ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜
「まったく……なんで私がこんなことしなきゃならないの……」
ナエレは書庫管理の仕事を休み、スラムの中を歩いていた。
この広いスラムのどこかに潜んでいると思われる、反乱軍を見つけるため。
臭いし汚いし、呼吸するたびに羽虫を吸い込みそうになる。そこかしこにゴミが散乱していて、とてもじゃないけど人間の住むところとは思えなかった。
王命でなければこんなところ絶対に近寄らないのに。
そうだ、その王子と名乗る人だって本当に王子かどうか怪しい。
ナエレは今の王政のままでも特に不便していなかったのに、その人が反乱なんて起こそうとするからウスマーンは地下牢送りになるし、ナエレはスラムなんかに入らなければならなくなった。
反乱軍さえいなければ、今もいつもどおり書庫の本を眺めていられたのに。
ガーニムに見つかったときには、王子に対して申し訳ないことをしたと思ったけど、時間が経つに連れてニセ王子(多分)に対する怒りがこみ上げていた。
悪臭に吐きそうになりながら、そこら辺に座り込んでいる老人に声をかける。
「あの、ファジュルって名前に聞き覚えないですか」
老人はナエレを無視した。そこそこ大きい声で言ったのに。
「ファジュルさんに会いたいんです。会えないと困るんです」
「あんたが困っても儂らはなにも困らん。そもそも数千人が暮らすここで、あんたの探すたった一人を儂が偶然知っている可能性がどれだけあると思っている」
至極最もな意見だ。
けれど、今何も情報を得ずに城に戻れば、ナエレ自身の命が危ない。
「帰りな。ここは平民のお嬢さんが来るところじゃない」
「対価を、お金を払えば教えていただけますか」
懐にしまっていた今月分の給料袋から、札を一枚取り出す。
千ハルド。食事処で三回はパンとスープを頼める額だ。
「王国兵どもにも言ったが、あんたなら、それっぽっちで仲間を悪魔に売り渡すのかね?」
老人は鼻で笑うと、一度もナエレに目を向けずに立ち去った。
「な、何よ……。食べるのにも服を買うのにも困っているんでしょう? 私にははした金でも、貧民には大金でしょ?」
現に今の老人も、服と呼べないほどくたびれたボロ布を着ていたのに。
唇を噛んで他の人をあたる。
その後五人に断られ、しまいには「ガーニムの犬に教えるものか」と石を投げられる。
あんまりな扱いに、ナエレの心はささくれ立っていた。
膝を抱えていると誰かがナエレに言った。
「愚かっすねぇ」
「なんですって!?」
振り返ると、そこにいたのは召使いの男だった。名前は知らないけれど顔はわかる。
「あんたなら食事三回分の金で、人を家畜のように殺す男の所に送り出すんすね。おいらなら絶対にしないっす」
脳裏に、鎖で繋がれたウスマーンの姿がちらつく。本物だろうと偽物だろうと、ナエレが見つければ王子はああいうに遭う。
けれど王子を見つけないと、あそこで吊るされるのはナエレになる。
「他人の命より自分の命が可愛くて何が悪いの。ニセ王子だってどうせ仕事も納税もしなくてもいい貧民でしょ。処刑されても誰も困らないじゃない。私なんて働きだしてから毎月税金納めてんのよ!?」
「悪くはないけど、おいらは嫌い」
「あなたに好かれる必要はないから。邪魔しないで」
男の横を通り過ぎようとしたが、阻まれた。
男は笑顔のまま。
「反乱軍に入りたいなんて嘘、誰が信じると思っているんすか。あんた、ガーニムの手先?」
「ええそうよ。だったら何? 黙って聞いていればガーニムガーニムって、国王陛下の名前を呼び捨てにするなんて不敬よ!」
