四角い窓の外に広がるのは悔しくなるほどの真っ青な空。こんな日は体を動かすと最高に気持ち良いはずなのに、俺はというと小難しい文章が並ぶ書類を睨み付けていた。白い紙に規則正しく並ぶ文字は、睨んだところで逃げては行かない。鍛錬を重ねて強さを身につけるのと同時に処理しなければならない書類達も強さを身につけて行くのはどうにかならないのか。考えても無意味だと諦め、深くため息を吐く。隣に座っている弓親がこちら目だけを向けてきた。自分の隣りでため息をつくなと言いたいのだろう。
ふと、何かもの足らないことに気が付いた。そう言えば朝から姿を見かけないし、いつもの騒々しさが無く辺りは静かだ。
「おい、弓親。
なつめは?」
「知らないよ。またどうせ寝坊じゃないの?」
弓親は手を止めることなく、書類に筆を走らせている。
「ったく……。今日は書類を全員で片付ける日って言ったのに、アイツ……」
「……」
「なあ、弓親」
「嫌だよ。一角が行けば?」
「まだ何も言ってねぇだろ」
皆まで聞かずに俺の提案を拒絶する。我関せずな態度を貫いている弓親は書類に向き合ったままだ。一人だけこの地獄から免れようとしている
なつめに不満が爆発しそうになり、確認途中だった書類を机の上に捨て、立ち上がる。
「抜け出すの禁止だからね」
ようやく手を止めた弓親は俺に筆のコツの部分を向けながら、釘を刺した。
「分かってる。
なつめを叩き起こして、引っ張ってくるだけだ」
*
俺の目の前には、下手くそな字で『
朱田なつめ』と書いてある表札。その表札がかかっている家の扉を拳で二回叩いた。
「
なつめ! いつまで寝てんだ、お前!」
少し待つが扉の向こうからは返事も無ければ物音もしない。
「早く起きねェと隊舎の冷蔵庫に入れてるお前のプリン食うからな!」
いつもなら急いで飛び起きてくる食べ物関連の脅しをするが、数秒待っても中からは反応らなかった。相当、熟睡しているのだろう。
「抜け出して行くなら起こすまで帰って来ないでよ」と弓親に言われてしまった手前、俺は何が何でも
なつめを絶対に起こさなければならなくなってしまった。さも無ければ、俺が処理しなければならない仕事が刻一刻と増えていくのだろう。
だが、遅すぎるとまた同じ道を辿ってしまうだろう。早々に決着をつけたい。
「
なつめー! いい加減起きろー!」
今度は三回扉を強く叩くがやはり反応は無い。俺は伝令神機を取り出し、連絡先から
なつめの名前を探す。ここで呼びかけても起きないならば、着信音ごときで起こせる気はしないが俺がここで叫ぶよりかは勝率は高いだろう。発信のボタンを押そうとした時に扉が開いた。
「
なつめ! お前、寝坊だ……
なつめ?」
中から出てきた
なつめは、頬を赤らめ、息が荒く、とろんと覇気がない目は少し潤んでいる。いつも鬱陶しくなる程に幼い子供のような元気さで騒いでいる姿はなかった。
「……あれ、一角じゃん。……どうかした?」
「いや、どうかしたじゃねェよ。お前が寝坊で出勤して来ねぇから…………」
「あれ? ……あたし、弓親に熱があってしんどいから今日休むって、連絡入れたんだけどな……」
なつめはそう言いながら手に持っていた伝令神機を片手で操作した。
「……あれれ? 送信できてないや……。しかもめちゃくちゃ誤字してる……なんかごめんね……。無駄足になったね、あはは……」
「そんなことねェけどよ……大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫。弓親には、この書きかけのメッセージ送っておく…か、らさ……あ……」
「おいっ!」
考えるより先に体が動いた。足から力が抜けたのか前に倒れそうになった
なつめの体を抱き止めて、支えた。
「……っと、あはは……。ごめんごめん。ありがと……」
抱き締めたその体は熱い。本当に熱があるのだろう。足に力が入らないのか、
なつめはそのまま俺に体を預けたままだった。
「本当に大丈夫か?」
「ごめん……すぐ離れるから、」
自分の足で立とうとするが、やはり足に上手く力が入らないようだ。離れたかと思えばまたふらついて腕の中に帰ってくる。
「少し我慢しろよ」
なつめの膝裏に手を入れ、背中にもう片方の手を回して持ち上げた。
「うわ〜……安定してるねえ〜……」
「なんだ、その感想」
思っていたよりも軽い。ちゃんと食ってんのか?と疑問が浮かんでくるが、食い意地が強くアホみたいに口の中に詰めている姿を飽きるほど見ている。
同じく十一番隊に所属し、席官を張っていても柔らかくてほっそりしており自分とは真逆だ。ガキと思っていたが、こいつもちゃんと女の――いや、決して俺は病人相手に発情するほど困っていない。
「はあ……」
ため息と共に、余計な考えを吐き出した。
なつめを抱えたまま玄関に入り、一旦座らせた。目を閉じ、ぐったりと身体を壁に預けている。
「中入るぞ」
「え〜……部屋汚いんだけど」
「じゃあ、這って布団に戻るんだな」
草履を脱ぎ捨て、家の中に上がる。
「もう一回持ち上げるぞ」
「ん〜……」
もう一度
なつめを抱き上げる。今度は俺の胸に身体を預けている。
部屋の中に入り、
なつめが寝ていたであろう布団に寝かせた。
「……ありがとう。一角、優しいところあるじゃん」
「一言余計だ、馬鹿」
