散々な目に遭ってしまった。
一角が技局に頼んでいた義歯の受け取りを代わりに行くと言ってしまったのが運の尽きだった。
今日は二月二十二日。
猫の鳴き声である『にゃん、にゃん、にゃん』の語呂合わせで現世では『猫の日』なんて呼ばれているらしい。本当は一角のお遣いなんて二の次で、「そんな面白くて楽しそうな日だから何か猫関連のイタズラができる秘密道具が貰えないかなあ~!」というのが目的だった。だって、ツルツルの頭に猫耳が生えた一角が最高に面白そうなのが悪い。
技局へ行くと、副隊長のネムさんが待ち構えていた。
鬼がどこにいるか聞いてみると、「斑目三席の義歯は今、阿近三席がご用意していますのでこちらで少々お待ち下さい」と待合室のような部屋へ通され、椅子へ座るように促された。「お待ちになっている間にこちらをどうぞ」とお茶も出してくれた。ちょうど良い温かさだったお茶をあたしは何の躊躇いもなく、グイッと飲み干した。するとその瞬間、何処からともなく、『ボンッ!』とコミカルな音が聞こえて辺りが白い煙に包まれた。火事だと思って慌てていると急に網を被せられて、体が宙に浮いた。一体何事かと更に慌てふためいていると、煙が晴れた目の前には真顔のネムさん。
「ネムさん、なにごと!?」と叫んだあたしの言葉は聞こえてこず、その代わりに可愛い可愛い猫の鳴き声が響いた。冷静になってみると、お尻の上あたりに、何かふわふわとした違和感がある。そうまるで動物のしっぽのような──
技局で出された飲食物を迂闊に口へ入れてはいけない。
護廷十三隊に所属する死神の共通認識をうっかり忘れていた。嫌な予感がして、自分の手のひらを見てみると視界に映ったのは人の手ではなく、プニプニの可愛い肉球。
(は、嵌められた……)
その言葉が頭に浮かんだあたしは全力で暴れた。何とかしてネムさんの手から逃れ、体に絡みついてしまった網を気にする暇なんてなく、猛ダッシュで技術開発局を飛び出した。
俊敏に追ってくるネムさんを巻き、あたしはようやく十一番隊舎へ帰って来られた。あのままでは涅隊長の実験体になってしまうところだった。
命は助かったものの、これからどうすれば良いのか。大人しく待っていれば元の姿に戻るのかどうかも分からない。
一角や弓親に助けを求めようと思ったが、「にゃー」しか喋れない今のあたしには何も説明ができない。できたところでこの姿を馬鹿して、笑い者にされてしまうだろう。副隊長は好き勝手に扱われてしまって悲惨なことになる。隊長は猫相手に斬りかかってくることはないだろうけど、多分一番当てにならない。ひとまず誰にも見つからないためにあたしは庭にある木へ登った。
一人で何とかしなくては、と体に絡まった網を取ろうと前足で頑張るが余計に網は体に絡まっていく。水気を飛ばすように体を振っても取れない。
『あー! もう! これどうなってんのー!』
怒りが込み上げてきて叫ぶが、もちろん口から出てくる言葉は全部「にゃ」だ。
自由気ままに生きている猫を見て、「いいな……」と思ったことを全力で否定したい。今のところ良いところなんて何一つない。
『もう! 取れないー!』
ヤケになって大きな声で叫ぶと悲痛な猫の鳴き声が辺りに響き渡った。
「お前、そこで何やってんだ」
突然、聞き慣れた声が聞こえた。その声は、あたしに向かって投げかけられているように聞こえる。大きな声を上げてしまったせいで、存在を知られてしまったらしい。
『……?』
見下ろすと木の下には一角がいた。
「お前だよ、お前」
『……』
「そこのお前」
『……』
こちらを見上げている一角としっかり目が合っている。
(み、見つかった……)
また冷や汗がダラダラ垂れてくる。
「その網、取ってやるから降りてこいよ」
『……』
「何だァ? お前ェ、猫のくせにそこから降りられなくなったのか?」
早くどこか行って、と願いながら縮こまっていると一角は鼻で笑いながらそう言った。
「鈍臭ェ猫だな。
なつめと良い勝負じゃねェか」
『鈍臭くないもん!』
いつものように言い返すが、もちろん全て「にゃ」へ変換されてしまう。
どうやら、一角は猫があたしだって気付いてない。それもそうか。あたしは一見、ただの猫だし。これで一発でバレたらバレたで恐ろしい。
「おら、俺が受け止めてやるから飛び降りてみろ」
一角はあたしへ向かって両手を広げる。
『……』
お言葉に甘えて、網から助けてもらったら一角の前から立ち去れば良い。そして身体が元に戻るまで隊舎の床下とか目につかない場所へ身を隠す。時間経過で戻らなかったら、こっそり技局へ忍び込んで
鬼に接触する。それで誰にもバレずに済むはず。
頭で計画を練り終えた後に、あたしは一角の腕の中をめがけて木から飛び降りた。
「よっ、と……」
一角は言葉通りちゃんと受け止めてくれた。がっちりとしっかり抱きかかえられ、安心感に包まれる。小さな猫になったせいでよけいに一角の腕が逞しく感じてしまう。
「やればできるじゃねェか」
あたしが怖くて降りられないと思っている一角は口角を上げて、目を細めながら笑った。小さい子供を褒めるように大きな手で頭も撫でられる。普段はガサツだと思っていたのに、その手つきが妙に優しくて胸がドキリと跳ねた。
(心臓が……ぎゅっ、ってなった……?)