「敬う要素がどこにあるんすか。おいらたちスラムの人間をドブネズミ扱いする愚か者なんて」
顔を上げれば、まわりにはスラムの人間が集まってきていた。みんな、ナエレに対して冷えきった目をしている。
「おいらたち ……って、あ、あなた、貧民だったの……? なんで貧民なのに城で」
「おいらの母親は花売りでね。父親はたぶん客の中の誰か。そんなおいらのために身を削って、その金でおいらを学校に通わせてくれたんす。母亡き後、ディヤさんが拾ってくれて今がある」
ナエレは背筋が凍りつくようだった。逃げ出したいのに、足が言うことを聞かない。
「あんたら平民はこの先も平和に生きていけるだろうけど、おいらたちに未来はない。ファジュルさんが王になってくれないかぎりは」
召使いの男の言葉を皮切りに、貧民たちが口々に言う。
「二度とここに来るな」
「私達は絶対にファジュルを売ったりなんてしない」
「ガーニムの犬に用はない」
「帰れ」
「帰れ」
反乱軍の行方は掴めないまま、ナエレは彼らの怒りを買ってしまった。それだけは明白だった。
心ない言葉と石を投げられ、ナエレは這うようにしてスラムを出た。
自分はただ、王子の居所を知りたい、反乱軍に入れてくれと言っただけなのに。なんでこんな、ドブネズミのような扱いを受けなければならないのか理解に苦しむ。
「……あぁ、そうよ。あいつ知っていたじゃない。ファジュルさん、って。ニセ王子と顔見知りってことよね。反乱軍は見つからなかったけれど、あいつのことを陛下に伝えれば……」
そうすればナエレの命だけは助けてもらえるはず。
そう思ったのに。
城に戻り、執務室で書類に向き合っていたガーニムに見たことを伝える。
ガーニムの命で動いていることはバレてしまったが、城で働く召使いの一人がファジュルを知っていたことは判明した。大手柄だろう。
「名前も知らない召使いの一人が貧民出身で、ファジュルを知っていた……そんなことを言うために戻ってきたと? ファジュルの隠れ家は見つかったのか?」
「い、いいえ、それはまだ。ですが……」
「言い訳など聞きたくない。役立たずめ。やはり生かしておくべきではなかったな」
ガーニムの曲刀が舞う。
「チっ。敷物が汚れた。ディヤ、片付けておけ」
「仰せのままに」
ガーニムの後ろに控えていたディヤは、顔色を変えず部下たちにバケツや布巾の用意をさせる。
「どうぞ」
ディヤが差し出す布を受け取ると、ガーニムは乱暴に汚れを拭って投げる。
「これが言っていた、貧民出身の召使いがファジュルを知っていたというのは?」
「さあ。顔を見たことあるだけのくせに、自分は一番の親友だ、と話を誇張させる者はいくらでもいますから」
「あぁ、あの侍女みたいなものか」
自分が一番シャムスに信頼されていたのだと吹聴してまわる侍女。自尊心ばかり高く、口のわりに大したことのない。
ガーニムもあの侍女を思い浮かべただろう。「ナジャーなんかよりも自分を姫の一番近くにおけ」と常々言ってくるので、辟易していた。
「しかしこれが使えないとなると、どうするか。もう一度火を放ってスラムを一掃してしまおうか」
足元に転がる人だったモノを見下ろして、ガーニムはため息をついた。
「傭兵を雇えば良いのではないですか。少々金はかかりますが、彼らならイズティハルの兵の手が及ばない国境の向こうまで行くことができます」
「ふん。国外逃亡しているのなら、スラムで見つからないのも頷けるな。手配しておけ」
「はい。陛下の御心のままに」
深々と頭を下げ、ディヤは退室した。
召使いたちの控室へ向かいながら、これからなすべきことを頭の中で計算する。
ナエレは己の命惜しさに色々と見誤った。せっかく助け舟を出して、生きながらえる機会をあげたというのに。本当に、馬鹿な子。
