ドブネズミの革命 〜虐げられる貧民たちは下克上する〜
首都に行っていたメンバーが帰ってきてから、幾日か過ぎた。
朝食を終えると早々に、ファジュルは訓練用の木剣を振る。朝から晩まで時間の許す限り剣を握っている。
何かに追い立てられるような鬼気迫るファジュルを見ていて、ルゥルアは切なくなる。
素振りもまともにできなくて、ファジュルの手から木剣が滑り落ちた。
「ファジュル、一旦休もう?」
「いや、もう少しだけ」
ルゥルアが声をかけても、ファジュルは首を縦に振らない。みかねたディーが、ファジュルの頬を思い切りつねった。
「な、何をするんだ!」
「あのさぁ、鍛錬てのは闇雲にやってもなんの意味もないし、むしろ効率が落ちるの。明らかに疲れた顔をしてるし、兄さんのはまさに無駄な努力。頼むから休んでくれない? こっちまで辛気臭くなっちゃうじゃん」
「……だが、俺がまともに剣を使えないとみんなに迷惑がかかる」
「まともに剣を握れなくなってるくせに何言ってんのさ」
ファジュルが落とした木剣を拾い、ディーは眉をひそめる。柄はファジュルの血で汚れていた。
マメが潰れて出血するほどに、体を酷使している。そんなファジュルを叱ったのはラシードだった。
「ファジュル。無理をして倒れられるのが一番迷惑だ。今日は剣を持たず、休め」
昔からファジュルが聞き分けのないことを言うときはラシードが一喝していた。幼い頃のように叱られて、ファジュルはついに黙った。
ヨハンが薬の瓶と包帯をルゥルアに持たせる。
「ルゥルア。ファジュル様が無茶をしないようにみていなさい」
「ええ。任せて」
「あとはこれを。きちんと薬を塗らないと菌が入ってしまう」
ルゥルアが手を引くと、ファジュルは観念して寝所に戻った。
洞穴なので、空気は外に比べてひんやりとしている。
薄暗がりの中、ランタンの火をともして、ルゥルアはファジュルの手に薬を塗る。
手のひらの皮膚は潰れたマメと治りかけのマメとで、ところどころ固くなっている。自分が怪我をしたわけではないけれど、見ていてルゥルアのほうが痛くなる。
どうしてここまで無理をするのか。
包帯を巻かれている間も、ファジュルは抵抗することなく、じっと手当のようすを見つめる。
「……王都で何かあったの? なんだかあちらに向かったときより思いつめた顔をしているわ」
「なにも」
「何もないなら、こんなになるまで剣を握ったりしないでしょう」
入口のほうで、ユーニスが遠慮がちに声をかけてくる。
「兄ちゃん、入っていい? ばあちゃんからお茶もらってきた」
「あ、わたしが受け取るわ。ファジュルは手に薬を塗ったばかりだから、器を持てないの」
壁に手をついて入口まで行き、ユーニスが盆を渡してくれる。甘い香りのお茶と干したデーツが、ルゥルアの分まである。
デーツなんて食糧庫にあっただろうか。
「ばあちゃんがね、これはデーツのお茶って言ってたよ。干したやつもね、さっきヨアヒムのおじちゃんが持ってきてくれた。じようきょーそ? の効果があるんだって」
「うん。ありがとう、ユーニス」
ルベルタに発っていた仲間が戻ってきたんだ。今のファジュルに話をしても、重ねて無茶をしかねないから、休むのを最優先にさせようということらしい。
「ファジュル。お茶と干したデーツをもらったわ」
ルゥルアはファジュルの前に盆を置いて、いつものように隣に座る。
ルゥルアの手のひらに収まるくらいの陶製の茶器は、ここに来てから初めて見る物。ヨアヒムが果実と一緒に持ち込んでくれたものだろう。
お茶の熱を含んで温かくなっている。
ファジュルは茶器に手を伸ばして、触れた瞬間引っ込めた。器の熱も傷にさわるようで、痛みに顔をしかめる。そして自分の手を見て、深くため息をはいた。
「茶器すらまともに触れないんじゃ、休めって言われるのも無理ないか………」
「それだけじゃないわ。ファジュル、帰ってきてからあまり眠れていないでしょう。今だって、ほら」
