時間軸的には、『後日話 いとしきもの』の直後です。 「泊まりに来て!」とやちるちゃんに誘われて、今夜は更木邸で過ごすことになった。
明日は、やちるちゃんの誕生日。私はそのために休みを取っている。いつも私と剣八さんを気遣ってお留守番をしてくれているやちるちゃんに、明日は思い切り甘えてもらおうと思った。だから、剣八さんとやちるちゃんの二人で出かけることを提案したのだ。
「本当に剣ちゃんのこと独り占めしても良いの?」
やちるちゃんは、ぱっと顔を輝かせた後、ふいに笑顔を引っ込めた。口元をきゅっと結び、そっと私の機嫌を窺うような瞳。
「……本当に剣ちゃんのこと、独り占めしてもいいの?」
その遠慮がちな声に、やちるちゃんの優しさがにじむ。
これは私への気遣いだ。自分が大喜びして無邪気にはしゃぐことで、私を除け者にしてしまうのではないかと心配しているんだ。
興味を持ったものには周りを気にせず全力で突き進むやちるちゃんだけれど、こうして思慮深い一面もある。
「はい、明日はやちるちゃんの誕生日ですからね」
「でも……」
「いつも私たちのためたくさん我慢してくれているので、明日は思い切り剣八さんのことを独り占めしてもらいたいなって思ったんです」
無理に笑顔を抑え込んでいるやちるちゃんの頭をそっと撫でる。しばらくは唇を巻き込んで口が緩むのを我慢していたが、ついには抑えきれずに口角を上げてにっこり笑った。
「私は、やちるちゃんが好きな物をたっくさん作って待っていますからね。楽しんできてください」
「……うん!」
「ふふっ、明日はもうお腹いっぱいなんて言わせませんよ」
「そんなこと言わないもん! 全部、全部、ぜーんぶ食べるよ!」
やちるちゃんは両手を広げて大きな円を三回描きながら、そう言った。子供らしくて可愛らしい仕草に笑わずにはいられない。無垢な真っ直ぐさに癒される。
「明日は何が食べたいですか?」
「えっとね、えっとね……! ハンバーグでしょ? 唐揚げでしょ? あと、おにぎり! シフォンケーキも食べる!」
やちるちゃんは座っている私のお腹へ抱きつき、指を折りながら要望を伝え始めた。聞き洩らさないように紙へ書き出そうかと思ったが、今挙がった食べ物はすべて作ろうと思っていたものだった。やちるちゃんのことが分かっている、と思えて嬉しい。
「もちろん、全部腕によりをかけて作りますよ」
「やったー! 楽しみ!」
ころころと楽しそうに笑ったやちるちゃんは。今度は、黙って私たちの会話を聞いていた剣八さんの腕に抱きついた。
「剣ちゃん、明日何しよっか!」
「やちるがやりたいことで良い」
「え~、剣ちゃんが何したいか聞きたいの~」
不満げに眉を八の字にしたやちるちゃんが剣八さんの腕をぶらぶらと揺らす。微笑ましい光景に穏やかな気持ちを溢れさせていると、剣八さんと目が合った。微笑んで見つめ返すと、剣八さんは少し考える素振りを見せて口を開いた
「……そうだな。……甘い物でも食いに行くか?」
「うん! 行く! 行こう、行こっ! えっとね、甘い物はね! お団子と、あんみつと——」
やちるちゃんが甘い食べ物の名前を挙げるたびに、剣八さんは静かに頷いていた。
だが、やちるちゃんは中々止まらない。
「おはぎと、羊羹と、どら焼きと——」
剣八さんの頷きは次第にぎこちなくなる。
「わらび餅と、お饅頭と、練り切りと──」
甘い物を被らずに言い上げるやちるちゃんに感心していると、剣八さんの頷きがついに止まってしまった。眉を顰めながら私を見つめてくる。
「……俺が腹いっぱいって言うかもしれねえ」
「ふふ。では、剣八さんは無理しない程度に……でも剣八さんが食べてくれないと作り甲斐がなくなってしまいますね……」
私がわざと大げさにため息をつくと、剣八さんは口角をわずかに上げ、口を開いた。
「それじゃァ、食わねえわけにいかねえな」
口ぶりは呆れたようなものだったが、私へ優しく微笑みかけてくれている。
「柏餅と、カステラと、鯛焼きと——」
