なつめを抱えながら四番隊の門をくぐり、敷地内へ一歩踏み入れた一角はそのまま気を失って倒れた。複数人の四番隊隊士たちが二人を隊舎内へ運び込み、治療を施した。
長い夜が明け、日が登り、空が白んでいく。
先に目を覚ましたのは一角だった。
全身に包帯を巻かれ、見るからに重症である一角は綜合救護詰所三階の病室に寝かされていた。一角は怪我を負っていることを感じさせないほど、勢い良く上体を起こすと病室を見渡した。自分が寝かされている病室に
なつめがいないと分かる颯爽とベッドから抜け出した。体を動かすたびにあの男に付けられた胸の大きな傷から全身に痛みが走る。それが「あれは夢ではない」と語りかけてくる。その言葉を無視しながら一角は足早に病室の出入り口へと向かう。閉じられている扉の前に立ち、手を伸ばすと扉が別の力によって開かれた。
「一角さん!」
「あ、姐さん……」
その別の力の主は、四番隊隊士である更木
優紫のものだった。
「目を覚まされたんですね!」
「……はい」
「良かった……!」
一番見つかりたくなかった人に見つかってしまった、と一角は頭を掻いた。自分が所属する十一番隊隊長・更木剣八の最愛の妻であるその人物に一角は強く出られない。万が一、
優紫へ何かを仕出かしてしまった日には剣八から鬼のような怒りを買ってしまうという理由もあるが、一角は
優紫自身の信念や芯の強さ、人柄に一目置いている。自分の世界の核を成していると言っても過言ではない剣八の名誉と命を
優紫が過去に救い、護った経緯がある。それに対して義理を感じている理由が強い。
そんな
優紫に「まだ体を動かしてはいけませんよ」などと言われてしまえば、一角はそれに従うしかない。
優紫以外の人物であれば、四番隊隊長・卯ノ花烈や副隊長・虎徹勇音であっても強引に払い除けてでも
なつめの病室を探しに行っていただろう。
(大人しく言うことを聞いて、一先ずやり過ごすしかねえか……)
一角のそんな思惑を知らない
優紫は柔らかく微笑んだ。
「
なつめちゃんですか?」
優紫に言われるであろうことを予想して、寝かされていたベッドの方へ戻るために方向転換した一角の背中へ
優紫は言葉を投げ掛けた。自分の聞き間違いかと思った一角は二回瞬きをし、再び
優紫へと向かい直った。
優紫は変わらず微笑んだままだった。
「……
なつめは、無事ですか?」
自分はそんなに分かりやすかっただろうか、と一角は少しバツが悪そうにした。
「はい。無事ですよ。まだ目を覚ましていませんが、一角さんが塗って下さった血止め薬のおかげもあって傷のほうはすっかり治癒しています」
「そう、スか……」
「ただ、精神的なダメージが大きくて、いつ目を覚ますかは
なつめちゃん次第なのですが……」
「……」
優紫の言葉に一角は無意識に拳を握り込んだ。
このまま目を覚まさなかったら、とどうしても弱々しい思考回路になってしまう。
「
なつめちゃんのところへ案内しますね」
ベッドへ再び寝かされると思っていた一角だったが、
優紫は予想に反して
なつめの病室へと案内してくれた。
優紫に先導されながら長い廊下を歩く。どうやら同じ三階の病室には寝かされているようだった。一角の病室から数えて五つ目のところで
優紫は立ち止まった。
「ここが
なつめちゃんの病室です」
病室の扉には"
朱田なつめ"と書かれている札がある。
優紫が音を立てないように静かに扉を開けると、
なつめは自分と同じようにベッドへ寝かされていた。
「一角さん、ありがとうございます」
「はい?」
「私の大事なお友達を助けてくださってありがとうございます」
「……俺は、」
あの男を倒したのは自分であり、
なつめを四番隊へ運んだのも自分。だが──本当に自分が
