(剣八夢主についての話がほんの少し出てきます。) 磨りガラスから光がもれている玄関戸を開き、「帰ったぞー」と腹に力を入れて声を張る。上り框に腰を下ろし、草履を脱いでいると部屋の中から軽快な足音が近付いてくる。
「おっかえりー!」
声を大きく弾ませた
なつめに背後から抱き付かれたかと思うと、間髪を入れずに俺の視界が紫色に染まった。
「見てみてー!」
「近付け過ぎたら何も見えねえだろ……」
目の前にある紫色を適当に掴むと、それは綺麗な球体で手のひらにすっぽりとおさまった。蹴鞠まで大きくはないが、あれの半分程の大きさだろうか。
「まんまる茄子! 丸くて可愛いかったから買っちゃった!」
自分の手のひらにある紫色は確かに自分がよく知っている茄子がずんぐり太ったような見た目をしている。
茄子といえば長細い印象が強いが、こんなに丸いのもあるのか。
「……お前、茄子食えねえだろ」
「茄子は苦手だけど、この丸い茄子は普通の茄子より煮崩れしにくくて、茄子のあのトロッとしたのが苦手な人でも食べやすいって姐さんが言ってたから挑戦しようと思って……!」
なつめは書き記して用意していた弁解の言葉を読み上げるように早口で並べた。俺が突っ込んでくることは想定済みだったらしい。確かに
なつめは、ドロドロに溶けてしまった茄子が気持ち悪いと顔を顰めながら言っていたことがある。この丸茄子にその特性がないなら、食べられるのかもしれない。だが、茄子を嫌がる
なつめの様子は妙に面白かったのを覚えている。匙で掬った茄子を
なつめの口元は近付けてみたが、頑なに口を開かなかった。俺が動かす匙を避けるようにあちらこちらへと動く唇が何かの生き物のように見えて、腹を抱えて笑った。
「それで、この丸茄子で何作るんだ」
遠くに行きかけていた思考を引き返し、
なつめへ尋ねる。
待ってました、と言わんばかりの表情で胸を張って話し始めた。
「ザクっと輪切りにしたのをステーキみたいに焼いて、上にチーズ乗せてピザみたいにするのが美味しいんだって! 姐さんに教えて貰ったの!」
なつめは俺が持っている茄子を手包丁で切る仕草をした後に、人差し指と親指を擦り合わせてチーズを振りかけるような仕草をしながら楽しそうに話している。
「味噌マヨチーズを乗せて焼くのも美味しそうだったなあ〜……」
頭に思い描いている茄子料理に対して、今にも涎を垂らしそうな顔をしている
なつめ。
本当にこいつはいつも楽しそうにしている。
なつめがつくる空気感に気が付けばいつも疲労感がどこかへと消えて無くなってしまう。現に、今も頬が緩くなっている。
「それを作りたいんだけど……でも茄子と言えば麻婆茄子かと思いまして! それに挑戦します! ピザ茄子は明日作るね」
「そんなに茄子買ったのか」
「うん。安かったし、可愛かったから!」
「お前は可愛かったら何でも良いのかよ」
「女の子は可愛いものが大好きだからね。覚えておいたほう良いよ、テストに出るから」
「何のテストに出るんだよ」
「それは、
なつめちゃんキュンキュンテストに決まってるじゃん!」
「そんな意味わかんねえテストは0点で良い」
「えー、何でー」
不満そうにしている
なつめには一切触れずに丸茄子を
なつめへ返し、上り框から立ち上がる。
なつめを玄関に置いて居間へ向かおうとすると、
なつめが目の前に立ち塞がった。
「お風呂の用意してるから一角は先にお風呂に入ってて良いよ! 美味しい麻婆茄子作って待ってるから!」
俺の返答は待たずに意気揚々で気合十分な
なつめに背中を押されて風呂場へと連れて行かれた。
*
てっきり風呂へ見送られた時と同じ顔で出迎えられると思っていたが、俺の隣に座っている
なつめは項垂れ、今にも泣き出しそうな顔をしている。いや、もう泣いている。べそべそと。あんなに上機嫌だった
なつめはもういない。
まるで俺が説教をしているみたいじゃねえか。
そんな俺たちを座卓の上にある麻婆茄子がほくほくと湯気を立てながら見守っている。美味そうな匂いが部屋の中へ漂わせてくれているが──
「……」
「……」
「ごめん……失敗しました……」
「……」
その麻婆茄子は見るからに"ダマ"だらけだ。茄子に紛れて寒天のような塊が数多く浮いている。仕上げに入れられたであろう水溶き片栗粉の分量を間違えしまったらしい。
「こっ、これでも姐さんに応急処置の方法を教えてもらって、なんとか食べられそうな感じにはなったんだよね! やっぱり姐さんって何でも知っててすごいよね! 尊敬しちゃう!」
「……」
大きく口を開け、歯を見せながら笑って誤魔化そうとしている。
「せっかく仕事と鍛錬で頑張ってお疲れな一角にこんなの食べさせるのは申し訳ないから一角のほうはダマのところは、できるだけ避けて盛り付けさせていただきました……」
「……」
今度は俺の機嫌をとるように小物感を演じている。
「ご、ごめんなさい……! 今から別の料理作る! 茄子ピザのほうならこんなゼリーみたいにならないと思うし!」