まだまだやちるちゃんは楽しそうに甘い食べ物の名前を並べていた。その様子を見ていると頭の中に、やちるちゃんの点呼に合わせて甘い物たちが手を上げて返事をしている光景が浮かんできた。どちらのやちるちゃんも笑顔で楽しそうに笑っている姿に自分まで嬉しくなった。
*
甘い物を目の前にしているというのにやちるの顔に笑顔はどこにもない。
「何だよ、食わねえのか?」
「ううん……食べるよ?」
昨日は、やけに興奮していたが、今日になってやちるはどことなく元気がなかった。
『すごい、すごーい! 目玉焼きがお花の形だよ剣ちゃん! 顔もついてる!』
朝飯のときは、昨日の興奮を引き継いで元気が有り余っていた。
一体いつから元気がなくなったか、記憶を慎重に辿る。
『
優ちゃん、行ってきまーす!』
『転んじゃわないように気をつけてくださいね』
『大丈夫だよ! 歩くのは剣ちゃんだから!』
優紫に見送られて家を出た時も、はしゃいでいた。
『まず何食うんだ?』
『うーん……何にしようかな……餡蜜、かな?』
目的の甘味処が近づくにつれて、声の調子は下がっていたかもしれない。普段なら逆だ。近づくにつれて、声が次第に大きくなり、肩から下ろして自分で歩かせたくなるほど騒がしい。店に入って、甘い物が目の前に出てくればいつものように満面の笑みで次々に平らげてしまうだろうと思った。
だが、甘い物を見てもやちるは暗い顔をしていた。こんなやちるは見たことがない。体調を崩した時も食い意地が張っていたというのに。
「腹痛えのか?」
誕生日のやちるのために
優紫が作った子供が喜びそうな朝飯を腹一杯、気が済むまで食べていた。もしかしたら、朝飯の食い過ぎのせいでこんなに元気がないのかもしれない。
もしもの時に
優紫が持たせてくれた胃薬がある。だが、腹が痛いときに飲むのが胃薬で良いのかは分からない。
(……腹痛って胃が痛いのか? じゃあ、胃痛は? 何だ?)
俺にはよく分からない医学の世界。
それに胃薬は俺が飲むために持たせてくれた物。俺は一錠で良いらしいが、体の大きさが違うやちるもそうで良いのかは分からない。飲ませる前に
優紫に聞いたほうが良いかもしれない。
「……ううん。お腹は痛くないよ」
懐から薬と伝令神機を出そうと、手を入れたところでやちるは首を振って否定した。
腹も痛くないならば、何なんだ。
「……」
「熱もないよ」
やちるの額に手を当ててみるが特別熱く感じなかった。
「どうしたんだ。あれだけ色んな甘い物、食うって張り切ってたじゃねえか」
「うーん……うん……」
「まだ、昨日言ってた甘い物全然食ってねえぞ?」
全然どころか何一つ食べていない。
「……うん」
小さく頷くやちるも自分で自分のことがわかっていないように見える。胸の辺りの着物を弄りながら黙りこくってしまう。
この調子じゃあ、いくら聞いても理由は聞き出せそうにない。
優紫だったら、今やちるが抱えているものを上手く聞き出せていただろうか。
「食わねえなら俺が食うぞ」
「……」
俺が食べているところを見れば、単純なやちるはつられて食べ始めるかもしれない。そう思って俺は、目の前にあるでかい餡蜜を匙で掬って口へ入れた。次々、口へ入れて食べ進める。やちるは匙を手に取ることなく、減っていく餡蜜をぼんやり眺めていた。
「……ねえ、剣ちゃん」
半分減ったところで、やっとやちるが口を開く。
「何だ?」
匙を止めて、言葉を返す。やちるは言うか言わないかを最後まで迷いつつ、もじもじしながら俺の目を見た。
「剣ちゃんは何か変じゃない?」
「変って、何がだ」
「なんか、ここらへんが変で……」
やちるは自分の胸の辺りをさすりながらそう言った。
こんな風に迷うやちるを見るのは、珍しい。
「変って何だ? 気持ち悪いのか?」
「ううん、そういうのじゃなくて……甘いものは食べたいのに、食べる気になれなくて……何か足りないなって、ここらへんがもやもやってしたり、きゅってなって変なの」
──ああ、それでか。
やっと合点がいった。