なつめを"助けた"と言えるのだろうか。
言葉を詰まらせる一角の肩に
優紫は優しく手を置いた。
優紫は何も言葉を発さなかったが、その手から感じる温かさがまるで自分を肯定しているかのように一角は感じた。無理に干渉してくることもなく、自分の価値観をただ並べて押し付けるようなこともしない。だから、あの剣八が
優紫に惹かれたのだろう。一角は改めて
優紫の懐の深さに感服した。
「一角さんも目覚めたばかりですから、あまり無理をなさらないでくださいね」
「はい、ありがとうございました」
優紫はそう言い残し、最後に
なつめがまだ目を覚ましていないことを確認すると仕事へ戻って行った。一角は礼を告げ、頭を下げて
優紫を見送る。
「……」
もう一度病室の外から中を伺う。呼吸をするたびに
なつめの胸が小さく上下するのが遠目からも分かり、一角は
なつめが生きていると実感できた。
病室の中へ入ろうとも思ったが、一角は足を踏み込めなかった。身体にも精神にも傷を深く負ったのは、偽物だろうと"自分"が原因だ。
なつめは目を覚ました時に自分の顔を見て、初めにどう思うのだろうか。
一角は、らしくもなく後ろ向きになった。そんな自分へ嫌気がさし、深く溜め息をつく。
顔を見せた時に怖がらせてしまうかもしれない。だが、目を覚ました時に一人きりにはさせたくはなかった。
一角は腕を組んで病室の外で壁へ寄りかかり、意識だけで
なつめの様子を窺い続けた。
暫くして、そんな一角へ声を掛ける者がいた。
「そんなに心配なら中へ入れば良いのに」
「……弓親」
一角が顔を向けて声の主を確認すると、自分と同じ十一番隊へ所属する綾瀬川弓親がこちらへ向かって歩いていた。
「ここで良い」
「そう」
自分の問いにきっぱりと言い切る一角に弓親は肩をすくめて笑う。
弓親は病室の中を覗き、
なつめの様子を少しだけ伺うと一角の隣で同じように壁へ背をもたれて立った。
「こんなところに突っ立ってるより、傍にいてくれたほうが
なつめも嬉しいんじゃないかい?」
「俺たちが勝手に決めることじゃねえ」
「まあ、確かにそうだけどさ。君が助けたんだから、それぐらいは許されると僕は思うけど?」
あの場に弓親は、いなかった。だが、その口振は全てを知っているようだった。そんな弓親に一角は少し怪訝な顔を見せる。
「傷付けちまったのも"俺"だ」
全てを見透かされてしまいそうな弓親の瞳から目を逸らし、遠いところを見つめながら一角は呟いた。
「全く、頑固だね」
「……」
一角が黙し、二人の間に沈黙が流れた。弓親が口を開き、その沈黙を破る。
「もう自分たちは手遅れだ、って言いたそうな顔をしてるね」
「……、……誰だってそう思うだろ」
「何を理由に手遅れって判断してるのかは知らないけど、らしくないね」
弓親は目を閉じ、また肩をすくめて笑った。
「傷付けたのも君。助けたのも君。じゃあ直せるのも君だけじゃないのかい?」
弓親は閉じていた瞼をゆっくり開き、一角の横顔を見つめた。
「……」
一角は黙したまま、弓親と目を合わせた。目が合うと弓親は少し目を細めて微笑む。
「君が恐れているように、
なつめが目を覚ました時に君を拒んだとして……その時、一角はどうするんだい?」
「……」
「手遅れだって思っていても、それでも離れるなんて考えにはならないんだろ?」
「……うるせえな」
誰にも知られないように自分では隠しているつもりだったが、確信を突く弓親に一角は顔を逸らした。一角は弓親には隠し事ができた試しがない。
「
なつめのことを想いやるのも大事だけど、それは自分の想いを蔑ろにして良いという意味ではないよ。あの子は一番それを悲しむから」
「分かってる。そんなこと」
一角は弓親の言葉へ口調を強めて食い気味に返事をした。