そっとファジュルの額に触れると、やはり熱い。無理がたたったこともあって、ファジュルの体温はいつもよりも高い。顔色も悪かった。
「ファジュルが倒れたら、わたし泣いちゃうからね。しばらく口をきかないからね」
「…………それは、困るな」
本当に困ったように、眉尻を下げる。
ルゥルアは茶器をファジュルの口元に持っていく。少し考え込んで、ファジュルはルゥルアの手に自分の手を添えて茶器を傾け、お茶を口に含んだ。
「甘……」
「デーツも食べてね。はい、あーん」
「ルゥ、面白がってないか」
ふてくされたように言って、ファジュルはルゥルアのつまんだデーツをくわえた。ルゥルアも自分の分のお茶を飲んでデーツを食べる。
優しい甘みが体に染み渡る。
「茶器、返してくるね。ファジュルは寝ていて……」
盆を片付けようとして、ファジュルに手を捉えられた。
「後でいい」
「でも」
「ルゥもここで休めばいい」
後ろから抱きすくめられて、そのまま布団に転がる。
お腹にしっかり手が回されていて身動きが取れない。背中にいつもよりも少し熱いファジュルの体温を感じる。
「城下に行ったとき……」
「ん」
「リダが捕らえられていた。助けたには助けられたんんだけど、ガーニムやウスマーンもいて……。俺は先生やアムルにサポートされなきゃ、何もできなかった。ウスマーンが情けをかけてくれなかったら、ここにいなかったんだ」
耳にかかる吐息に、嗚咽がまじる。
「一人じゃ何もできないなんて、情けないな」
「ファジュル……」
お腹に乗せられた大きな手に、自分の手を重ねる。
「それはどうしようもないよ。だってわたしたち、つい最近まで武器なんて持ったことがない、ただの貧民だったんだから」
「育ちのせいだって、言い訳にしたくないんだ」
「ファジュルらしいね、そういうところ」
ルゥルアは苦笑する。
これだけの仲間ができても、一人で抱え込んで思い詰めてしまう癖は、そう簡単には治らないみたいだ。
それから何分もしないうちに、ファジュルは眠りに落ちた。ルゥルアを抱きしめたまま。本当はファジュルが眠ったらナジャーの手伝いをしようと思っていたのだけれど、今のファジュルを一人にするのは忍びない。
毛布を肩まであげて、ルゥルアも一緒に眠ることにした。
外では仲間たちが集まり、話をしていた。
話の内容はファジュルのこと。
ラシードは焚き火のそばに腰を下ろし、目を瞑る。
「やはり、体が持たないようじゃな」
「無理もないでしょう。彼は二日に一食得られればいいような生活だった。同じ年齢で毎日三食を食べて育った平民と比べたら、体力はその半分にも及ばないでしょう」
「人の体は食べたもので作られるからな……。これから食事をきちんと採って体を丈夫にしてもらわなければ、アシュラフ様に顔向けができん」
貧民として生きてきたがゆえに、ファジュルの食は細く、体は平民よりもずっと弱く脆い。
ファジュル本人は兵と渡り合えるだけの剣術を身に着けたいというが、体が気持ちについていかなくなっている。
「そう思って、マラ教の人間が食べても問題ないものの中でも、とくに栄養価の高いものを仕入れてきた。ファジュル様に積極的に食べさせてくれ。僕としても彼に倒れられては困る」
「助かるよ、ヨアヒム」
「気にするなって、兄さん」
ヨアヒムが運んできてくれたのは、羊の燻製チーズや牛の干し肉など、日持ちのする食品。そして不足分の毛布やランタンオイルなど。
旅一座の人間がこれらのものを購入しても、誰も不思議には思わない。ヨアヒムやディーはこういう買い出しに適任と言える。
「それで、ルベルタで協力してくれそうな人はいたか?」
「ハインリッヒ伯が、ぜひとも詳しく話を聞きたいと仰っていたよ」
ヨアヒムの言葉を聞き反応したのはイーリスだ。手のひらを合わせて笑う。
「あ、私その方を知ってますわ。昨年の建国記念日にいらっしゃいましたもの。ガーニムとは気が合わなそうな御仁でしたわね」
