ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜
イズティハル城内の書庫を管理する女官、ナエレは腹を立てていた。
貸し出していた本が返却期限を過ぎても戻ってこないのだ。
「まだ返却されていない。全くもう!」
王城内書庫は、城で働く者なら誰でも借りることができる。
一冊につき十日までという期限つきだ。
貸出し帳に記帳してもらう決まりがあるが、守らないで勝手に持ち出して勝手に投げ返す者が跡を絶たない。
ナエレの仕事はもっぱら、雑に扱われた本の補修だった。
王城を守る兵の大将、ウスマーンはほかの者たちのように本を雑に扱ったりはしないし、返却期限は守るし、いい利用者だと思っていた。
間に合わなそうなときも、あと三日延長してくれと頼みに来ていたほどだ。
なのに、そのウスマーンが、半月前に借りた兵法の本を返さないまま。
先の反乱軍襲撃で怪我を負い療養していると発表されていたが、疑わしかった。
同じ日、その場にいた兵たちは誰一人怪我を負っていなかったのだから。
その状況でウスマーンだけ重症を負うなんてありえない。
城に常駐する医師も不審がっていた。
けれど襲撃の日以降、誰もウスマーンの姿を見ていないのも事実。
「どうせ誰も来ないし、行ってみようかしら」
兵の詰め所に置きっぱなしかもしれないし、貸し出している本を回収するだけ。
誰に言うでもなく、ナエレは書庫を出た。
兵の詰め所に行くには、厨房の前を通る必要がある。空腹時にはあまり通りたくない場所だ。
「…………に、渡したっす」
「そう。ご苦労様。妙なこと頼んでごめんなさいね」
「いんや。あのまま捨てちまうよりずっといい」
厨房から聞こえてきた声の片方は、召使いたちを統括する男、ディヤのものだ。
内容から察するに、また陛下が好みでない食べ物を捨てろとわがままを言ったのだとわかる。
こちとら食費を切り詰めて、大好きな本を買うために果物を我慢しているっていうのに。大元の雇い主でも、そこだけは許せない。
「それじゃ、アタシは仕事に出るから、あとはよろしくね」
「任されたっす」
ディヤがスープとパンを乗せた盆を片手に、厨房から出てきた。何故か片手にランタンを提げて。こんな昼間から何故。
立ち止まっていたため、鉢合わせしてしまった。
長い黒髪をうなじのあたりで一つにまとめた細身の男。
ディヤの言葉遣いや仕草はナエレよりも女性らしさに溢れていて、女として負けた気になってしまう。
だからナエレはちょっと、いや、かなり、ディヤのことが苦手だった。
「あら、あんたは書庫の……ナエレ、だったわね。どうしたの。つまみ食いにでもしに来た?」
「まさか。いくらお腹が空いてもそんなことしませんよ」
「フフッ。冗談よ。あんたアイツと同じで冗談が通じないわねぇ」
アイツ、とはウスマーンを指してのことだろう。そういえばこの人は、ウスマーンと気心知れた仲だ。もしかしたら知っているかもしれない。
「あの。実はウスマーンさんが本を借りっぱなしで、まだ返却されていないんです。ディヤさん、ウスマーンさんの入院先をご存知でしたら教えていただけませんか」
大したことを聞いたわけではないのに、ディヤは一瞬刺すような鋭い目をナエレに向けてきた。
「本の題名は? アタシが回収して返しておくわ」
「でも、本の管理は私の仕事ですし、自分でウスマーンさん本人にお願いします」
「誰の手からであっても、本が返ってくればそれでいいでしょ」
「…………ぇ? それじゃまるで、ウスマーンさんが本を返せる状況にないみたいじゃないですか。そんなにお加減が悪いんですか」
大将を任せられるだけあって、ウスマーンの剣術はかなりのものと聞く。訓練も積んでいない、荒くれ者の寄せ集めが敵う相手ではない。
なのに、ウスマーンだけが大怪我で療養。ますます怪しい。
「あんたは知らなくてもいいことよ。長生きしたければ、無闇に首を突っ込まないで。好奇心は身を滅ぼすわよ」
きつく言って、ディヤは立ち去った。
「…………意味わからない。ウスマーンさんの入院先を聞いたらなんだっていうの。それって知ったら死ぬようなことなの?」
ディヤが食事をどこに持っていくのだろう。陛下や王妃のところに行くのなら、あんな軽食ではないはず。自分で食べるのなら使用人用の、厨房裏を使うはず。