なつめは周りをよく見ており、変化に敏感なところがある。自分の気持ちを隠して、他人をいつも優先させている。それは一角自身もよく分かっていた。
なつめは、抱え込んだものでいつ潰れてしまうか分からない。それに気付いてしまった一角は、目が離せなくなってしまった。
「あと、早く好きって言いなよ」
「おいッ! 弓親、てめェ!」
一角は眉を釣り上げ、目を見開きながら辺りに響き渡るような声を発した。周りで忙しなく働いていた四番隊隊士たちの視線を集めるが、すぐに喧騒の原因が十一番隊だと分かると各々業務へと戻っていく。
なつめの過去に触れたあの日からというもの、気が付けば
なつめの顔色ばかりを気にしていた。誰かに対してそういうことが今までなかった一角は、それが恋情からくるものだと理解するのは遅くはなかった。
「そんなに声荒げないでよ。傷が開くし、周りの人にも迷惑だよ。落ち着いてよ。僕から
なつめには言ったりなんかしないから」
「当たり前ェだッ!」
周りの反応が目に入っていなかった一角はまた大きな声で弓親を一喝した。一角の怒声に慣れている弓親は顔色を変えることはなかった。
「思っていたより君は元気そうだし、連絡してくれた姐さんに挨拶してから僕は帰るよ」
「帰れ、帰れ」
弓親は寄りかかっていた壁から背を離すと一角へと向き直った。茶化されたことに不服な表情を浮かべながら、手で追い払う動作をする一角に弓親は楽しそうに笑った。
「じゃあね。こっちのことは気にしくて良いから一角もゆっくり休みなよ」
そう言いながら弓親は一角へ背を向け、頭の高さに上げた片手を軽く振りながらその場を去った。
弓親の背中が完全に見えなくなったのを確認し、一角はまた意識だけを病室の中へ向けた。
なつめの様子は何も変わらず、静かに眠ったままだった。一角は溜め息をこぼし、膝を折るとその場に胡座をかいて座る。
時計の指針が進み、日が暮れる。
もう二度と目を覚まさないのではないかという恐れが荒波のように一角を襲い続けた。
*
瀞霊廷に再び夜が訪れた。
昨日の出来事は悪い夢だったのかもしれない、そう感じてしまうほど静かな夜だった。その夜が明け、空へ登った陽の光りに星々の明かりが小さくなり始めた頃。
なつめはゆっくりと瞼を開いた。
なつめの目には板が張り巡らされたり天井が広がっていた。まだぼんやりとする意識の中でその天井を見つめる。
「……ッ!」
ふと自分を押し倒して怪しげな笑みを浮かべる男の幻が見え、息を呑んで上体を起こそうとした。すると全身に鈍い痛みが走り、完全に上体を起こすことができずに途中で身体は止まってしまった。
「……いッ! ……、たぁ……」
「
なつめ……!」
遠くから聞き慣れた声が聞こえ、その声に
なつめはビクリと肩を大きく震わせた。脳裏にはあの男の顔が過ぎる。声が聞こえた方へ恐る恐る目を向けると先程から頭に浮かぶ男と同じ容姿をしている一角が心配そうな表情を浮かべて部屋の出入り口に立っていた。
「……一角?」
なつめが名前を呼ぶと、一角はほっと息をついた。
「何やってんだ。目、覚めたばっかりなんだからまだ寝てろ」
「一角……」
自分を気遣う言葉に幻の男ではなく本物の一角だと確信した
なつめは、そっと胸を撫で下ろす。痛む体を無理矢理起こし、ベッドから両足を下ろして座った。
「おい。寝てろって、今言っただろ。聞こえなかったのか」
「平気、平気」
大丈夫。
なつめは自分へそう言い聞かせるが、手も足も小さく震えていた。小さく深呼吸をし、
なつめはいつものように無邪気な笑顔を返した。
「ていうか、一角のほうが全然大丈夫じゃなさそうに見えるけど……大丈夫?」
「こんなの唾付けときゃ治る」