「気が、合わなそうな御仁……、ぷ、くくく。確かにあのクソジジイとハインリッヒ殿じゃ合わないだろうね」
ガーニムと気が合わないならかなりまともな人間だろうと、その場にいた全員が思った。
ディーも、イーリスのあんまりな評価に腹を抱えて笑い転げる。
「なぜ笑うのです」
「ぷ、ふふ。言ってもわからないと思うから気にしないで」
「…………なにか引っかかるのだけど。それより、ディーたちはハインリッヒ辺境伯の領地にもお邪魔したことがあるの?」
「ああ。ボクらはあちこちの貴族様のところに呼ばれて公演をしているからね。ルベルタとイズティハルの貴族の半分くらいは知ってるよ」
「すごいのね」
イーリスは国内どころか城から出たことすら数えるほどしかなかったため、日々旅をして異国の地を踏むなんて想像もつかない。
「ひとところに落ち着けないじゃないって言う人もいるけど、旅暮らしも慣れると楽しいもんだよ」
「私もいつかいろんな国を巡ってみたいわ」
「そのためには、さっさとガーニムのジジイに玉座をおりてもらわないとね。イーリスが狙われたまんまだと、おちおち国内旅行もできやしない」
歯に衣着せぬディーの毒舌を、ヨアヒムがたしなめる。
「ディー。言い方が悪い」
「お上品ぶるなよ。親父だってガーニムが死んだほうがいいって思ってんだろー」
「思っても口に出さないよ。大人だから」
「どうせボクは子どもですよーだ」
十五才は、年齢的にはまだ子どもに分類される。口を尖らせるディーの頭をヨアヒムが小突く。
「それで、ハインリッヒさんのところに行くのね」
「ああ。こちらからお願いする立場なのだから、先方をこちらに呼ぶなんて不義はできない。ハインリッヒ様の都合のいい日を聞いてあるから、ファジュル様にはその頃に伝えるとしよう。それまでは休んでもらわないと」
休めとみんなで無理やり寝所に押しやって、ようやく休むような人間だ。今日伝えたら今すぐ行くと言い出しかねない。
しかるべき日までは無理をさせないと、満場一致で決定した。
朝食を終えると早々に、ファジュルは訓練用の木剣を振る。朝から晩まで時間の許す限り剣を握っている。
何かに追い立てられるような鬼気迫るファジュルを見ていて、ルゥルアは切なくなる。
素振りもまともにできなくて、ファジュルの手から木剣が滑り落ちた。
「ファジュル、一旦休もう?」
「いや、もう少しだけ」
ルゥルアが声をかけても、ファジュルは首を縦に振らない。みかねたディーが、ファジュルの頬を思い切りつねった。
「な、何をするんだ!」
「あのさぁ、鍛錬てのは闇雲にやってもなんの意味もないし、むしろ効率が落ちるの。明らかに疲れた顔をしてるし、兄さんのはまさに無駄な努力。頼むから休んでくれない? こっちまで辛気臭くなっちゃうじゃん」
「……だが、俺がまともに剣を使えないとみんなに迷惑がかかる」
「まともに剣を握れなくなってるくせに何言ってんのさ」
ファジュルが落とした木剣を拾い、ディーは眉をひそめる。柄はファジュルの血で汚れていた。
マメが潰れて出血するほどに、体を酷使している。そんなファジュルを叱ったのはラシードだった。
「ファジュル。無理をして倒れられるのが一番迷惑だ。今日は剣を持たず、休め」
昔からファジュルが聞き分けのないことを言うときはラシードが一喝していた。幼い頃のように叱られて、ファジュルはついに黙った。
ヨハンが薬の瓶と包帯をルゥルアに持たせる。
「ルゥルア。ファジュル様が無茶をしないようにみていなさい」
「ええ。任せて」
「あとはこれを。きちんと薬を塗らないと菌が入ってしまう」
ルゥルアが手を引くと、ファジュルは観念して寝所に戻った。
洞穴なので、空気は外に比べてひんやりとしている。
薄暗がりの中、ランタンの火をともして、ルゥルアはファジュルの手に薬を塗る。
手のひらの皮膚は潰れたマメと治りかけのマメとで、ところどころ固くなっている。自分が怪我をしたわけではないけれど、見ていてルゥルアのほうが痛くなる。
