今年の慰安旅行は現世の海だった。四番隊、十番隊、十三番隊と合同の慰安旅行。つかぬ間の休息を得ることができる慰安旅行をあたしは毎年楽しみにしている。「いっぱい息抜きするぞ~!」なんて言ってると「
なつめはいつも休息を取ってるようなものでしょ」と半眼の弓親に突っ込まれてしまった。
そんなこんなあって、慰安旅行の当日。今、あたしの眼前には現実を忘れさせてくれるほど青く澄んだ空と、その空を映したかのように清々しく晴れ渡っている海。ギラギラと肌を焼く強い太陽の光が水面に反射し、まるで宝石のようにキラキラと輝く。その空と海を彷彿させるような水色の水着を身に着けたあたしの心は具現化してしまいそうなほど、ウキウキと飛び跳ねている。現実を忘れさせてくれる理想の夏を切り取ったような景色に、一角の赤色の褌がよく映える——わけがない。
「ねえ。いい加減その褌やめてよ」
傍から見れば罰ゲームのようなものなのに一角は恥ずかしがる素振りを一切見せず、堂々と赤い褌を身に付けて腕を組んで砂浜に立っている。過去にも何度か慰安旅行で海に訪れたことはある。その時も必ず一角は赤い褌を水着として身に付けていた。
「男は黙って褌だろうが」
口角を上げ、白い歯を見せながら得意げに一角は言う。初めて一角のこの姿を見て「え? なんで褌なの?」と聞いた時も同じことを言っていた。今と全く同じ顔で。
「普段、褌を履くのは別に良いけど、海では黙って水着でしょ」
この男は何事にも一貫した意思を持っている。一角が敬意と憧れを持っている隊長が褌を水着としているならば千歩譲って理解できるが、隊長はちゃんと男性用の水着を使用している。ああ見えて、隊長は意外と常識人だったりする。でも、こういう強い芯があるところがこの男の魅力なのだろう。
「まあ、そんなことどうでも良いや!」
「お前から話、振ってきたくせにどうでも良いとは何だ。おい」
「よーし! ビーチバレーするぞ~! 志乃ちゃんたち誘ってくるね!」
「まだやるとは一言も言ってねェぞ! 聞いてんのかッ!」
一角の同意を得る前にあたしは志乃ちゃんの元へと駆ける。あたしの誘いに了承してくれた志乃ちゃんの手を引き、一角の元へと戻った。ビーチバレーの誘いに合意はしていなかったが、一角は一歩もそこを動かずに律儀にあたしの帰りを待っていた。そして本人は全然気にしてなさそうだけど目を引く赤い褌のせいか、一角は周りから興味の目で見られている。
「いっかくー! 志乃ちゃん、連れてきたよ~! あたしと志乃ちゃんチームと一角チームね!」
「一人じゃチームって言えねェだろうが。弓親はどうした、弓親は」
「弓親が来るわけないじゃん」
弓親はこういう遊びには参加しないと分かってはいたけど一応誘った。もちろん断られた。今までも「肌を焼きたくない」と言い、何が楽しいのか分からないがいつも日陰で寛いでいた。
「チッ……そういう奴だったな、あいつは……」
一角は呆れたように呟いた。
「
なつめさん。あたし、誰か誘って来ましょうか?」
「大丈夫、大丈夫! 一角なら一対二ぐらい余裕でしょ? なんて言ったって、あの更木隊副隊長だもんね! こんなことで文句言うほど小さい男でもないもんね! え? まさか『卑怯』だとか思ってるの? 女の子二人に負けちゃう程、自分に自信ないんだ~! そっか~!」
煽るようなことを言えば、すぐに一角は青筋を立てた。相変わらず扱いやすくて、助かる。
「上等だァ……やってやろうじゃねェか……。後でピーピー泣いても知らねェからなァ?」
眉間の皺を深く刻み、口角を高く釣り上げて笑う一角。その顔に思わずゾクッと体が震え、自分もしっかり十一番隊の血が流れているのを改めて自覚した。
「一角こそ土下座したって途中で止めてあげないからね」
「言ってくれるじゃねェか」
一角は挑発的に笑いながら指の関節を鳴らし凄んでおり、その瞳にはどこか楽しそうな嬉々とした光が宿っている。あたしの言葉にますますその気になったようだ。義骸に入っていても伝わってくる一角の愉しそうに揺れる霊圧にあたしの霊圧も反応して揺れる。
「あれ……今からするのってビーチバレーだよね……?」
志乃ちゃんはそんなあたしたちを少しだけ冷めた目で見ているのだった。
*
攻撃対象が自分自身である戦いと違い、ビーチバレーはコート全体が攻撃対象だ。戦いのように自分に向かってこない攻撃を一人でカバーするのは流石の一角にも無理があったようだ。あたしたちは一度も失点をすることなく、一角に快勝した。
「う~ん。どこに書こうかな~! 一角はどこが良い? やっぱり髪の毛、生やして欲しい?」
「テメェ……覚えてろよ……」
羽根付きのように失点する度に墨で顔に落書きをするという特殊ルールを設けた。始めは遠慮していた志乃ちゃんも最後の方は楽しそうに一角の顔や体に落書きをしていた。「テメェら」でないことを聞く限り、一角も妹には甘いらしい。
