皆無だった。
 自分は未熟で知識が足りないと痛感する。

 井戸のところに行くと、今はシナンと名を改めた男が顔を洗っていた。
 平民と変わらない服、泥と埃にまみれた姿は王だった頃からは想像できない。
 けれど、王だったときよりもずっと人間味があるように見える。

「もう聞きました? 今朝、王子様が生まれたんですって。あとで会わせてもらうんです」
「そうか」

 興味なさそうに、そっけない返事がくる。
 政敵を殺すと言っていた男がこうも変わるとは。シナンは袖で顔についた水分を乱暴に拭い、妻のいる方に歩いていく。

「私も早く帰ろう」

 桶をおろして水を汲みあげる。冷たくて透き通る水が、陽光を反射してキラキラ光る。
 ロープを引き、腕にかかる重みにようやく慣れた。
 疲れるけれど、嫌な疲労ではない。
 十七年間、誰かに何かをしてもらう生活だったから、イーリスにとって新鮮なことばかり。

 瓶を持ち上げ……重い。何回も運ぶと大変だと思ってたくさん入れすぎたかもしれない。
 けれどこれくらい一人でできないと父の助手なんて務まらない。

 一歩一歩、物理的に重い足取りで進む。周りの人たちがこちらを見ているのがわかる。情けないとか力がないなとか思われているかもしれない。

「ふぬぬぬ……」
「なにしてんのさイーリス」

 横から伸びてきた手が、ひょいと水瓶を奪った。イーリスが一歩踏み出すのもやっとだったのに、軽々と抱えて行ってしまう。

「ちょ、ディー!」
「診療所に運ぶんでしょ。イーリスが運んだんじゃ、帰る頃には日が沈んじゃうよ」
「そうだけど、そうだけどー!」

 イーリスは早足でディーのあとを追いかける。横に並ぶと、ディーはイーリスを見下ろして言う。
 
「兄さんとこ王子様が生まれたんでしょ。さっきユーニスが話してたよ。診療所を閉めたらイーリスと伯父さんも会いに行くでしょ」
「え、ええ。そのつもりだけど」
「あーあ、サーディクのとこもあと五ヶ月で生まれる予定でしょー。みんな結婚しちゃってさぁ。気軽に遊びに誘えないから、ボク寂しいよ」

 見上げる白い横顔は、本当に寂しそう。
 反乱軍として活動していた頃は、サーディクやオイゲンたちと毎日一緒に馬鹿騒ぎしていたから。
 命がけで大変だったけれど、仲間たちといた日々を懐かしんでしまう気持ちはわからなくもない。

 最初に会った日より背が高くて、体格もひと目で男性だとわかるようになった。イーリスが今のディーの服を着ても、ぶかぶかだと思う。
 目の前にいるのにディーが遠くに行ってしまったような、うら寂しさがある。

「そういうディーも、エリックさんから打診されてるんでしょう。ダニエラと結婚してくれって」
「ぇぇええ……エリックさんまだそんなこと言ってんの? ボクは最初にその話をされた時点で、嫌だって断ったよ」
「そ、そう。良かった」

 なんでディーが婚約話を断って良かったなんて思うんだろう。
 ダニエラはハインリッヒ家のひとり娘だから、結婚したら確実にディーはハインリッヒに婿入りすることになる。
 こんなふうに隣を歩いて、会えなくなるのは嫌だ。

「貴族になんてなったら、一座の旅もできなくなっちゃうもん」

 何不自由ないお金持ちの暮らしよりも、鳥のように飛び回れる生活がいい。
 ディーの価値観はイーリスと同じだ。

「それと、兄さんから、子どもが大きくなったら教育係になってほしいって頼まれてるんだ。旅に出るなら今のうちだよ、イーリス」
「え?」

 ディーは足を止めて、イーリスに笑いかける。

「旅して色んなところを見るって約束したでしょ。伯父さんも許可してくれてるからさ、兄さんたちに挨拶して、半年くらいあちこち案内してあげるよ。ルベルタにある親父たちの故郷とか、伯母さんの生まれたところとか」
「ほんと!?」

 沈んでいた気持ちが一気に浮上する。
 開拓で忙しいから、そのまま有耶無耶になると思っていた小さな約束。
 その約束を実現するために、イーリスに世界を見せるために時間を取ってくれる。
 ディーのその気持ちが何よりも嬉しかった。

 ディーがいてくれる。隣を歩いてくれる。
 ディーの明るい笑顔を見るのが好き。
 時折見せる頼もしい姿が好き。
 二人でいるこの時間が好き。

 そう、イーリスは気づいた。
 ディーが好きだということ。
 いいようのないくらいに惹かれている。
 ずっとずっと、いつまでも続けばいいのに。
 
「ありがとうディー。私、すごく嬉しいわ」
「そこまで喜んでくれるなら、ボクも案内し甲斐があるよ。楽しみだねぇ」

 笑いあって、診療所までの道を歩く。

 イーリスとディーが「この先も一緒に生きよう」と告白するのは、もう少しだけ先の話。



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