どうしてここまで無理をするのか。
包帯を巻かれている間も、ファジュルは抵抗することなく、じっと手当のようすを見つめる。
「……王都で何かあったの? なんだかあちらに向かったときより思いつめた顔をしているわ」
「なにも」
「何もないなら、こんなになるまで剣を握ったりしないでしょう」
入口のほうで、ユーニスが遠慮がちに声をかけてくる。
「兄ちゃん、入っていい? ばあちゃんからお茶もらってきた」
「あ、わたしが受け取るわ。ファジュルは手に薬を塗ったばかりだから、器を持てないの」
壁に手をついて入口まで行き、ユーニスが盆を渡してくれる。甘い香りのお茶と干したデーツが、ルゥルアの分まである。
デーツなんて食糧庫にあっただろうか。
「ばあちゃんがね、これはデーツのお茶って言ってたよ。干したやつもね、さっきヨアヒムのおじちゃんが持ってきてくれた。じようきょーそ? の効果があるんだって」
「うん。ありがとう、ユーニス」
ルベルタに発っていた仲間が戻ってきたんだ。今のファジュルに話をしても、重ねて無茶をしかねないから、休むのを最優先にさせようということらしい。
「ファジュル。お茶と干したデーツをもらったわ」
ルゥルアはファジュルの前に盆を置いて、いつものように隣に座る。
ルゥルアの手のひらに収まるくらいの陶製の茶器は、ここに来てから初めて見る物。ヨアヒムが果実と一緒に持ち込んでくれたものだろう。
お茶の熱を含んで温かくなっている。
ファジュルは茶器に手を伸ばして、触れた瞬間引っ込めた。器の熱も傷にさわるようで、痛みに顔をしかめる。そして自分の手を見て、深くため息をはいた。
「茶器すらまともに触れないんじゃ、休めって言われるのも無理ないか………」
「それだけじゃないわ。ファジュル、帰ってきてからあまり眠れていないでしょう。今だって、ほら」
そっとファジュルの額に触れると、やはり熱い。無理がたたったこともあって、ファジュルの体温はいつもよりも高い。顔色も悪かった。
「ファジュルが倒れたら、わたし泣いちゃうからね。しばらく口をきかないからね」
「…………それは、困るな」
本当に困ったように、眉尻を下げる。
ルゥルアは茶器をファジュルの口元に持っていく。少し考え込んで、ファジュルはルゥルアの手に自分の手を添えて茶器を傾け、お茶を口に含んだ。
「甘……」
「デーツも食べてね。はい、あーん」
「ルゥ、面白がってないか」
ふてくされたように言って、ファジュルはルゥルアのつまんだデーツをくわえた。ルゥルアも自分の分のお茶を飲んでデーツを食べる。
優しい甘みが体に染み渡る。
「茶器、返してくるね。ファジュルは寝ていて……」
盆を片付けようとして、ファジュルに手を捉えられた。
「後でいい」
「でも」
「ルゥもここで休めばいい」
後ろから抱きすくめられて、そのまま布団に転がる。
お腹にしっかり手が回されていて身動きが取れない。背中にいつもよりも少し熱いファジュルの体温を感じる。
「城下に行ったとき……」
「ん」
「リダが捕らえられていた。助けたには助けられたんんだけど、ガーニムやウスマーンもいて……。俺は先生やアムルにサポートされなきゃ、何もできなかった。ウスマーンが情けをかけてくれなかったら、ここにいなかったんだ」
耳にかかる吐息に、嗚咽がまじる。
「一人じゃ何もできないなんて、情けないな」
「ファジュル……」
お腹に乗せられた大きな手に、自分の手を重ねる。
「それはどうしようもないよ。だってわたしたち、つい最近まで武器なんて持ったことがない、ただの貧民だったんだから」
「育ちのせいだって、言い訳にしたくないんだ」
「ファジュルらしいね、そういうところ」
ルゥルアは苦笑する。
これだけの仲間ができても、一人で抱え込んで思い詰めてしまう癖は、そう簡単には治らないみたいだ。