「え~? 『上等だァ』って言ってのに~?」
一角はあたしを睨みつけながら、こめかみをピクピクと痙攣させている。
「おいッ! テメェ! そんなところに書くんじゃねェ!」
「ここに書いて欲しいからお尻出してるんでしょ? 嫌なら次からはちゃんと水着を着てね~」
「良い加減にしろよ!?」
あたしを引っ捕まえようとする一角の手を躱し、距離を取る。
「あたし、喉乾いたからジュース買ってくる! 二人の分も買って来るね~!」
怒りの沸点に達している一角から逃げるようにその場から離れ、ジュースを買うために海の家の方へと向かった。海の家からはソースの良い香りが漂って来て、お腹がグウッと鳴き声を上げた。ジュースを買うつもりで来たけど、もうお昼の時間だ。
(焼きそば食べたい……みんなのところに戻って、出直そうかなぁ。あ、かき氷も食べなきゃ。あとスイカ割りをして、ソフトクリームも……)
そんなことを考えていると肩にポンと誰かの手が置かれた。ゾクッと背筋に寒気が走った。
「ねえ。君、一人?」
知り合いの誰でもない声が後ろから聞こえた。サァッと頭の中が真っ白になっていく。ビーチバレーで体を動かした上に刺すような日差しに照らされて体は火照っていたのに、バケツの中の水を被ったかのように一気に体が冷えていった。恐る恐る後ろを振り返ると、見知らぬ二人組の男の人が立っていた。舐めるような二人の視線に、凍り付くような恐怖が全身を駆け巡った。
「俺らこれから昼ご飯なんだけど君も一緒にどう? 奢るよ?」
「あ……えっと……」
一角とは売り言葉や買い言葉を交わすことができたのに、今は何も言葉が出てこない。ちゃんと断れば良いというのは頭では分かってはいるけど、足や手が小さく震えてしまう。俯いて目線を下げ、拒絶の意志を見せることしかできない。
「おい、テメェら」
込み上げてきた涙に視界が揺れ始めた時、突然聞きなれた声が聞こえた。顔を上げると、いつの間にかそこにはあたしと志乃ちゃんが墨で顔に落書きしたままの一角が立っていた。
「一角……」
「そいつに何か用か」
一角の低い声が響く。太陽の日差しよりも鋭い瞳で男二人を交互に睨みつけている。その目に男二人は凍り付いたように言葉を失って動けなくなっていた。
鍛え上げられた肉体。赤い褌に墨だらけの顔や体、そしていつもより眩しいつるっぱげの頭。始めは一角の雰囲気に飲まれて固まっていた男たちはそんな普通じゃない風貌に気付き、ギョッとしていた。それでも、あたしはその存在に胸が高鳴っている。
片方の男が肩肘でもう片方の男を突き、合図を送る。
「何だよ、連れがいるなら早く言えよな」
「い、行こうぜ」
男たちが尻尾を巻いて逃げたのは、一角の凄みになのか、それとも変人だと指差されそうな風貌になのかはあたしにも分からなかった。
「……ありがとう、一角」
「おう」
男たちに向けていた鋭さがなくなった瞳と目が合った。優しさも感じるその瞳に、緊張が一気に解れて体が軽くなった。それと同時に自分の弱さに対する悔しさもじわじわと胸に広がった。
「……」
「
なつめ」
「ん?」
「お前、可愛い恰好してんだからもう少し自覚しろ」
一角はあたしから顔を逸らしながら、いつもより小さい声でそう言った。あたしの耳が夏の熱気で可笑しくなっていなければ、あたしに向かって『可愛い』という言葉を一角は口にした。その言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。それと一緒にあたしの心臓はバクバクと胸から飛び出して行ってしまいそうな程、大きく跳ねていく。
「う、うん……ありが、とう……」
「隊長が昼飯にするって言ってるから行くぞ」
一角が親指を立てて、後ろを指さしていた。「分かった」と頷くと一角に手を取られ、握り締められる。ドキッと心臓が大きく跳ねた後に一瞬止まった気がした。
そのまま一角に手を引かれながら歩く。一角の後ろ頭しか見えず、どういう表情をしているのかは分からない。あたしの気のせいでなければ、両耳が赤いように見える。それを見ていると余計に恥ずかしくなってきてしまって、目を伏せた。すると、今度目に入ったのは一角のお尻。
「……ブッ! あはは! 一角、お尻に『お尻』って!」
「テメェが書いたんだろうが!」
「そうだけど、なんだかシュールで面白すぎて……あははっ!」
少女漫画やドラマみたいに格好良く助けてくれたはずなのに、何だが締まりが悪い。それが一角らしくて笑いが止まらなかった。
「あはは! あー! お腹痛い」
「……」
「痛い、痛い! そんなに握ったら、手折れるってば!」
この温かい手のぬくもりをいつまでも覚えていたい。そう思った。
終