「……え?」
今、自分が置かれている状況に目を疑ってしまう。
「温泉に行きたいって言ってただろうが」
少し面倒くさそうな表情でぶっきらぼうに言い放った一角は、あたしへ小さな長方形の紙を差し出している。その長方形には、“温泉旅行招待券”と書いてある。やはり現実が疑わしく思えてしまい、少し目を閉じて開いてみるが、それの姿形は変わらなかった。
「確かに言ったけど……」
滅却師との大戦後、大きく痛手を負った尸魂界の修繕に関する書類が日々舞い込んできていた。修繕計画書に費用の見積もり、資材申請、人員要請。苦手な数字の計算が多くあり、脳を疲弊させながら処理していく日々が続いた。
以前から、隊長も副隊長も書類仕事をまともにすることがなかった。一角が副隊長に席を置いても、下々のあたしたちが書類に追われるのは何も変わらなかった。ついに昨日、嫌気がさして筆をぽいっと宙に放り、「書類、書類ばっかりで疲れた! あ~! 温泉に行きた~い!」と叫んでしまった。飛び散った墨が弓親の顔に引っ掛かってしまい、とてつもなく尋常ではないほど怒られてしまったのは別の話。
「言ったけどさ、どうしたの? これ」
「貰った」
「誰に?」
「副隊長」
「副隊長に? いつ貰ったの?」
「去年」
短く返事を返し続ける一角に「十文字以上喋ったら頭が吹っ飛ぶような薬を飲まされたの?」と疑いたくなった。
話をまとめると、つまり一角があたしへ差し出しているこのペラペラの紙切れは副隊長の忘れ形見のようなもの、か。
去年これを副隊長から貰った一角は、おそらくすぐに存在を忘れてしまい、引き出しの奥深くに眠らせた。少し皺があり紙がそれを物語っている。その出来事を昨日のあたしの発言を聞いて、記憶の片隅から引っ張り出してきたのだろう。だからと言って、なぜ誘うのがあたしなんだ。
「弓親と行かないの?」
「あいつも貰った」
「じゃあ志乃ちゃん」
「休みが合わねえ」
一角の手にあるチケットを覗くと、有効期限は今月末だった。
「来週火曜日、お前休みだろ?」
あ、多分今のは十文字超えてる。
そんなことを考えながら、来週の自分の勤務を思い出す。一角の言う通り、火曜日は休み。そして、一角もそういえば休みだった。
「予定あんのか?」
返事をすぐに返さないあたしに一角は右の眉尻を上げながら、そう言った。
「ないけど、そんなに急に行って大丈夫なの? ここに要予約って書いてあるけど?」
「昨日、予約した」
「じゃあ、最初からあたしの拒否権ないじゃん……」
やけに用意周到な一角。相当、温泉に行きたいらしい。そりゃそうか、副隊長になってから毎日忙しそうにしているし。
「でも……」
一緒に行ってるところを誰かに見られたら、勘違いされちゃうかもよ?
というか、告白されて振った相手を温泉旅行に誘うってどういうこと?