それは俺もよく知っているもの。
「目、瞑ってみろ」
やちるは一瞬戸惑ったように瞬きをして、それから素直に瞼を閉じた。
「……」
しばらくして、やちるはそっと目を開いた。
その瞳には涙が滲んでいて、俺の姿がぼんやりと映っている。
「その変なの、何か分かったか?」
俺が尋ねると、やちるは迷いのない力強さで頷いた。
「……
優ちゃんだった」
小さく、でも確かにそう呟いた声が胸の奥にじんと響く。
「……初めはね、剣ちゃんと二人っきりでお出かけするのすっごいすっごい楽しみだったの」
やちるは再び、餡蜜に目を落としながら小さな声でようやく気づいた胸の内を明かし始めた。
「剣ちゃんと二人っきりでお出かけって最近全然してなかった気がしたから……」
「……」
確かに休みの日に予定を立てて出掛ける時は、俺と
優紫とやちるの三人だった。やちると二人でどこかへ出かけたの久しぶりだ。と、言っても一ヶ月ぶりぐらいかもしれない。だが、長い時間を共にしていた俺たちにとっては大きすぎる空白だったかもしれない。
「だから、楽しみだったはずなのに……なんだか寂しくて……やっぱり、
優ちゃんもここにいて欲しかった……」
優紫と永遠の別れをしたわけでもないのに、やちるはまるで親に捨てられた子供のような顔をしていた。
だが、そんなことで茶かせない。真剣なやちるをあしらうことができないのはもちろん、俺も寂しさを感じている時は同じような顔をしているのだろう。
「剣ちゃんと
優ちゃんは隊が違って、お仕事中は離ればなれになっちゃうけど……あたしはその間もずっと一緒なのに剣ちゃんのこと独り占めしちゃったからバチが当たっちゃったのかな……」
「それは違えだろ」
妙に深刻そうなやちるをきっぱり否定してやると面食らった顔で驚いていた。目の前の皿に転がっている白玉よりも丸くした目が真っ直ぐ俺を見つめている。
その瞳を見つめながら胸にある言葉を口に出すのは、なんとなく気恥ずかしく、俺は肩肘をついて窓の外へ目を向けた。
「俺から言えることは、やっぱりガキが大人に気ィ遣うなってことだけだ」
「……剣ちゃん」
細い声でやちるは俺の名を呟く。目を逸らしているから表情は分からないが、顎に梅干しでも作って、今にも泣き出しそうな顔をしているだろう。
「……っ、……」
横目で様子を窺うと、鼻水を啜りながら泣くのを耐えていた。
思わず、小さく笑みが溢れてくる。
桜色の頭へ手を伸ばし、ぐりぐりと撫でた。
「じゃあ、これ食ったら帰るか」
俺たちの帰るべき場所へ。俺たちの家に、いや──
「
優紫のところに」
「……うんっ!」
俺の提案にやちるは大きく頷いた。やちるは、すっかり元気を取り戻したように見える。零れてしまいそうだった目に溜まった涙を拭った後、残りの餡蜜を全て勢い良くかき込んだ。あっと言うまに飲み込むと、歯を見せて大きく笑っていた。
どうやら俺とやちるは、もう
優紫なしでは生きられないらしい。
*
剣八さんとやちるちゃんを見送った後に夕飯の買い出しへと向かったは良いものの、流石に張り切りすぎたかもしれない。食材を包んでいる手拭いで両手は塞がってしまい、その手拭いは重さのせいで指へ食い込んでいる。指先に血が通わなくなり、黄色くなった指先を見て自重の笑みも込み上げてくる。でも、やちるちゃんのために美味しい料理をたくさん用意したかったから後悔はしていない。
更木邸がようやく見えてきて、ほっと安堵したのも束の間。玄関前に剣八さんとやちるちゃんの姿が見え、背中にひやっとしたものが通った。
てっきり日が暮れた夕方に帰ってくるものだと思っていた私は二人に鍵を渡さずに見送った。そして買い出しで家を出る時に、施錠してしまった。鍵を持っていない二人は家の中に入れずにいるのだ。まだ二月で外は冷えるというのに。
慌てて私は足を進めて、二人へ駆け寄ろうとするが両手の荷物のせいで上手く走れない。
近付いてくる私の霊圧に気が付いたのか、二人は同時にこちらを振り返る。
「あ!