それから何分もしないうちに、ファジュルは眠りに落ちた。ルゥルアを抱きしめたまま。本当はファジュルが眠ったらナジャーの手伝いをしようと思っていたのだけれど、今のファジュルを一人にするのは忍びない。
毛布を肩まであげて、ルゥルアも一緒に眠ることにした。
外では仲間たちが集まり、話をしていた。
話の内容はファジュルのこと。
ラシードは焚き火のそばに腰を下ろし、目を瞑る。
「やはり、体が持たないようじゃな」
「無理もないでしょう。彼は二日に一食得られればいいような生活だった。同じ年齢で毎日三食を食べて育った平民と比べたら、体力はその半分にも及ばないでしょう」
「人の体は食べたもので作られるからな……。これから食事をきちんと採って体を丈夫にしてもらわなければ、アシュラフ様に顔向けができん」
貧民として生きてきたがゆえに、ファジュルの食は細く、体は平民よりもずっと弱く脆い。
ファジュル本人は兵と渡り合えるだけの剣術を身に着けたいというが、体が気持ちについていかなくなっている。
「そう思って、マラ教の人間が食べても問題ないものの中でも、とくに栄養価の高いものを仕入れてきた。ファジュル様に積極的に食べさせてくれ。僕としても彼に倒れられては困る」
「助かるよ、ヨアヒム」
「気にするなって、兄さん」
ヨアヒムが運んできてくれたのは、羊の燻製チーズや牛の干し肉など、日持ちのする食品。そして不足分の毛布やランタンオイルなど。
旅一座の人間がこれらのものを購入しても、誰も不思議には思わない。ヨアヒムやディーはこういう買い出しに適任と言える。
「それで、ルベルタで協力してくれそうな人はいたか?」
「ハインリッヒ伯が、ぜひとも詳しく話を聞きたいと仰っていたよ」
ヨアヒムの言葉を聞き反応したのはイーリスだ。手のひらを合わせて笑う。
「あ、私その方を知ってますわ。昨年の建国記念日にいらっしゃいましたもの。ガーニムとは気が合わなそうな御仁でしたわね」
「気が、合わなそうな御仁……、ぷ、くくく。確かにあのクソジジイとハインリッヒ殿じゃ合わないだろうね」
ガーニムと気が合わないならかなりまともな人間だろうと、その場にいた全員が思った。
ディーも、イーリスのあんまりな評価に腹を抱えて笑い転げる。
「なぜ笑うのです」
「ぷ、ふふ。言ってもわからないと思うから気にしないで」
「…………なにか引っかかるのだけど。それより、ディーたちはハインリッヒ辺境伯の領地にもお邪魔したことがあるの?」
「ああ。ボクらはあちこちの貴族様のところに呼ばれて公演をしているからね。ルベルタとイズティハルの貴族の半分くらいは知ってるよ」
「すごいのね」
イーリスは国内どころか城から出たことすら数えるほどしかなかったため、日々旅をして異国の地を踏むなんて想像もつかない。
「ひとところに落ち着けないじゃないって言う人もいるけど、旅暮らしも慣れると楽しいもんだよ」
「私もいつかいろんな国を巡ってみたいわ」
「そのためには、さっさとガーニムのジジイに玉座をおりてもらわないとね。イーリスが狙われたまんまだと、おちおち国内旅行もできやしない」
歯に衣着せぬディーの毒舌を、ヨアヒムがたしなめる。
「ディー。言い方が悪い」
「お上品ぶるなよ。親父だってガーニムが死んだほうがいいって思ってんだろー」
「思っても口に出さないよ。大人だから」
「どうせボクは子どもですよーだ」
十五才は、年齢的にはまだ子どもに分類される。口を尖らせるディーの頭をヨアヒムが小突く。
「それで、ハインリッヒさんのところに行くのね」
「ああ。こちらからお願いする立場なのだから、先方をこちらに呼ぶなんて不義はできない。ハインリッヒ様の都合のいい日を聞いてあるから、ファジュル様にはその頃に伝えるとしよう。それまでは休んでもらわないと」
休めとみんなで無理やり寝所に押しやって、ようやく休むような人間だ。今日伝えたら今すぐ行くと言い出しかねない。
しかるべき日までは無理をさせないと、満場一致で決定した。