口から飛び出しそうになった言葉をぐっと飲み込んだ。
折角、あたしを誘ってくれたのにその問いにあたしが期待する言葉が返ってこなければいたたまれない気持ちで温泉に浸かることになってしまう。
どうせなら、勘違いしたままでいたい。
「でも、なんだよ」
「……じゃあ、お願いします」
いつものように口調が荒っぽい一角。なぜか怒られているような気分になり、ぎこちなく頭を下げると一角は淡々と「後でまた話、詰めるぞ」と言い、副隊首室へ戻っていった。
*
一泊二日の温泉旅行。互いが休みである火曜日の前日──月曜日の勤務終わりに宿へ向かうことになった。
温泉宿は、貴族の別荘が多くあるリゾート地区にある。そこにある草木はすべて、腕の良い庭師が手入れしており、別荘や宿などの建築物は貴族の家屋の建築を手掛けてきた建築士が設計しているらしい。それ以上の貴族事情は、あたしには分からないが要するにどこを見ても風情があり、大絶景だった。現世のほうが文明は発展しているが、今あたしが見ているこの風景は現世にも全然負けていない。
日が落ち、辺りは暗闇に包まれているが、道なりに置いてある行燈が炎のような紅葉を優しく照らしている。地に落ちた紅葉が道を赤く染め上げ、思わず駆け出したくなった。風を切って走った後に、落ち葉の山の中に飛び込みたい。
「うっわぁ……すっごいねえ……」
「だな」
思わずもれたあたしの言葉に対して、一角からはあまり心がこもってないような返事が返ってきた。
こんななりをして、一角は名家出身だ。一角から実家の話を聞いたり、密に連絡を取り合ってる様子は見たことがないが、もしかしたら一角にとったらこういうのは見飽きた光景なのかもしれない。
「何? 坊ちゃんの一角にはこれが日常?」
「馬鹿にしてんのか、それは」
紅葉を眺めていた一角は、あたしへ視線を移してじろりと見つめた。
「なんか反応薄いんだもん」
「悪かったな」
適当な謝罪を聞きながら足元に目を落とす。美しい景色に夢心地になってしまうが、あたしの足は紅葉を踏み締めてしっかり地に立っている。
「でも、招待券を一年間眠らせてて良かったね」
「……なんでだよ」
「もちろん他の季節も綺麗だと思うけど、こんなに綺麗な紅葉を見たら秋が一番だって思わない?」
しゃがんで、紅葉を二つ拾い上げる。行燈の光に翳すと、より鮮やかな赤色へと変わった。葉脈も浮かび上がり、また違った顔を見せる。
「見てー、一角」
そう言いながら見上げると、既にこちらを見ていた一角と目が合った。
突然その場にしゃがみ込んで何かをし始めたあたしを観察していただけなのだろうが、心臓が嬉しそうに跳ねた。
「おそろーい」
紅葉を右手と左手でそれぞれ持ち、一角の目元の赤色を真似て目尻に当てて笑うと一角も眉間の皺を薄くさせて笑った。
左手に持っていた紅葉を一角に奪われ、葉の柄の部分を指先で摘んで持つと目の前でくるくると回していた。また小さく微笑むと、一角は歩き始めた。
「行くぞ。ただでさえ誰かのせいで残業になって遅れてんだからな」
「それはごめんって謝ったじゃん!」
今日は久しぶりにがっつり寝坊してしまった。だって、一角との一泊二日の旅行が控えていたから。正直昨日は中々寝付けなかった。
あたしの痛いところを突いてきた一角は、振り返ることなく宿に向かって歩き続ける。
「ねえ、まだ怒ってんの? 早く機嫌直しなよ」
あたしも急いで足を動かし、一角の隣に並んで軽く睨むと軽く小突かれてしまった。
*
副隊長がくれた招待券で予約すると露天風呂付き客室を用意してくれるらしいが、急な予約だったためにあたしたちに用意された客室には露天風呂はなかった。一角とあたしは一緒にお風呂に入るような仲ではないから、大浴場の温泉に入れれば正直、気にも止めてなかった。宿の女将さんは申し訳なさそうにしてたのは、きっとあたしたちの仲を勘違いしているのだろう。互いがそれぞれ同じように片手に紅葉を持っていれば誰だって勘違いしてしまうはずだ。改めて考えても幼稚すぎる。
