ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜

 かつてガーニムは国一の剣の使い手と評されていた。
 今でもそのはずだ。こいつらよりずっと強い。
 裏切り者どもを蹴散らして、俺が国王であると今一度知らしめてやる。

 まずはファジュルから殺そう。
 ファジュルが反乱軍を決起なんてしなければ、王国軍から裏切り者が出たりなんてしなかった。
 全部ファジュルが悪い。ファジュルが、アシュラフの子が。

 ガーニムは剣を振るい、ファジュルに振りかぶる。ウスマーンとアムルがそれを阻む。
 ぶつかり合う剣が耳障りな金属音を立てる。
 何度も、何度も。
 渾身の力で叩き込んでも、アムルが刃を剣で受ける。最下級兵のアムルが、国最高の剣士であるガーニムと拮抗するなんてあるはずがない。
 あるはずがないのに、アムルを斬り伏せることが叶わない。

 ガーニムたちが戦いを繰り広げる後ろで、シャムスがマッカのもとに走った。

「マッカさん。あなたはここにいてはだめ。逃げて」
「ワタシはガーニム様の妻。夫をおいて逃げるなんてできません」
「……わからないわ。あの人に殺されそうになったのに、それでも夫婦だというの?」

 シャムスがマッカを逃がそうと手を引くが、マッカは首を左右に振ってガーニムを見る。 

「姫様のお心遣いを無碍にして申しわけありません。神の前で誓った気持ちに嘘はないんです。ガーニム様はワタシのことを人質だというけれど、ワタシは……」
「ふ、ははははっ。人質でなければ同情か!? 俺を憐れんでいるのか!?」

 
 ウスマーンが剣を一閃した。
 汗で濡れた柄が滑り、ガーニムの手が空になる。

 しまったと思う間もなく、ファジュルの拳がガーニムの顔面を打つ。
 よろめくガーニムを、ウスマーンが後ろ手に押さえつけた。ガチリと音がして、冷たい感触が手首をとらえる。
 

 なぜ国王である自分が罪人のように手枷をはめられ、反逆者に膝を折らねばならないのか。ガーニムは怒りと屈辱で歯を食いしばる。

 ファジュルの右手には、歴代の王が身につけていた短剣がある。それで刺されて終わるのか。

 ウスマーンを振り払おうとしても、後ろ手に手枷ではなんにもならない。

 一歩、また一歩。ファジュルはガーニムに歩み寄る。


「……話して分かり合えないなら、なぜ人は言葉を持っているんだろう」

 アシュラフがよく言っていた言葉を口にする。
 目の前、手の届く距離に来た。
 ファジュルはガーニムを刺すことなく、鞘に収めた。

「どうしても、話しあうことは叶わないか?」
「ふん。だから俺はアシュラフが嫌いなんだ! 上から目線でわかり合おうなどと持ちかけてくる。自分が優位だと言っているようなものだ!」
「気に食わないものを壊して無理やりわがままを通す、そんなの癇癪《かんしゃく》を起こした子どもと同じじゃないか。俺たちは王族、それでは駄目だ」

 話し合おう、アシュラフがそれを言うたびガーニムの矜持はひどく傷ついた。場を用意して話さなければわからない阿呆だと言われているようで腹立たしかった。

 ファジュルは胸に手を当てて、強い口調で訴える。

「優位とか下位とかそういうことじゃない。俺はこの十八年スラムで暮らして、貧民たちをずっと見てきた。スラムの現状を見てきた。産まれた赤子のほとんどが、一歳になる前に餓死する。仕事をしたくてもドブネズミにやる仕事なんてないと言われる。貧民という壁があるから」

 ガーニムには理解しがたい考えだった。 

「産まれた赤子が餓死する。そんなの育てる金もないのに産んだドブネズミが悪い。なのに俺のせいだとでも思っているのか? 頭が悪すぎて反吐が出るな」
「それはこれまでの王族が貧民という人間扱いされない身分をつくり、貴族も平民もその制度を当然としてきたからだ。俺はそんなの嫌だ。この国に生まれた以上、スラムの人間も等しくイズティハルの民だ」

 アシュラフと同じことをいう。親子揃って同じことを。
 ファジュルもアシュラフも、何度振り払おうとガーニムに訴える。
 だからガーニムも、何度でもくだらない理想を嗤ってやる。

「ふん。今更だ。何十年何百年続いてきた制度をいま変えて、貧民以外が素直に受け入れると思っているのか。人は底辺が、自分以下がいるから己の矜持を保てるのだ」
「長く続いた制度を変えるとは、そういうものだろう。きっと俺の子世代、孫世代になってようやく浸透するくらいだ。どんな大河でも、源流は小さい湧き水。俺は最初の一滴を作るために王になるんだ」

 嗤われてもファジュルは意見を貫く。
 孫世代のために、国という大河の流れを変えるのだと。

「その理想の国とやらを俺が見ることがないのは幸いだな。俺はお前のこともアシュラフのことも大嫌いなんだ。殺すならさっさと処刑台に送れ」
「そんなの嫌です、ガーニム様っ」

 シャムスの手を振りほどき、マッカがガーニムに手を伸ばした。
 ファジュルを見上げて泣きながら訴える。

「お願いです、ガーニム様を処刑しないで。殺すなら、罪人として処分するというなら、ワタシも一緒に……」
「なぜ、俺と一緒に死ぬなんて言える。馬鹿なのか貴様」

 ガーニムにはマッカの気持ちがわからない。
 好いた男がいたかもしれないのに、人質として無理やり妻にした。誰がどう見てもマッカの心を無視した結婚だった。
 なのに、ともに死ぬと言う。このままガーニムといれば、本当に処刑台送りになりかねないのに。

「馬鹿で結構です。ワタシは最後までガーニム様と一緒にいます。要らないと言われてもついていきます」

 本当に、なんて馬鹿な女だ。愚かすぎて、笑う気にもならない。殺されてもいいから離れないなんて。

 ファジュルがぽつりと呟く。

「……あんたでも、泣くことがあるんだな」 
「泣く、だと? 誰が」

 言われて、ガーニムは自分の頬が濡れていることを知った。
 ガーニムは生まれてこのかた泣いたことなどない。泣くなんて弱者のすることだからだ。強いガーニムは泣く理由がない。
 王族たるもの、弱みを見せてはいけない。だから泣くことは許されぬことなのだと思っていた。
 泣いていることに誰よりも驚いたのは、ガーニム自身だ。

「ワタシがずっとおそばにいます。だからガーニム様。もう、やめましょう」

 ガーニムを見るマッカの瞳には、怯えも憐れみも見えない。

 もういいのかもしれない。
 くだらないことにこだわって、全部壊さなくても。
 本当はずっと欲しかったのかもしれない。こうして、悪いところも含めてガーニムをガーニムとして認めてくれる誰かが。

 大嫌いな相手に敗北したというのに、ガーニムはもう、悔しいだとかファジュルを殺したいだとか思わなかった。
 


 マッカが泣きやむ頃、ファジュルが静かに言った。

「大丈夫だ、マッカ。ガーニムのことを殺しはしない。生きて、時間をかけて知ってくれればいい。貧民たちの生活、スラムで生きる人々のこと。彼らはたしかに人なのだと」




image
image
59/70ページ