書庫の管理人も新しく雇わないといけない。文官長に言って、次は頭でっかちでなく、賢い子を選んでもらわないと。
ナエレは書庫管理の仕事を休み、スラムの中を歩いていた。
この広いスラムのどこかに潜んでいると思われる、反乱軍を見つけるため。
臭いし汚いし、呼吸するたびに羽虫を吸い込みそうになる。そこかしこにゴミが散乱していて、とてもじゃないけど人間の住むところとは思えなかった。
王命でなければこんなところ絶対に近寄らないのに。
そうだ、その王子と名乗る人だって本当に王子かどうか怪しい。
ナエレは今の王政のままでも特に不便していなかったのに、その人が反乱なんて起こそうとするからウスマーンは地下牢送りになるし、ナエレはスラムなんかに入らなければならなくなった。
反乱軍さえいなければ、今もいつもどおり書庫の本を眺めていられたのに。
ガーニムに見つかったときには、王子に対して申し訳ないことをしたと思ったけど、時間が経つに連れてニセ王子(多分)に対する怒りがこみ上げていた。
悪臭に吐きそうになりながら、そこら辺に座り込んでいる老人に声をかける。
「あの、ファジュルって名前に聞き覚えないですか」
老人はナエレを無視した。そこそこ大きい声で言ったのに。
「ファジュルさんに会いたいんです。会えないと困るんです」
「あんたが困っても儂らはなにも困らん。そもそも数千人が暮らすここで、あんたの探すたった一人を儂が偶然知っている可能性がどれだけあると思っている」
至極最もな意見だ。
けれど、今何も情報を得ずに城に戻れば、ナエレ自身の命が危ない。
「帰りな。ここは平民のお嬢さんが来るところじゃない」
「対価を、お金を払えば教えていただけますか」
懐にしまっていた今月分の給料袋から、札を一枚取り出す。
千ハルド。食事処で三回はパンとスープを頼める額だ。
「王国兵どもにも言ったが、あんたなら、それっぽっちで仲間を悪魔に売り渡すのかね?」
老人は鼻で笑うと、一度もナエレに目を向けずに立ち去った。
「な、何よ……。食べるのにも服を買うのにも困っているんでしょう? 私にははした金でも、貧民には大金でしょ?」
現に今の老人も、服と呼べないほどくたびれたボロ布を着ていたのに。
唇を噛んで他の人をあたる。
その後五人に断られ、しまいには「ガーニムの犬に教えるものか」と石を投げられる。
あんまりな扱いに、ナエレの心はささくれ立っていた。
膝を抱えていると誰かがナエレに言った。
「愚かっすねぇ」
「なんですって!?」
振り返ると、そこにいたのは召使いの男だった。名前は知らないけれど顔はわかる。
「あんたなら食事三回分の金で、人を家畜のように殺す男の所に送り出すんすね。おいらなら絶対にしないっす」
脳裏に、鎖で繋がれたウスマーンの姿がちらつく。本物だろうと偽物だろうと、ナエレが見つければ王子はああいうに遭う。
けれど王子を見つけないと、あそこで吊るされるのはナエレになる。
「他人の命より自分の命が可愛くて何が悪いの。ニセ王子だってどうせ仕事も納税もしなくてもいい貧民でしょ。処刑されても誰も困らないじゃない。私なんて働きだしてから毎月税金納めてんのよ!?」
「悪くはないけど、おいらは嫌い」
「あなたに好かれる必要はないから。邪魔しないで」
男の横を通り過ぎようとしたが、阻まれた。
男は笑顔のまま。
「反乱軍に入りたいなんて嘘、誰が信じると思っているんすか。あんた、ガーニムの手先?」
「ええそうよ。だったら何? 黙って聞いていればガーニムガーニムって、国王陛下の名前を呼び捨てにするなんて不敬よ!」
「敬う要素がどこにあるんすか。おいらたちスラムの人間をドブネズミ扱いする愚か者なんて」