夕飯の支度が整うまでの間にお風呂を済ませることとなり、「じゃあ、また後で」とあっさりした言葉を交わし、各々浴場へと向かった。一角と二人きりの旅行に緊張しつつも、待ち遠しかった温泉に胸が躍り、つい軽くスキップしてしまった。
残業が功を奏したのか、ピーク時間が過ぎた大浴場は人の姿がなかった。宿の浴場は瀞霊廷の共同浴場よりも大きく、唖然としてしまった。貴族はお風呂もあたしたちとスケールが違うらしい。それなのに、貸し切り状態だ。呑気に小躍りしてしまいそうなぐらい高揚感が溢れてきた。
まずは、ヒーヒーと悲鳴を上げながら書類仕事を頑張った自分を労いながら体を洗う。大きな浴場で体を洗うのは解放感があり、気持ち良い。鼻歌を歌いながら上機嫌に体を洗い終え、始めに一番大きな浴槽へ浸かった。少し温度が高めでとろとろとしたお湯が体の芯から温かくほぐしてくれて心が安らいだ。
しばらく、そのまま大きな浴槽で体を温めた後に、ほかにどんな温泉があるのかと大きな浴場をぐるりと周る。すると、混浴の露天風呂へ繋がる扉があった。扉にある小さな窓を覗くと大きな紅葉の木と白い湯けむりが立つ露天風呂が見えた。大浴場と同じようにここにも人影は見えなかった。扉には指紋認証のパネルがある。これで互いの侵入を防いでいるらしい。古き良き風情がある中に、それは異質さがあった。これは技術開発局が開発しているんだろうか。そんなことを考えながら、パネルに手のひらを翳す。パネルが緑色に光り、手のひらがスキャンされ、ガチャと解錠される音が響いた。重い扉を押して、中を覗き込む。やはり誰もいないようだった、こんな綺麗な空間も独り占めだ。小走りで露天風呂へ向かい、ゆっくり湯舟へ浸かる。「あ~……」と情けない声がもれてしまうほど、秋風に優しく吹かれながら浸かる温泉は極楽だった。
元はあたしの発言からとは言え、一角に誘われたときは「なんで、あたしと一角が一緒に温泉?」なんて思ったが、ここに来られて良かった。でもこんな貴族御用達の温泉地なんて、あの招待券がなければとんでもない額のお金が必要になりそうだ。一体あたしの給料、何か月分なんだろうか。想像するだけでゾッとする。
「……
なつめか?」
聞きなれた声が聞こえ、振り返ると腰に白いタオルを巻いた一角が立っていた。
「い、い、い……一角……!? 何でここに……!?」
「何でって、ここは混浴だろうが」
「……そ、そうだった」
不意打ちの一角の登場に全身がビクリと体が震えた。癒される空間にここが混浴だと忘れてしまい、そんな疑問をぶつけてしまった。
一緒にこの旅館に来て、同じ部屋に泊まるとはいえ、付き合ってもないのに混浴に一緒に入るのは流石におかしい。おかしすぎる。女湯のほうに戻ろうと立ち上がろうとするが、体を隠すためのタオルがない。ほぼ貸し切り状態の浴場だったから、脱衣所に置いてきてしまった。慌てて一角に背を向け、顎あたりまで湯舟に浸かった。にごり湯のおかげで湯から出さえしなければ裸体を晒すことはない。一角は何も言わず、あたしから離れた場所で湯舟に浸かった。
そこから特に会話を交わすことなく、お湯が流れる音と風に吹かれて木々が優しく揺れる音だけがしばらく流れた。
(……気まずい)
いつもそんなことは滅多に考えたりしないが、互いに肌を晒しているからだろうか。異様な緊張感がこみ上げてくる。口を結んでいる一角は、いつもと変わらないように見え、少し悔しく思った。
「……夕飯、何だろうね」
話しかけてみると景色を眺めていた一角が、ちらりとこちらを見て、すぐに景色に目線を戻した。
「遅れるって電話をいれたときは、牛鍋って言ってたぞ。ここは牛鍋が有名らしいな」