「いやいや、絶対治んないって。怪我治るまで舐めたくってたら、頭だけじゃなくて全身の毛もなくなるよ」
「……」
それを言うと一角が怒声を浴びせながらこちらへ向かってくると思っていた
なつめだが、一角は一向に病室へ入っては来なかった。
なつめは首を傾げた。
「……一角、何でそんなところにずっと立ってるの?」
「見舞いだ、見舞い」
「お見舞い?」
なつめは一角の言葉を繰り返しながら、辺りを見渡し、自分が眠っていたここは四番隊の綜合救護詰所の病室だと今更把握した。
「お見舞いってこんなに離れてするもんだっけ…? 隊長二人分ぐらい離れてるじゃん」
剣八は二メートル程ある大男だ。その男がニ人分。つまり約四メートル程、
なつめと一角の間には距離があった。
「あたしが知ってるお見舞いって、このぐらいの近さで話しをしたりするものなんだけど?」
なつめは自分が座っているベッドの端をポンポンと軽く叩くが、一角は少し眉頭に皺を深くして沈黙した。
「こっちに来ないの?」
「……」
「一角? どうしたの?」
「……」
「おーい。……何かあった?」
口を開こうとしない一角に
なつめは首を傾げて明るく笑った。
「……」
「え? 一角、もしかして声帯取れた? どこ落としたの? ちゃんと名前書いてた?」
なつめの手の震えに気付いている一角は
なつめを無理に明るく振る舞わせてしまっていることに、行き場のない怒りを感じて奥歯を噛み締めた。
「……俺のこと、怖くねえのか?」
一角にしては珍しく何とか聞き取れるぐらいの声の大きさだった。
「何で?」
「……」
怖くないのか。そう切り出した一角はすぐになぜだと問い返されてしまい、再び黙ってしまった。
「ねえ、何でそんなこと聞くの?」
怖くないと言えば、きっとそれは嘘になってしまう。
先程、
なつめは一角の声を聞いて身体を震わせてしまったのは確かな事実だった。何度も落ち着かせようとしている今も震えている。
「……何でって、お前、」
覚えていないのか、と口から出かけた言葉を一角は飲み込んだ。覚えていないわけがないだろう。忘れてしまっているならば、
なつめが震えて怯える理由がここにはない。
「椅子あるんだから、ここ座りなよ」
なつめは自分が座るベッドの横に置いてあった椅子を自分の目の前へ移動させた。今度は椅子をポンポンと叩いて一角を呼んだ。
「……」
だが、一角は一歩も動かない。
本当は傍に近寄りたかった。そして抱き締めてしまいたかった。
なつめの温度を、感触を、生きていることを自分の体で確かめたかった。
弓親の言うとおり、一角は恐れている。
なつめから拒絶されることが怖いのだ。それでも、
なつめが目覚めるまで一角はこの場から動かなかった。怖がらせてしまうかもしれない、と思いながら離れることはできなかった。だから、距離を取った。
なつめがすぐに逃げられるように。
「分かった」
ベッドへ座っていた
なつめは立ち上がった。
「……よし! じゃあ、あたしがそっちに行くからね」
自分の方へと歩み寄ろうとする
なつめに一角は、ぎょっとして思わず一歩部屋の中へ足を踏み入れた。
「わ、分かったッ! 分かったからお前は動くな! 寝てろって言っただろッ!」
手のひらを突き出し、
なつめを制止しながら一角は声を張った。よく通る声が辺りに響き渡る。
「一角があたしのこと無視するからじゃん」
腕を組んでベッドへ再び腰を下ろす
なつめを見て、一角は深く息を吐いた。その時に顔を伏せた一角は、自分が部屋の中へと足を踏み入れていることに気付いた。一角は観念したように苦笑を浮かべ、いつもより小さな歩幅でゆっくりと
なつめへと近付いた。先程
なつめが座るように言っていた椅子の横へ立ち、
なつめと目を合わせた。
──俺のこと、怖くねえのか?