「あれはどこに持っていくの?」
厨房内でディヤと話していた男に問いかける。
「知らないっす。聞いてどうしたいんすか。おいらが知ってたとしても、部署が違うあんたになんの関係もないのに」
「そ、それはそうだけど」
悪いことを聞いたわけではないのに、悪者みたいに言われるのはなんだか嫌な気持ちになる。
男はもうナエレのことなど視界から外し、水瓶を抱えて出ていってしまった。
知るなと言われると知りたくなるのが人の性 、というものではないだろうか。
ナエレは忠告を無視してディヤのあとをつけた。
ディヤはどんどんとひと気のないところに向かっていく。
城の敷地の端の端。昔このあたりには独房があったとかないとか、捕えた罪人の霊がいるとか嫌な噂があるから、あんまり近寄りたくない場所だ。
今は使われていない小路で立ち止まり、あたりをうかがい、ランタンを点して古びた扉の向こうに消えた。
足音を殺し、ゆっくりとその扉に近づく。扉が軋む音で気付かれてしまわぬよう、細心の注意を払って扉を開けた。
扉の先は階段だ。先が見えない暗闇。ここが一階なのだから、下り階段なら地下へ続くということ。
人がいないところがいいにしても、こんなところで食事を摂るものだろうか。
先程言われた、『好奇心は身を滅ぼす』という言葉が一瞬頭をよぎる。
行くべきか、引き返すべきか……。
迷った末、ナエレは地下へ続く道に足を踏み出した。
カツ、コツ、足音が響く。
ナエレの立てる音しかしない。
しばらく行くと、話し声……いや、怒鳴り声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。
こんな場所で聞こえるはずもない声。
そっと覗くと、ランタンの灯りの中、壁にウスマーンが繋がれているのが見えた。
鎖と手錠で拘束され、ひどい怪我をしている。
部屋の中にはウスマーンの他、ディヤともう一人……大人の男の影が揺れている。
逃げなきゃ。
なのに足がすくんで思うように動けない。
荒々しい足音がこちらに向かってきた。
逃げようにもここは一本道。隠れる場所もなく、向こうから来る誰かにぶつかった。
「きゃあ!」
勢いで転んでしまい、したたかお尻を打ち付けた。頭上から聞こえてきたのは短い舌打ち。
聞き覚えのある。
相手が誰なのか確認するのが恐ろしくて、顔を上げることができない。
足が、手が震える。
「ディヤ。ネズミが入り込んでいるぞ。つけられたな。あれほど気をつけろと言っておいたのに」
ぶつかった何者かが、ナエレの胸ぐらを掴む。
向こうからかすかにランタンの灯りが漏れていて、逆光の中相手の顔が見えた。
──国王ガーニム。
ナエレの服を掴むガーニムの手からは、サビ鉄のような臭いがする。
ナエレを睨む目は、獲物を狩る獣のような獰猛さを見せている。
「キサマ、反乱軍の手先か? なんの目的でディヤをつけた」
「は、はははは、はんらん、ぐん? 私が?」
最近巷を騒がせている、反乱軍。それの一味だと思われているんだ。
「見られちまったなら始末するしかないか」
ガーニムはナエレを投げ落とし、腰にさげた湾曲刀を抜いた。
これまで何人もの召使いが、ガーニムの機嫌を損ねただけで殺されてきた。
自分も殺される。死んじゃう。
嫌。そんなの。死にたくない。殺さないで、死にたくない。
ついてこなければよかった。追いかけなければよかった。
首を突っ込むなと言われたのだから、素直に引き下がるべきだった。
ナエレは、ディヤの警告を無視した自分の愚かさを呪った。
死を覚悟し、震えるしかないナエレ。
銀に光る刃が振り下ろされようとしていたのを、ディヤが止めた。
「待ってください陛下。この子、使い道がありそうじゃない。殺すのは簡単だけど、利用すればいいのではなくて?」
磨きぬかれた刃先が、ナエレの鼻先すれすれのところで止まっている。
「利用か。お前ならコレをどう使うと言うのだ」
「まだ反乱軍の潜伏先は見つかっていないでしょう。下っ端でもなんでもいいからこの子を反乱軍と接触させて、仲間にしてくれと頼めばいいの。潜伏先が割れれば一網打尽じゃない」
「クククッ。それもそうだな。送り込むのが兵の誰かでは、アムルが顔を知っているから警戒される。無能そうな平凡な小娘なら、あちらも警戒が薄かろう。必ずファジュルの居所を掴めよ。生かしておいてやったのだから」