「嘘、牛鍋!? やった! 今日、仕事中にお菓子食べるの我慢してて良かった~!」
「我慢できてなかっただろ。煎餅一枚食ってたの見たからな」
「たった一枚でお菓子食べたって言わないもん」
「そーかよ」
一角は呆れたような顔で言い捨てた。気まずいと思っていたが、思っていたより普通にいつものように会話ができた。それだけのことがなぜかとても嬉しかった。
「ねえ、一角」
「なんだ」
目を合わせずに一角は返事をした。きっとあたしを気遣ってくれているのだろう。
「息抜きできてる?」
「……」
何も言わず、一角は頷いた。
「良かった。……あんまり頑張りすぎないでね。弓親のほうが頼りになるかもしれないけど、あたしもできることあれば手伝うから」
「……これからも十一番隊にいるってことか?」
「え? そうだけど、なんで?」
「二番隊と八番隊から異動の声がかかってんだろ?」
「なんで一角が知ってんの?」
「馬鹿か、俺は副隊長だぞ」
一週間前——ちょうど、一角から温泉旅行の誘いを受ける前日だった。その日、珍しく隊長に呼び出され、なんの話を切り出されるのかと思えば、二番隊の砕蜂隊長と八番隊の矢胴丸隊長があたしを副隊長に、と推薦しているという話だった。副隊長が空席の八番隊ならまだ分かるが、副隊長が現役な二番隊から声がかかるのは意味が分からない。だが、砕蜂隊長は以前からあたしの白打の実力を買ってくれており、二番隊への異動をよく誘われていた。何が理由で矢胴丸隊長が副隊長なんて似合わないあたしに白羽の矢を立てたのかは分からないが、その話を聞いた砕蜂隊長が同じように声を上げたのだろう。大前田副隊長にまた嫌われてしまう。まあ、どうでもいいけど。
「あれね、正直八番隊のほうはどうしようかなって悩んだけど……断るつもり。副隊長とか隊長を目指して、死神やってるわけじゃないし、あたしより適任がいるだろうしね」
一角は少し間を置き、「ふうん」と自分から聞いてきた癖に興味がない素振りで返事を返してきた。
*
お風呂でしっかり疲れを癒し、牛鍋で空腹を満たした。口の中でとろける牛肉なんて初めて食べた。箸が止まらず、お腹がはちきれるまで食べてしまった。一角も同じようにたらふく食べ、美味しいお酒も飲めて上機嫌だった。
部屋に戻ると布団の準備がしてあり、二人分の布団がぴったりくっ付いて敷かれてある。やっぱり勘違いされている。
(さすがに、少し離したほうが良いよね……?)
一角に視線を送るが真っ直ぐ布団へと歩き、胡座をかいて座った。自分も同じように一角の隣の布団へ歩き、腰を下ろすが、一角からは何も言葉はなかった。ただ眠るだけなのに妙に緊張してしまう。頭に浮かんでいることを消すように慌てた口を開く。
「あ、あ、明日さ! 来るときに見た天ぷら屋さんでご飯食べて帰ろうよ」
「さっき夕飯食ったのにもう飯の話かよ」
「だって食べたかったんだもん」
「お前、本当に花より団子だな」
「そんなことないもん。紅葉とか温泉だってちゃんと楽しんでましたー」
「飯食ってるときが一番イイ顔してたぞ」
「別に良いじゃん! 牛肉美味しかったんだもん! 一切れがあんなに大きくて綺麗な牛肉初めてだったんだもん!」
表情をいちいち確認されていた事実が恥ずかしく、布団に体を投げ、枕に顔をうずめる。ふわふわとしていて、気持ち良い。これも貴族仕様らしい。
温泉で体をほぐし、高級料理で胃袋を満たし、さらに体を優しく包み込んでくれる布団。
ゆっくり、ゆっくり思考が止まっていく。
「──なあ、
なつめ」
一角の言葉が聞こえたが落ちてくる瞼を持ち上げることはかなわず、もう睡魔に抗えなかった。
「……」
「……んだよ、もう寝たのかよ」
ぼやいている声が手も届かないほど遠くで聞こえた。
明日、何を話そうとしてくれたか聞いたら教えてくれるかな?
きっと、「忘れた」って言うんだろうな。
終