なつめは一角が何を言いたいのかは分かっていた。自分と同じ顔と声を持った男が
なつめに対して行った言動のことを言っているのだ、と。
「一角のことは怖くないって言ったじゃん」
なつめは震える手を握り込み、はっきりと真っ直ぐな声で言い切った。
「……一角はずっとあたしのことを助けてくれてたのを、ちゃんとあたしは知ってるよ」
一角へ自分の過去を話したあの日以降、一角はそれ以上何も追求してはこなかったが、
なつめを気遣う素振りを見せていた。
男からの視線が気になった時は、不安に思う
なつめの気持ちを察した一角が何も言わずに背に隠してくれた。飲み会となれば他の男が隣に座らないように壁際へ自然に誘導し、
なつめの隣に座った。一角自身も
なつめと必要以上に距離を詰めることもなく、一定の距離感を保っていた。
なつめは一角のその行動をしっかり気付いていた。自分を大切に、大事に、気遣ってくれていることが
なつめは嬉しかった。だからこそ、自分自身を責めている一角の姿に
なつめは苦しんだ。
「だからさ……」
一角が固く握り込んでいた右手を
なつめは手に取ると、優しく両手で包み込み拳を開かせた。
「もう自分のことを責めないでよ」
自分の手のひらに血が滲んでいるのを見た一角は、やっとそこで自分の爪が手のひらの皮膚を傷付けていたことを知った。
「一角はあたしを助けてくれたんだから、そんな顔しないでよ。傷も治してもらってるし大丈夫」
体の傷は消えても、心の傷は消えない。
昔の傷が今も
なつめのこと苦しめてるように今回の傷も苦しめ続けてしまうだろう。
そう思うと同時に怒り、悲しみ、憂い、苦しみが胸に溢れてきて、どう晴らして良いのか分からない。一角は唇を噛み締めた。
「唇それ以上噛んだら、そこからも血出ちゃうんだからね」
「……」
一角は静かに唇を噛む力を弱めた。
なつめは眉尻を下げて哀しそうな表情を浮かべながら、一角の手へ自分の手のひらを翳した。
なつめの手のひらから光が照らされ、少しずつ少しずつ傷が癒えていく。
「どう? すごいでしょ! 姐さんと練習したんだよ」
なつめは哀しげな表現から明るい表現へ顔を変えて、一角へ語りかけた。
「今の包帯まみれな一角みたいな、派手な大怪我とかは治せないんだけどね」
一角も笑ってくれれば良いと
なつめは思うが、自分が笑えば笑うほど一角は眉間に皺を寄せて表情が重くなっていくように見えた。
「あたしのことは気にしないでよ! これはあたしが弱かったから! あたしも恋次みたいに一角へ弟子入りしたほうが良いのかな〜……なんてね」
「……」
「……あはは、は」
なんとかしようと惚けて見せるが、状況は変わらず
なつめの口角がぎこちなく下がっていく。
「……あたしは、更木隊失格、だね」
表情が暗くなり、ついに
なつめは顔を伏せた。
「
なつめ」
一角は暗闇から引きずり出すような強くて真っ直ぐな声で
なつめの名を呼んだ。惹き合うように二人の視線が重なる。
「無理に笑うな」
「っ……」
一角は口を開いて、一度閉じた。この先の言葉を傷付けてしまった自分が
なつめへ伝えて良いのかと一瞬迷った。
しかし、
なつめが自分のことを拒まないのならば、自分が逃げてはいけない。
──傷付けたのも君。助けたのも君。じゃあ直せるのも君だけじゃないのかい?
弓親の言葉が一角の頭に響いた。
自分に直せるのだろうか。
自信はない。
けれど、護りたい。一人にはさせない。そう誓ったのは他でもない自分だ。
一角は心の中で自分へ喝を入れ、
なつめの隣へドスンと腰を下ろした。ベッドが軋み、
なつめの体も上下に少し揺れた。その間も二人は視線を離さなかった。鋭いけれど優しさが宿る瞳で一角は
なつめを見つめながら口を開く。
「笑いたくない時に笑うな。俺の前で隠すんじゃねえよ」
一角の言葉に
なつめはゆっくり涙が込み上げてきた。
「あたし……っ」
ゆらゆらと視界が揺れ、声も揺れ始めた。
「……やっぱり、一人じゃ何も、……できなくてっ」
溢れ続ける涙は
なつめの頬を伝い、膝へ涙が落ちていく。