戸惑っていると、両脇に手を入れられ、抱き上げられた。
「おー。お前、雌か」
『ちょっと! バカ! どこ見てんの!?』
一角はあたしのお腹をまじまじと見て、そんなことを言った。
あたしが本当のただの猫だったとしても、出合頭に大事なところを見て、性別を直接目で確認するのは失礼すぎる。
『変態! そんなところ見ないでってば!』
自由が効く後ろ足をばたつかせると、体を丸め込むように抱き直された。
「おっと……その網、取ってやるから暴れんな」
『暴れさせるようなことしたのそっちでしょ!?』
「取って欲しいんだろ? じっとしてろ」
あたしを宥めるように言った後に、一角は優しい手つきで網からあたしを解放していく。
「良い子だな……そのまま大人しくしとけよ?」
『……』
今までこんなに優しい声色で言葉を投げ掛けられたことも、扱われたこともない。
さっきはセクハラしてきたのに、こんなに突然優しくされると調子が狂う。
どくん、どくん、と胸が跳ね続けて落ち着かない。
「……ほら、もう良いぞ」
あたしではどうにも出来なかった網を一角はいとも簡単に取った。流石人間様。いや、死神様か。
しょうもない一人突っ込みをしていると、一角に右前足を持ち上げられる。
「ここ怪我してんな」
一角にそう言われ、自分の右前足へ目を落とす。ネムさんから逃げる時か、木の上で網から逃げ出そうと苦戦していた時に負ったのかは分からないが、茶色い毛に赤い血がじんわり滲んでいた。
一角はあたしを抱きかかえたまま、隊舎の縁側へと向かう。あたしを片手で抱きかかえ、脇に挟んでいた鬼灯丸をまず縁側へ置いた。そして一角は腰を下ろし、膝の上にあたしを座らせる。筋肉質だけど、なかなか座り心地の良い膝だった。
「もう少し大人しくしてろよ?」
一角は鬼灯丸の柄に詰められている血止め薬を指先に取る。それをあたしの右前足へと塗った。その手つきも、傷口を刺激しないように優しくて心がそわつく。
「舐めんなよ」
血止め薬を塗り終えた一角の手が離れ、そこへじっと目を落としていると頭を撫でながらそんなことを言われた。
『舐めるわけないじゃん』
「おー、分かった分かった」
ついいつもの癖で言い返すと、一角から言葉が返ってきて会話が成立した。
あたしはその事実に驚き、どぎまぎしているが一角は平静に鬼灯丸の柄に蓋をしている。
『……聞こえてるの?』
「なんだよ。そんな声で鳴かれても飯は持ってねえぞ」
(なんだ、やっぱり聞こえてないのか……)
恐る恐る聞いてみたが、拍子抜けだった。どうやら適当に言葉を返してくれているらしい。心配して損をした。肩を落として、ため息をつく。いや、安心しているなら胸を撫でおろすべきだった。おかしい。
「お前、何て名前だ?」
『そんなこと言われても猫が答えられるわけないじゃん』
「名前がねえなら"一太郎"はどうだ?」
『さっき、あたしが雌なの確認してたよね?』
「おー、気に入ったか」
『気に入ってません! あたしは
なつめっていう可愛い名前があるの!』
「そうだろ、そうだろ。良い名前だろ」
投げかける言葉に猫が「にゃー」と鳴いて返事をしているのが楽しいのか、一角は呑気に笑いながらあたしの頭を撫でている。名づけられた名前を気に食わないが、頭を撫でられるのは何か落ち着く。
それにしても一角は動物に優しくて、話しかけて会話するような人だったのは意外だ。戦うことが何より好きなくせに義理人情に厚い一角は、動物に対しても情が厚いらしい。
てっきりぞんざいに扱われると思っていた。だって、動物に世話をするように見えなかったし。だから見つかりたくなかった。
でも、それはどうやらあたしの誤解だったらしい。猫にならなければ気付けなかった。そう思うと、猫になれて良かったのかもしれない。
そんなことを考えながら一角を凝視すると、一角は口角を上げて笑いながら首を傾げた。
「ん? どうした?」
『……』
目を細め、眉間の皺も普段より薄くなっている。信じられないほど、優しい笑顔だ。こんな顔できることも知らなかった。
『ごめんね……ありがとう……』
口からはやはり「にゃー」しか出てこない。これではまた、チグハグな言葉が返ってくるはずだ。
どうすれば伝わるだろうか。
思い当たったのが一角の手を舐める行為だった。今のあたしは猫だし、何もおかしなことではない。
そう何度も自分に言い聞かせながら、一角の手へ顔を寄せる。ゆっくり、舌を出してぺろりと遠慮がちに舐めてみた。ざらざらした猫の舌が、皮膚に少し引っ掛かる感覚。
(痛かった……かな……?)