ころころと表情が変わっていく
なつめの顔を眺めていると、最後に顔を青くした
なつめが勢い良く立ち上がって台所へ向かおうとした。
足を踏み出す前に腕を掴んで引き止める。
「食うから大人しくしてろ」
「でも……」
「良いから座ってろ」
「……はい」
唇を尖らせて居心地悪そうにしている
なつめを無理矢理座らせると、体を小さくして、しょぼくれている。
ダマが多いほうと少ないほうで分けられている皿。まあ、確かにこのダマが原因で食欲が減退するような見た目をしている。
なつめはダマが少ないほうが俺のだと言っていたが、俺はダマが多いほうの皿を手に取る。蓮華で少しかき混ぜてみると、とろみというより、若干の粘り気があった。そのまま食べ物を弄り続けるわけにもいかず、麻婆茄子を掬い上げて口に運ぶ。すると反射的に
なつめは俺の右腕を掴んだ。
「あ、待って! 一角のそっちじゃない!」
俺の口の中に入らないように阻止しようとするが、それを振り切って口の中へ含む。味は美味い。しっかり味付けされ、これはまごうごとなき麻婆茄子だ。しかし咀嚼すると、ダマのぶにっとした感覚と若干の粘り気が何とも言えなかった。
「そっち食べなくて良いよ!」
もう一度蓮華で掬い、口の中へ運ぶ。やはり味は美味いから、不味くはない。
「お前がそっち食え」
ダマが少なく、見た目が良いほうの皿を
なつめの前に持っていく。麻婆茄子を俺は着々と腹に収めていくが、
なつめは食べようとしない。
「無理しなくて良いって!」
「食わねえならそっちも俺が食うぞ」
「……あたしが失敗したのに、ひどいほうを一角に食べさせてるなんて……あたし最低じゃん」
「食わせてねえだろ。俺が自ら進んで勝手に食ってんだ」
そう言ってみるが、
なつめは納得していなさそうに眉を顰めて難しそうな顔で目の前に置いてある麻婆茄子に目を落としている。
「……じゃあ、お前も食うか?」
なつめが本来苦手な茄子の部分は少なく掬った蓮華を
なつめのほうへ近付けると、
なつめは顔を上げた。麻婆茄子を見つめていた瞳に俺が映る。
「……」
俺と目の前にある蓮華を交互に見つめている
なつめの表情は、少しだけ暗いものがなくなっているように見えた。
こんな何気ない
なつめの仕草だけで、どうしてこんなに胸が温かくなるんだろうか。
そんなことを自分へ問い掛けたところで、思い浮かぶ理由なんて一つしかない。
頬が緩んでしまいそうになる自分を堪えつつ、俺はじっと
なつめを見つめる。
素直に開く口。そこへ麻婆茄子を運ぶ。口を閉じ、静かに咀嚼した
なつめは小さく口を開いた。
「味は……美味しい、かも。……茄子も美味しいね」
「分かったなら、さっさと自分の分食えよ」
「……うん」
「心配すんな、ちゃんと美味えから」
「うん……」
頷いた
なつめは蓮華を手に取った。皿から麻婆茄子を掬い上げ、それを見つめている。その様子を眺めていりと、パッと目が合った。
「……食べる?」
つい先程の俺のように麻婆茄子が乗った蓮華を俺に近付けた。口を開くと、麻婆茄子が運ばれてくる。ダマが少ないだけ合って、こっちは食べやすい。
「ありがとう、一角……」
「おう」
「一角のそういうところ大好き」
「……おう」
遠慮がちにはにかんだ笑みを見せる
なつめ。
風呂から上がって暫く経つというのに、まるで熱い湯にのぼせたように全身が熱くなり、心拍が上がり、頭がぼうっとする。
俺は慌てて麻婆茄子を掻き込んだ。何かの冗談のように何とも言えない食感がある麻婆茄子のおかげで冷静さが戻ってくる。
「……でも、食べたくなかったら本当に無理して食べなくて良いんだよ? 死んじゃうかもしれないから!」
「死ぬか、これぐらいのことで」
俺がそう言うと短く声を上げて笑った
なつめも、ようやく麻婆茄子を食べ始めた。
その笑顔に俺の体は再びのぼせ始める。それを押さえ込むために、俺はまた麻婆茄子をせっせと口へ含んでいく。蓮華で皿をなぞり、最後の一口を集めて口へ運んだ。食い切れるか正直不安もあった麻婆茄子は綺麗さっぱりなくなってしまった。
「まあ、お前に殺されるなら本望かもな」
全て食べ終わった後に俺の口は、そんなことを口走っていた。
直後、しまったと思った。
こんな台詞、普段の自分なら絶対に口にはしない。それなのに、自分の感情に素直過ぎる
なつめにつられてつい心の中にあるものが簡単に口を突いて出てきてしまう。
「……」
蓮華を口は近付けていた
なつめは口を開いたまま驚いた顔で俺を見ている。
心臓がうるさい。このまま静まりそうにない。
剣を振るっているときには絶対に感じないこの感覚は俺の中で燻り続ける。
俺の皿にはもう麻婆茄子はない。
でも、それよりも、赤く染まる
なつめの顔を眺め続けているだけで、どうでも良くなってしまった。
どう冷ませば良いのか分からない熱は、どうやら
なつめへ移ってしまったらしい。
真っ赤に染めた顔で開きっぱなしだった
なつめの口は大きく弧を描く。
そんな
なつめに俺の熱はむしろもっと燃え上がり始めた。
終