「どうして、こんなにっ、弱いんだろ……なんでっ、強くなれないんだろ……っ」
しゃくり上げながら泣いている
なつめの姿が、過去を打ち明けてくれたあの時の姿と重なり一角の胸が傷んだ。
なつめは両手で涙を拭うが、涙はぽたぽたと膝を濡らしていく。
「……あたしは……あたしは、強くなりたいのに……ッ!」
悲痛な叫びを受け止めるように一角は
なつめを強く抱き締めた。堪えきれなくなった
なつめは声を上げて、幼い子供のように泣き始めた。
「
なつめ、よく聞け」
あやすように一角は抱き締めながら頭を優しく撫でる。
「お前は弱くなんかねえ」
優しい声に
なつめは余計に涙が溢れた。今まで一人で耐えてきた全てが簡単に崩れて、涙は止まることを知らなかった。
「弱い奴は十一番隊から真っ先に逃げてる。生きること自体を諦める」
物心ついた時には一人だった。母親も、父親も知らない。本当にいるのかさえも分からない。怖い大人たちに囲まれて必死に生きた。生きるのが怖かった。何度も死にたいと思った。それでも、一人で死ぬのはもっと怖かった。助けを求めても誰も助けてはくれない。助けを求めてはいけないのだと思った。一人で死にたくなければ、一人で強くならなければならないと思った。一人で生きていくために、死神を目指した。入隊志願していなかったのにもかかわらず、何かの適性を見出されたのか十一番隊に配属された。男世帯の隊
に怖気付いた。だが、もう背中を見せて逃げたくなかった。弱い自分と決別したかった。強くなるために十一番隊に所属し続けることを選んだ。そして過去を乗り越えるために、未来を生きるために、一人で強さを求めた。
「お前は十分強い」
なつめの全てを抱き締めるように優しくも強い一角の声は、傷だらけの
なつめの心を癒していく。
なつめは縋るように一角を抱き締め返すと一角はより強く抱き締めた。
まるでそこにいないかのように扱われていた自分もここにいても良いのだと言われているようだった。
「お前は一人じゃねえって言っただろ」
──お前は一人じゃねえだろ。俺らがいる。
あの日、一角は
なつめにそう言った。
何事も一人で成せば成らないと思い込み、一人で全てを背負い込み耐えている
なつめに対して、「そう気負う必要はない。確かに昔は一人だったかもしれないが、今は仲間がいる。だから頼れば良い」という気持ちから出た言葉だった。
だが今は──
「俺がいる」
一人で抱え込めないものがあるなら分けて欲しい。他の奴らではなく、自分だけへ分けて欲しい。それで
なつめが楽になるなら、いくらでも自分が貰ってやる。
「お前のことを弱いって馬鹿にするような奴がいるなら、俺のところに連れて来い」
悲しい時、苦しい時、辛い時は真っ先に自分のところへ来て欲しい。
「それでもまだ自分のことを弱いって言うなら、俺が傍にいてやる」
今をやり過ごすための言葉ではなく、自分の全てを一緒に抱えることを誓う言葉に
なつめは聞こえた。
一角は一度言ったことを、決めたことを曲げない男だと
なつめは知っている。
剣八の強さに焦がれた一角は、十一番隊隊長の座についた剣八を追いかけて死神になった。その剣八の元で戦い続けることに誇りを持っている一角は、厳しい鍛錬の末に習得した卍解を隠している。日番谷先遣隊として現世へ派遣され、破面と対峙した際は瀕死に追い込まれてやっと解放したものの、藍染惣右介と空座町での決戦で柱の守備を任された際は多くの目があったため最後まで卍解を使うことはなかった。この男は世界と剣八を天秤にかけて剣八を取ったのだ。世界がなければ何もないというのに、本当に馬鹿な男だ、と
なつめは思う。だが、だからこそ一角の言葉には説得力があった。
「お前は弱くなんかはねえが、そうやって自分のことを弱いと思える内はお前はもっと強くなれる証拠だ」
優しく慰めるような一角の低い声が心地良く、自分の泣き声で邪魔したくないと思ったが
なつめは抑えられなかった。