低く笑いながら、ガーニムが剣を鞘に収める。
「小娘。裏切ればお前の家族がアレと同じ目に遭うことを覚えておけ」
悪魔のごとき台詞を吐き捨てて、ガーニムの足音は遠ざかっていった。
震えて立ち上がることができないナエレの前に、ディヤが話しかけてくる。
「だからやめろって言ったのに。馬鹿ねぇあんた」
「で、でもこ、こんな、こんなの、間違って、ウスマーン、さん、だって」
それまで黙っていたウスマーンが、咳をしながらこちらを見た。
「きみ、は……なぜ、こんなところに」
「えと、そ、れは、ウスマーンさん、が、本を、返してなかったから、だから、私」
ナエレの口をついて出たのは、大丈夫ですか、とか、早く病院に、とかでなく、ウスマーンを探そうとしていた当初の目的だった。
混乱しすぎて、わけのわからないことを口走る自分が嫌になる。
「ふっ。ああ、そんなに日が、経っているのか。すまないな。ほんなら、詰め所に、あるから、持っていってくれ」
ウスマーンは微かに笑って答える。ひどい怪我をしているのに。
「どうして、ウスマーンさんがこんな……」
「反乱軍を捕らえず、逃してしまったからよ。反乱軍の旗頭に、アシュラフ様の御子が……王子がいたから」
先王が亡くなった当時、ナエレはまだ子どもだった。当時のことは大人たちが話していた程度のことしか知らない。
とても優しく賢き王だった、ということだけ。
アシュラフ王の息子が、ガーニムを討つ為に反乱軍を起こした。
ガーニムはナエレに、その王子の居所を掴めと。
見つけたら間違いなく、王子は殺されてしまう。
「そん、な。わ、わた、私が、後をつけた、せいで、王子が、危険に晒されるの……?」
「そうね。ここで見聞きしたことを口外すれば、あなたの家族の首が飛ぶわよ。陛下はそういう人だから。自分で首を突っ込んだんだから、その命を持って責任を取りなさい、ナエレ」
戦争が起こるかもしれないと、最近市中の人たちが密やかに話していた。
自分はただの書庫管理官で、無関係だと思っていた。
兵でも何でもないから、誰がどこで戦おうと、自分には関係ない。
戦争なんかに関わることはない、なんて他人事みたいに言える日々は、この瞬間をもって終わった。
貸し出していた本が返却期限を過ぎても戻ってこないのだ。
「まだ返却されていない。全くもう!」
王城内書庫は、城で働く者なら誰でも借りることができる。
一冊につき十日までという期限つきだ。
貸出し帳に記帳してもらう決まりがあるが、守らないで勝手に持ち出して勝手に投げ返す者が跡を絶たない。
ナエレの仕事はもっぱら、雑に扱われた本の補修だった。
王城を守る兵の大将、ウスマーンはほかの者たちのように本を雑に扱ったりはしないし、返却期限は守るし、いい利用者だと思っていた。
間に合わなそうなときも、あと三日延長してくれと頼みに来ていたほどだ。
なのに、そのウスマーンが、半月前に借りた兵法の本を返さないまま。
先の反乱軍襲撃で怪我を負い療養していると発表されていたが、疑わしかった。
同じ日、その場にいた兵たちは誰一人怪我を負っていなかったのだから。
その状況でウスマーンだけ重症を負うなんてありえない。
城に常駐する医師も不審がっていた。
けれど襲撃の日以降、誰もウスマーンの姿を見ていないのも事実。
「どうせ誰も来ないし、行ってみようかしら」
兵の詰め所に置きっぱなしかもしれないし、貸し出している本を回収するだけ。
誰に言うでもなく、ナエレは書庫を出た。
兵の詰め所に行くには、厨房の前を通る必要がある。空腹時にはあまり通りたくない場所だ。
「…………に、渡したっす」
「そう。ご苦労様。妙なこと頼んでごめんなさいね」
「いんや。あのまま捨てちまうよりずっといい」
厨房から聞こえてきた声の片方は、召使いたちを統括する男、ディヤのものだ。
内容から察するに、また陛下が好みでない食べ物を捨てろとわがままを言ったのだとわかる。
こちとら食費を切り詰めて、大好きな本を買うために果物を我慢しているっていうのに。大元の雇い主でも、そこだけは許せない。
「それじゃ、アタシは仕事に出るから、あとはよろしくね」
「任されたっす」
ディヤがスープとパンを乗せた盆を片手に、厨房から出てきた。何故か片手にランタンを提げて。こんな昼間から何故。