優ちゃん、帰ってきた!」
「ごめんなさい! 私、鍵を閉めて家を出てしまって……!」
やちるちゃんは駆け足で、剣八さんは大股で早足に歩きながら私は近付いてくる。私もそんな二人を見て、できるだけ早く歩こうとすると、剣八さんは小走りになった。
あっという間に距離が埋まり、私が手に持っていた荷物は何も言わずに剣八さんに奪われる。
「あ、ありがとうございます……」
そう伝えると、剣八さんは静かに頷いた。
私を悩ませていた荷物を剣八さんは軽々と持っている。男性だし、鍛えられた体では当たり前なのかもしれないが剣八さんの男らしさを感じると胸が甘く疼く。
だが、ひとまずその甘さは置いておかないといけない。
二人の時間を過ごしているはずなのに、どうしてここにいるのか。
「……何か忘れ物ですか?」
「ううん、違うよ」
やちるちゃんは首を振った。
「お出かけは終わりにして、帰ってきたの」
「どこか、具合が悪くなったのですか?」
またやちるちゃんは首を振った。
「ううん。お腹も痛くないし、熱もないよ」
「それは良かったです。でも、ごめんなさい。これから夕飯を作るところだったので、まだ何も準備できていなくて……」
私が剣八さんが持っている荷物へと視線を移すと、やちるちゃんも後を追って荷物をじっと見つめていた。少しすると、再びその目は私へと戻ってきた。
口角を上げ、目を細めて、やちるちゃんは笑う。
「
優ちゃん、あのね!」
「……はい?」
「あたしね、剣ちゃんに名前を貰った時に飛んでた雲の数をずーっと覚えてるけど、
優ちゃんに『初めまして!』ってするために歩いた時に飛んでた雲の数もずーっと覚えてるんだよ!」
私の足元へぎゅっと抱きつき、やちるちゃんは甘えるようにそう言った。
やちるちゃんにとっての剣八さんはどういう存在か。それはよく知っているつもりだ。
剣八さんに名前を貰った時のことは飛んでた雲の数まで覚えている。
そのやちるちゃんらしい言葉には、剣八さんへの計り知れない想いが詰まっている。
そんな想いを私へ真っ直ぐに向けてくれているのだ。
「だから、
優ちゃんも一緒におでかけしよ!」
笑顔の花を咲かせながら、抱きついたまま私へ手を伸ばしてくるやちるちゃん。
剣八さんのほうを見ると、肩をすくめて微笑ちが返ってきた。
「良いんですか? 私がご一緒しても」
「うん! あたしね、甘い物とか美味しい物より、
優ちゃんがだーいすきなの!」
「ふふっ……私も、やちるちゃんのことがだーいすきですよ」
差し出された手を握ると、小さな手が力強く握り返してくれた。
「私とやちるちゃんが『初めまして』をした時は、いくつ雲が飛んでいたんですか?」
やちるちゃんはにんまりと笑うと、空を指差す。
「ちょうど今飛んでる雲の数だよ!」
空を見上げると、そこに浮かぶ雲たちが私たちと一緒に笑ってくれているように見えた。
終