一角を見上げると、ふっと口を緩ませて笑った。
「……礼してくれてんのか?」
『そうだよ。……ありがとう』
「おう、気にすんな」
一角はあたしを撫でながら、歯を見せて笑う。優しい笑顔だったり、無邪気さを感じる笑顔だったり、いろんな表情に心臓がどんどん駆け足になる。きっと、見てはいけないものを見てしまったから心臓がビックリしているんだろう。そうやって、自分を落ち着かせた。
だが、次は高揚感がどんどん溢れてくる。気持ちが伝わるって、こんなに嬉しいことだったんだ。だから、ついもう一度一角の手を舐めてしまった。
その瞬間、『ボンッ!』と例のあの音が聞こえ、煙に包まれた。
突然のことに呆気に取られていると、煙が晴れて面食らった一角の顔が目の前に現れる。
「……」
「……」
お互い言葉を失い、目を見合わせて固まってしまう。
「一角、今月の経費についてなんだけど——」
運悪く、そこへ弓親もやって来てしまった。手に持っていた書類へ目を落としながら歩いていた弓親の目は、ゆっくりあたしたちへと移った。そして同じように言葉を失う。
「……」
「……」
「……」
運良く死覇装は身にまとったままだったが、あたしは一角の膝に座っている。
弓親は数秒固まった後に、瞬きを三回繰り返し、にやついた顔で口を開いた。
「——ごめん。お取込み中みたいだね。出直すよ」
「ま、待って! 弓親、誤解だって! 違うの!」
「よろしくするなら、せめて人目がつかないところにしなよー」
「違うんだってば! 変なこと言わないで!」
呼び止めるのも虚しく、弓親はくるりとあたしたちへ背を向けると来た道を戻っていく。
「てめェ……
なつめ、騙しやがったな……」
一角は顔を真っ赤にして茹蛸になりながら、わなわなと震えている。
「どういうつもりだァ?」
「だから! ち、違うって!」
「また阿近とグルか?」
「違うの! あたしが騙されたの! 見たでしょ!? 網でぐるぐる巻きになってるの!」
「知るかッ! 助けてやってる時も腹ン中で笑ってやがっただろ!?」
「だから何でそうなるの! 笑ってないってば! 被害妄想やめて! 確かに始めは一角のツルツル頭に猫耳を生やしてやろうと思ったけど! あ、やっば……」
「やっぱり俺を嵌めようとしてんじゃねェか!」
あたしの弁解は通らず、結局げんこつが落ちてきたのだった。
人にも動物にも情が厚いなんて嘘。やっぱり一角は血も涙もない男だ。次こそ絶対にこの寂しい頭に猫耳を生やしてやる。
「どうやら反省してねェようだなァ?」
ヒリヒリと痛む頭を抑えながら、恨みを込めて睨みつけているとより鋭い視線が返ってくる。
「身もふたもないこと言わないで!」
「じゃあ、その目はなんだよ? 一矢報いりてェような目してんじゃねェか」
「さあ〜、気のせいじゃないですかね……」
慌ててあたしは目を逸らし、一角へ背を向けて逃げた。すかさず一角はあたしを追いかけてくる。
「なんで追いかけてくるの!」
「テメェが逃げるからだろうがッ!」
鬼の形相の一角に捕らえられ、あたしの頭にはげんこつが落ちてきた。
やっぱり猫になっても良いことなんて何一つなかった。
終