いつもなら頭を小突いていたが、今日は流石にやめておく。その代わり布団を少し乱暴に投げ掛けておく。
熱で怠そうにしているのに残していくのは心苦しかったが、四番隊では無い俺がいたところで何もできないし、休めないだろう。
「じゃあな、ちゃんとそうやって寝とけよ」
まるで、
なつめが自分の意思で熱があるのに遊び歩いていたような言い草になってしまった。起こしたの俺だ。
「……もう、行っちゃうの?」
部屋を出ようと踵を返した時に、袴の裾を引っ張られる。小さくてか細い声で呼び止められる。
「居ても邪魔だろ」
俺の言葉に
なつめは首を振った。
「せっかくだから、もうちょっと水売って来なよ」
「それを言うなら水じゃ無くて、油な」
「あれ〜……? そうだっけ……?」
弱々しい表情で見つめられる。言っている事はいつものアホさがあるが、声や雰囲気に覇気が無く調子が狂う。
「油安くしとくよ〜? どうだい、斑目三席」
「分かったから、手離せ」
なつめは笑って、袴を握っていた手を解いた。枕元に座るとさらに嬉しそうに笑った。
「……えへへ、ありがとう」
頬を上気させている笑顔が可愛く思えてしまい、胸がどきりと跳ねた。
これ以上見ているとさらに調子を狂わされてしまいそうで、俺は
なつめの目を手のひらで塞いだ。
「おら、早く寝ろ」
なつめが瞬きするたびに、まつ毛が手のひらをくすぐる。
「はーい……」
なつめは俺の手を取り、赤子のようにぎゅっと握る。そのままゆっくりと目を閉じた。しばらくすると寝息が聞こえてきた。握られている手を軽く握り返してみると、
なつめは眠ったまま口角を上げて無邪気に笑った。
*
瞼をゆっくり開くといつもの天井がそこにあった。ぼやぼやとした視界にあたしは数度瞬きする。
枕元を探り、そこに置いていた伝令神機を手に取った。
「って……メッセージ送れてないじゃん……。しかも、めちゃくちゃ誤字してる……」
今朝、弓親に送ったはずだったメッセージは上手く送信ボタンを押せてなかったようで作成の画面で止まっている。
「そして……めっちゃ寝たな……」
時計は十九時を指している。眠ったのは確か九時前ごろ。ほぼ一日寝たお陰か絶望する程に怠かった体は軽く、死ぬ程に重かった頭も幾分か楽になっていた。
身体を起こして伸びをすると、ぐうとお腹が鳴った。朝はとても食欲がわかなかったのに、我ながら現金な体だなと思った。昼も食べてないため、胃が空っぽだ。何か食べれるものあったかな、と自分の記憶を辿った。
「そういえば……」
お昼頃に一角が来ていた気がする。何を話したかも全く覚えてないけど。
だが現実と断言できるには、朧げな記憶。おそらく夢だろう。寂しくてそんな夢を見てしまったのかもしれない。あんまり覚えていないが、あたしが寝るまで手を握っていた気がする。現実だと嬉しいな、と思うが、どうせ夢だ。自分の手を見つめながら、ぬか喜びしないように否定する。
すると突然、玄関の方から音が聞こえてきた。ガラガラと響くそれは確実に家の玄関を開く音。
頭に浮かぶ、泥棒という二文字に怯えながら 斬魄刀を持って恐る恐る玄関の方へと歩く。こっそり壁から玄関を覗いた。
「……一角じゃん。何してんの?」
そこには、土鍋で両手がふさがった一角が片足を上げて立っていた。こいつ、人様の玄関を片足で開けたな。
「なんだ、起きてたのか」
「レディーの家なんだからちゃんとノックしてよ」
「まだ寝てんのかと思ったんだ、しょうがないだろ。もう具合は良いのか?」
どうやら、一角が昼間にここに訪れて来たのは夢じゃなかったようだ。
「いっぱい寝たからもうかなり楽だよ」
「そうか」
そう言うとどこかほっとしたような表情を浮かべていた。
「……それ、どうしたの?」
「……今日、飯はどうすんのかと思って」
一角にしては、歯切れが悪い。もっとハキハキ喋りなさい、気持ち悪い。と、心の中で小言を呟く。
一角が中途半端に足で開いた扉を手で開け、一角を招き入れる。
「ちょうどお腹減って、ご飯どうしようか考えてるところだったけど」
一角は片手で土鍋を抱えて蓋を開けた。ふわっと目の前に白い湯気が広がった。
「わ~! お粥だ! ……一角が作ったの?」
「まあな」
「え~! すごい! ……これあたしに?」
つやつやとお米が光っている美味しそうなお粥を見ながら尋ねると一角は頷いた。
「ありがとう! でも、あたしこんなに食べられないかも……」
土鍋の中のお粥はとても一人分には見えなかった。もしこれが一人分なら、一角は私のことをとても大食いだと思っていることになる。まあ確かに食い意地は張ってると自覚してるけど。
「俺も晩飯まだ食ってねぇからよ、その……」
「一緒に食べてくれるの?」
「おう」
なるほど、だから梅干しも二つ乗っているのか。
「後から『あれやれ』『これやれ』とか言わないよね?」
「馬鹿、言わねぇよ!」
何だかいつもより優しくて様子が違う一角に少し怪しむと声を荒げて少しだけいつもの一角が帰ってきた。
「……ありがとう」
「おう」
笑って礼を言って見せると、少しだけ頬を赤らめて一角はそっぽを向いた。
「アイス食べたいからアイスも買って来てよ」
「はあ? お前なあ」
「嘘、嘘。冗談だってば」
声を上げて笑うと、呆れたように肩をすくめている。
いつもより優しくて、頼りに見えて、かっこいいと思ってしまうのを全部全部熱のせいにすることにした。
終