顔を上げれば、まわりにはスラムの人間が集まってきていた。みんな、ナエレに対して冷えきった目をしている。
「
「おいらの母親は花売りでね。父親はたぶん客の中の誰か。そんなおいらのために身を削って、その金でおいらを学校に通わせてくれたんす。母亡き後、ディヤさんが拾ってくれて今がある」
ナエレは背筋が凍りつくようだった。逃げ出したいのに、足が言うことを聞かない。
「あんたら平民はこの先も平和に生きていけるだろうけど、おいらたちに未来はない。ファジュルさんが王になってくれないかぎりは」
召使いの男の言葉を皮切りに、貧民たちが口々に言う。
「二度とここに来るな」
「私達は絶対にファジュルを売ったりなんてしない」
「ガーニムの犬に用はない」
「帰れ」
「帰れ」
反乱軍の行方は掴めないまま、ナエレは彼らの怒りを買ってしまった。それだけは明白だった。
心ない言葉と石を投げられ、ナエレは這うようにしてスラムを出た。
自分はただ、王子の居所を知りたい、反乱軍に入れてくれと言っただけなのに。なんでこんな、ドブネズミのような扱いを受けなければならないのか理解に苦しむ。
「……あぁ、そうよ。あいつ知っていたじゃない。ファジュルさん、って。ニセ王子と顔見知りってことよね。反乱軍は見つからなかったけれど、あいつのことを陛下に伝えれば……」
そうすればナエレの命だけは助けてもらえるはず。
そう思ったのに。
城に戻り、執務室で書類に向き合っていたガーニムに見たことを伝える。
ガーニムの命で動いていることはバレてしまったが、城で働く召使いの一人がファジュルを知っていたことは判明した。大手柄だろう。
「名前も知らない召使いの一人が貧民出身で、ファジュルを知っていた……そんなことを言うために戻ってきたと? ファジュルの隠れ家は見つかったのか?」
「い、いいえ、それはまだ。ですが……」
「言い訳など聞きたくない。役立たずめ。やはり生かしておくべきではなかったな」
ガーニムの曲刀が舞う。
「チっ。敷物が汚れた。ディヤ、片付けておけ」
「仰せのままに」
ガーニムの後ろに控えていたディヤは、顔色を変えず部下たちにバケツや布巾の用意をさせる。
「どうぞ」
ディヤが差し出す布を受け取ると、ガーニムは乱暴に汚れを拭って投げる。
「これが言っていた、貧民出身の召使いがファジュルを知っていたというのは?」
「さあ。顔を見たことあるだけのくせに、自分は一番の親友だ、と話を誇張させる者はいくらでもいますから」
「あぁ、あの侍女みたいなものか」
自分が一番シャムスに信頼されていたのだと吹聴してまわる侍女。自尊心ばかり高く、口のわりに大したことのない。
ガーニムもあの侍女を思い浮かべただろう。「ナジャーなんかよりも自分を姫の一番近くにおけ」と常々言ってくるので、辟易していた。
「しかしこれが使えないとなると、どうするか。もう一度火を放ってスラムを一掃してしまおうか」
足元に転がる人だったモノを見下ろして、ガーニムはため息をついた。
「傭兵を雇えば良いのではないですか。少々金はかかりますが、彼らならイズティハルの兵の手が及ばない国境の向こうまで行くことができます」
「ふん。国外逃亡しているのなら、スラムで見つからないのも頷けるな。手配しておけ」
「はい。陛下の御心のままに」
深々と頭を下げ、ディヤは退室した。
召使いたちの控室へ向かいながら、これからなすべきことを頭の中で計算する。
ナエレは己の命惜しさに色々と見誤った。せっかく助け舟を出して、生きながらえる機会をあげたというのに。本当に、馬鹿な子。
書庫の管理人も新しく雇わないといけない。文官長に言って、次は頭でっかちでなく、賢い子を選んでもらわないと。