きっとこの先、剣八と自分が天秤にかけられてしまう瞬間はあるだろう。一角は剣八を勿論選ぶだろうが、自分のことも絶対に捨てたりはしない。一角ならば、そんな天秤なんかはぶっ壊し、どんな状況でも両方を手に取るはずだ。あの男から文字どおり身体中を傷だらけにしてまで、自分を護り抜いてくれたように。
一角の曇り空を晴らすような目と声にはそう確信させるようなものがあった。
「だからもう泣くんじゃねえ」
「うん、っ……うん……っ」
涙を流しながら、
なつめは何度も何度も頷いた。
いつの間にか、
なつめの体の震えは収まっていることに一角は気付く。安心したように体から力を抜き、自分の胸に抱かれている
なつめの姿がたまらなく愛おしかった。あれだけ拒まれることを恐れていたというのに、自分を拒まないと分かるとこうして胸に抱いて──我ながら現金な奴だと思った。
強く抱き締めていた腕を緩め、
なつめの柔らかい頬へ手を添えた。止まない涙を親指の腹で拭う。拭っても拭っても、
なつめが瞬きするたびに溜まった涙が雫となって頬を伝う。
「泣くなって言ってんだろ」
言葉は荒っぽいが酷く優しい声だった。頬に優しく添えられている一角の手のひらも相まって、余計に
なつめは涙が溢れた。
「だっ、て……っ」
蛍光灯の光りを浴びて、きらきらと輝く涙がまるで宝石のようだと一角は思った。それはきっと、もう悲しみからくる涙ではなく喜びからくる涙だと理解していたから。
涙を流しながら鼻をスン、スンと啜る
なつめの泣き顔が可愛いとか、綺麗だとか思うなんて自分も相当末期だと、頭に剣八を思い浮かべながら思った。
愛を知り、愛を理解した剣八の
優紫への態度を初めて目の当たりにした時は驚いた。それまでたった一人をあそこまで真剣に愛したことがない一角は、愛はここまで人を変えるのかと不思議に思った。幸せそうに笑う二人を見て、それはきっと良いものなのだろうとは思ったが、そこには一体何があるのかをあの時の一角は考えたくはなかった。知りたくなかった。それを知った時、過去の自分に責められるような気さえした。自分が信じ、貫いたものたちが変わってしまうのが怖かった。
だが、今自分の胸にある温かなものが穏やかな気持ちにしてくれている。目が合うだけでも、笑顔を向けてくれるだけでも、名前を呼んでくれるだけでも、触れてくれるだけでも、とんでもなく大きな幸福感に包まれる。
なつめも同じ気持ちだったら、と考えるだけでどんな美味い酒よりも気持ち良く酔えそうだった。
(……恋をする、というのも悪くはねえもんだな)
自分の言葉に笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったりする姿を見るたびに強敵と対峙した時とは違う喜びが溢れてくる。自分の行動一つで感情を動かしてくれる彼女が愛おしい。
「
なつめ」
名前を呼ばれた
なつめは丸い瞳に一角が写す。一角の瞳にもまた
なつめが写る。互いの心臓がどくりと大きく跳ね、どくどくと鼓動が速くなっていく。二人は時が止まったかのような感覚を覚えた。はらり、はらりと
なつめの涙がゆっくり流れる。
「好きだ」
どうすれば泣き止むだろうか、一角がそう考え込むより先にその言葉が飛び出した。
なぜ、その言葉を言えば泣き止むと思ったのかは一角自身も分からなかった。
なつめは一角の言葉にゆっくり目を見張る。
「……」
幸せそうに笑う周りの人々を見るたびに思っていた。
たった一人で良い。何も持っていない自分も誰かと共に生きたい。
誰かの特別になりたい。
自分のことを好きになれるぐらい、深く、深く愛されたい。
「……あたしも、……あたしも一角のことが好き」
なつめは丸くした目を、またゆっくり細めて泣きながら朗らかに笑った。
自分を優しく溶かしていくような
なつめの言葉に応えるように一角は
なつめを強く抱き締めた。
「……悪かった」
一角は鼻をスンと鳴らしながら、小さく呟いた。
「今更、謝んないでよ」
なつめは一角の背へ手をまわし、ぽんぽんと優しく撫でた。すると一角の鼻がまたスンと鳴る。
「……一角、泣いてるの?」
「泣いてねえよ」
今度はスン、スンと鼻が二回鳴る。