立ち止まっていたため、鉢合わせしてしまった。
長い黒髪をうなじのあたりで一つにまとめた細身の男。
ディヤの言葉遣いや仕草はナエレよりも女性らしさに溢れていて、女として負けた気になってしまう。
だからナエレはちょっと、いや、かなり、ディヤのことが苦手だった。
「あら、あんたは書庫の……ナエレ、だったわね。どうしたの。つまみ食いにでもしに来た?」
「まさか。いくらお腹が空いてもそんなことしませんよ」
「フフッ。冗談よ。あんたアイツと同じで冗談が通じないわねぇ」
アイツ、とはウスマーンを指してのことだろう。そういえばこの人は、ウスマーンと気心知れた仲だ。もしかしたら知っているかもしれない。
「あの。実はウスマーンさんが本を借りっぱなしで、まだ返却されていないんです。ディヤさん、ウスマーンさんの入院先をご存知でしたら教えていただけませんか」
大したことを聞いたわけではないのに、ディヤは一瞬刺すような鋭い目をナエレに向けてきた。
「本の題名は? アタシが回収して返しておくわ」
「でも、本の管理は私の仕事ですし、自分でウスマーンさん本人にお願いします」
「誰の手からであっても、本が返ってくればそれでいいでしょ」
「…………ぇ? それじゃまるで、ウスマーンさんが本を返せる状況にないみたいじゃないですか。そんなにお加減が悪いんですか」
大将を任せられるだけあって、ウスマーンの剣術はかなりのものと聞く。訓練も積んでいない、荒くれ者の寄せ集めが敵う相手ではない。
なのに、ウスマーンだけが大怪我で療養。ますます怪しい。
「あんたは知らなくてもいいことよ。長生きしたければ、無闇に首を突っ込まないで。好奇心は身を滅ぼすわよ」
きつく言って、ディヤは立ち去った。
「…………意味わからない。ウスマーンさんの入院先を聞いたらなんだっていうの。それって知ったら死ぬようなことなの?」
ディヤが食事をどこに持っていくのだろう。陛下や王妃のところに行くのなら、あんな軽食ではないはず。自分で食べるのなら使用人用の、厨房裏を使うはず。
「あれはどこに持っていくの?」
厨房内でディヤと話していた男に問いかける。
「知らないっす。聞いてどうしたいんすか。おいらが知ってたとしても、部署が違うあんたになんの関係もないのに」
「そ、それはそうだけど」
悪いことを聞いたわけではないのに、悪者みたいに言われるのはなんだか嫌な気持ちになる。
男はもうナエレのことなど視界から外し、水瓶を抱えて出ていってしまった。
知るなと言われると知りたくなるのが人の
ナエレは忠告を無視してディヤのあとをつけた。
ディヤはどんどんとひと気のないところに向かっていく。
城の敷地の端の端。昔このあたりには独房があったとかないとか、捕えた罪人の霊がいるとか嫌な噂があるから、あんまり近寄りたくない場所だ。
今は使われていない小路で立ち止まり、あたりをうかがい、ランタンを点して古びた扉の向こうに消えた。
足音を殺し、ゆっくりとその扉に近づく。扉が軋む音で気付かれてしまわぬよう、細心の注意を払って扉を開けた。
扉の先は階段だ。先が見えない暗闇。ここが一階なのだから、下り階段なら地下へ続くということ。
人がいないところがいいにしても、こんなところで食事を摂るものだろうか。
先程言われた、『好奇心は身を滅ぼす』という言葉が一瞬頭をよぎる。
行くべきか、引き返すべきか……。
迷った末、ナエレは地下へ続く道に足を踏み出した。
カツ、コツ、足音が響く。
ナエレの立てる音しかしない。
しばらく行くと、話し声……いや、怒鳴り声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。
こんな場所で聞こえるはずもない声。
そっと覗くと、ランタンの灯りの中、壁にウスマーンが繋がれているのが見えた。
鎖と手錠で拘束され、ひどい怪我をしている。
部屋の中にはウスマーンの他、ディヤともう一人……大人の男の影が揺れている。
逃げなきゃ。
なのに足がすくんで思うように動けない。
荒々しい足音がこちらに向かってきた。
逃げようにもここは一本道。隠れる場所もなく、向こうから来る誰かにぶつかった。
「きゃあ!」
勢いで転んでしまい、したたかお尻を打ち付けた。頭上から聞こえてきたのは短い舌打ち。