なつめは一角の腕の中でもぞもぞと体を捩った。
「おい、やめろ。覗こうとすんじゃねえ」
「泣いてないなら良いじゃん」
もぞもぞと動き続ける
なつめを拘束するために腕の力を軽く強めたが、目覚めたばかりの
なつめを無理させたいわけではない一角が折れて腕の力を弱めた。体が自由になった
なつめは自分から顔を逸らしている一角の顔を覗き込む。顔を隠す一角だったが、
なつめは目元から顎へと伸びる涙の跡を見逃さなかった。
「泣くんじゃねえ!」
なつめは目を少し細めて、両手の人差し指で目尻を釣り上げると眉間に皺を寄せて少し低い声で一角へ向かって言った。
「……それ、俺の真似かよ」
「うん」
一角が軽く額を小突くと明るい声で楽しそうに笑う
なつめには、もう涙はなかった。
「ブッサイクな顔だな」
「ひどっ! 一角より一の字に相応しいイケメンな顔してると思うけど」
なつめなそう言いながら人差し指でさらに目尻を釣り上げた。一角も頬を緩ませて笑っているのを見て、
なつめはますます笑顔になった。
ふいに一角の顔が近付き、一角の顔で視界が塞がれた。唇に柔らかな感触を感じたかと思うと、すぐにその感触はなくなる。そして、一角の顔が離れていく。
なつめは状況が理解できずにそのまま固まった。そしてゆっくり顔を赤く染め、目元から指を離し、両手で口元を覆った。
「……今、ちゅーした?」
「……」
「……ちゅーしたよね?」
「した」
顔を真っ赤に染めていたかと思うと、今度は真っ青になっていく。一角はその様子をベッドへ片足を上げて半胡座をかき、そこに頬杖をついて眺めた。
「えっ!? 何で今するの!? あたし、変な顔してたのに!」
「自分でイケメンって言ってだろ」
「い、言ったけど……! やだ、やだ! 初キスがあんなブサイクな顔とかやだ! 急いで記換神機持ってきて!」
なつめは一角の襟元を掴んで一角の体を揺らす。
「持ってきたところであれは対人間用で俺ら死神には効き目ねえよ」
「何でそんな使えないもの作るの!」
「知るかッ!」
「一角のバカ! ハゲ!」
「ハゲは関係ねェだろ!」
「うるさい! ハゲ!」
「ハゲじゃねェって言ってんだろ!」
「ハゲだもん! やだやだ、もう一回ちゅーして! ねえ、ねえ!」
「だァーッ! うるせェ! 分かったから大人しくしてろッ!」
一角が大声を張ると一角の体を揺さぶっていた
なつめはやっと手を止めた。その手を一角は片方を手に取り、指を絡める。眉毛を大きく動かして
なつめに言い返していた一角の表情とは打って変わって、真剣な表情に
なつめの心臓が大きく跳ねた。顔に熱が集まっていき、思わず目を逸らした。
もう片方の手を
なつめの顔へと伸ばし、頬を撫でた。ピクリと小さく
なつめの肩が揺れるが、怖がっているようには見えなかった一角は、そのままフェイスラインへ指をそっとそわせて耳に触れる。ぞわぞわ、と甘い感覚が
なつめを襲い、思わず体を縮こまらせた。耳の形をなぞるように親指の腹で撫で、耳朶を柔らかく揉んで感触を楽しむ。
「ねえ……一角、何……してんの?」
「あァ? 雰囲気作りしてやってんだろうが。接吻したらしたで、今度はムードがねえって言うだろ、お前は」
「い、言わない、もんっ!」
「どうだかなァ」
「ね、え……くすぐったい、から、っ」
なつめは一角の腕に制止するように手を触れるが、強く拒否するような素振りは見せない。顔を真っ赤に染めて、恥ずかしそうに小さく体をぴくぴくと震わせている。
なつめの初めて見る反応に一角はまじまじと見つめてしまい、口角がじわじわと上がった。
「
なつめ」
一角が名前を呼ぶと、
なつめは逸らしていた目をゆっくり一角へと合わせた。
数秒、二人は見つめ合う。
一角が顔をゆっくり寄せていく。息がかかるほどの距離になった時、お互いが瞼を閉じた。
──どうか思い出したくない記憶がどこかへ消えていきますように。
二人は互いにそう願いながら心をひとつに重ねるように、ゆっくりと唇をもう一度合わせた。
続
【明明白白】
はっきりしており、全く疑いの余地がないこと。