聞き覚えのある。
相手が誰なのか確認するのが恐ろしくて、顔を上げることができない。
足が、手が震える。
「ディヤ。ネズミが入り込んでいるぞ。つけられたな。あれほど気をつけろと言っておいたのに」
ぶつかった何者かが、ナエレの胸ぐらを掴む。
向こうからかすかにランタンの灯りが漏れていて、逆光の中相手の顔が見えた。
──国王ガーニム。
ナエレの服を掴むガーニムの手からは、サビ鉄のような臭いがする。
ナエレを睨む目は、獲物を狩る獣のような獰猛さを見せている。
「キサマ、反乱軍の手先か? なんの目的でディヤをつけた」
「は、はははは、はんらん、ぐん? 私が?」
最近巷を騒がせている、反乱軍。それの一味だと思われているんだ。
「見られちまったなら始末するしかないか」
ガーニムはナエレを投げ落とし、腰にさげた湾曲刀を抜いた。
これまで何人もの召使いが、ガーニムの機嫌を損ねただけで殺されてきた。
自分も殺される。死んじゃう。
嫌。そんなの。死にたくない。殺さないで、死にたくない。
ついてこなければよかった。追いかけなければよかった。
首を突っ込むなと言われたのだから、素直に引き下がるべきだった。
ナエレは、ディヤの警告を無視した自分の愚かさを呪った。
死を覚悟し、震えるしかないナエレ。
銀に光る刃が振り下ろされようとしていたのを、ディヤが止めた。
「待ってください陛下。この子、使い道がありそうじゃない。殺すのは簡単だけど、利用すればいいのではなくて?」
磨きぬかれた刃先が、ナエレの鼻先すれすれのところで止まっている。
「利用か。お前ならコレをどう使うと言うのだ」
「まだ反乱軍の潜伏先は見つかっていないでしょう。下っ端でもなんでもいいからこの子を反乱軍と接触させて、仲間にしてくれと頼めばいいの。潜伏先が割れれば一網打尽じゃない」
「クククッ。それもそうだな。送り込むのが兵の誰かでは、アムルが顔を知っているから警戒される。無能そうな平凡な小娘なら、あちらも警戒が薄かろう。必ずファジュルの居所を掴めよ。生かしておいてやったのだから」
低く笑いながら、ガーニムが剣を鞘に収める。
「小娘。裏切ればお前の家族がアレと同じ目に遭うことを覚えておけ」
悪魔のごとき台詞を吐き捨てて、ガーニムの足音は遠ざかっていった。
震えて立ち上がることができないナエレの前に、ディヤが話しかけてくる。
「だからやめろって言ったのに。馬鹿ねぇあんた」
「で、でもこ、こんな、こんなの、間違って、ウスマーン、さん、だって」
それまで黙っていたウスマーンが、咳をしながらこちらを見た。
「きみ、は……なぜ、こんなところに」
「えと、そ、れは、ウスマーンさん、が、本を、返してなかったから、だから、私」
ナエレの口をついて出たのは、大丈夫ですか、とか、早く病院に、とかでなく、ウスマーンを探そうとしていた当初の目的だった。
混乱しすぎて、わけのわからないことを口走る自分が嫌になる。
「ふっ。ああ、そんなに日が、経っているのか。すまないな。ほんなら、詰め所に、あるから、持っていってくれ」
ウスマーンは微かに笑って答える。ひどい怪我をしているのに。
「どうして、ウスマーンさんがこんな……」
「反乱軍を捕らえず、逃してしまったからよ。反乱軍の旗頭に、アシュラフ様の御子が……王子がいたから」
先王が亡くなった当時、ナエレはまだ子どもだった。当時のことは大人たちが話していた程度のことしか知らない。
とても優しく賢き王だった、ということだけ。
アシュラフ王の息子が、ガーニムを討つ為に反乱軍を起こした。
ガーニムはナエレに、その王子の居所を掴めと。
見つけたら間違いなく、王子は殺されてしまう。
「そん、な。わ、わた、私が、後をつけた、せいで、王子が、危険に晒されるの……?」
「そうね。ここで見聞きしたことを口外すれば、あなたの家族の首が飛ぶわよ。陛下はそういう人だから。自分で首を突っ込んだんだから、その命を持って責任を取りなさい、ナエレ」
戦争が起こるかもしれないと、最近市中の人たちが密やかに話していた。
自分はただの書庫管理官で、無関係だと思っていた。
兵でも何でもないから、誰がどこで戦おうと、自分には関係ない。
戦争なんかに関わることはない、なんて他人事みたいに言える日々は、この瞬間をもって終わった。