午後六時時過ぎ。時間にしては暗い夜道。草履で地面を撫でながら一人で歩く。目的地は婆さんの食堂。
何度も歩いた道だが、今日は肩にやちるも、隣に
優紫もいない。食堂までの道のりはこんなに長かっただろうか、と思いながら足を進める。長く感じてしまうのは、やちると
優紫がいないせいだろうか──いや、今は別の理由がある。今日は食堂の到着が今か今かと待ち遠しく、この道のりを長く感じてしまっているのだろう。
遠目に婆さんの食堂がやっと見え、無意識に足早になる。一歩、一歩と食堂までの距離が短くなり、ようやく辿り着いた。流れるように一度も立ち止まらず暖簾をくぐり、入り口の戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
店の中から聞こえてきた声は、婆さんの声ではなく、いつも聞いている愛おしい声だった。
「お疲れ様です、剣八さん。お待ちしていましたよ」
白藤色の生地に深紫色の青海波があしらわれている着物を身に纏った
優紫が笑顔で俺を出迎える。
優紫とここで待ち合わせをしていたわけではない。
着物の上には婆さんと揃いの白い割烹着を着ている
優紫は、婆さんの手伝いをするためにここにいる。
話は数日前に遡る。その日は、夕飯を食べるために俺と
優紫とやちるの三人で"ひととせ食堂"を訪れた。ひととせ食堂は隠れ家のようにひっそりと静かに経営している食堂だったが、その日は普段と比べて客が多かった。てんやわんやと働いている婆さんが一息ついたところで理由を聞くと、何の前触れもなく忍びで総隊長と雀部が突然やって来たと思えば、その日を境に客足が増えたらしい。どうやらここを気に入ったらしい二人が周りへここの話をしたのだろう。現に俺が見ても高級品だと分かるような身なりだったり、立ち振る舞いが上品だったり、そして年寄りの客も多かった。恐らく一番隊の奴らが多いのだろう。
この食堂は初めて
優紫と一緒に訪れた場所でもあり、三人でひっそりと穏やかな時間を過ごせる場所でもある。それを突然取り上げられてしまったような気分になってしまった。酒を浴びるように飲み、どんちゃん騒ぎするようなうちの連中みたいな奴らじゃなくて良かった、とは思う。
商売的には喜ばしいことだろうが、年末の書き入れ時と重なり、すっかりくたびれてしまっている婆さんへ
優紫は「休日に店を手伝う」と話を持ちかけた。
優紫が提案したその日は、ちょうど年内最後の営業日でさらに大盛況であることは予測できた。婆さんは初めこそ遠慮したものの、
優紫のことを随分と気に入っている婆さんは最終的に
優紫の提案を嬉しそうに承諾していた。
そして、その約束した日が今日だった。
「今日は一段と冷えましたが、お体冷えませんでしたか?」
「いや、そうでもねえよ」
「でもお外を歩くときは前を閉じてくださいね? お腹冷えちゃいますから」
「ありがとう……」
「はい」
優紫は俺の死覇装の合わせを整えると、にこりと微笑んだ。これをして欲しいから、わざと言うことを聞かずに着崩していると言えば怒られるだろうか。
「あ! 剣ちゃんだー!」
婆さんがせっせと料理をしている厨房から駆けて飛び出して来たのは、やちるだった。
優紫と揃いの着物に、婆さんと
優紫と同じように白い割烹着を身に付けている。
何かと
優紫の真似をしたがるやちるも婆さんの手伝いをすると言い出してしまった。引っ掻き回すだけだから止めておけ、と言ったが一度その気になったやちるを止められず、
優紫も
優紫でやちる用に小さな割烹着を楽しそうに作り始めてしまった。俺には、それ以上止めることはできなかった。
「ちゃんと手伝ってんだろうな、やちる」
「うん! してるよ!」
「どうだかな」
「してるってばー!」
「どうせ、盗み食いばっかりしてんだろ」
「ちゃんと『食べて良い?』って聞いてるもん! だから盗み食いじゃないよーだ! 剣ちゃん、さっき来たばっかりで何も知らないんだから!」
やちるは頬を膨らませ、文字どおり膨れっ面になった。
優紫はくすくすと笑いながら俺たちのやりとりを見ている。
「やちるちゃんは、一生懸命たくさんお手伝いしてくれていますよ」
「ほらー!
優ちゃんがいーっぱいやちるのこと見てくれてるんだから!」
ぱんぱんに膨らんでいた頬が元どおりになると、やちるは腰へ手を当てて偉そうに踏ん反り返っていた。
「剣八さん、お席にご案内いたしますね」
「ああ、頼んだ」
「えーっと、あ! あそこ空いてるよー!」
背伸びをしたり、飛び跳ねたりして店内を見渡したやちるは室内の一角を指差した。店内は満席状態だが、そこにある二人掛けの座席は空席だった。
「では、やちるちゃん。あちらまでご案内お願いします」
「はーい!」
やちるを先頭に
優紫、次に俺と並び、その座席へと向かった。
俺は座席に座るが、
優紫とやちるは立ちっぱなし。店員として働いているため当たり前だが、変な気分だった。
「日替わり定食でよろしいですか?」
「ああ」
「お酒は飲まれますか? 熱燗のご用意がありますよ」
「じゃあ、それを頼む」
「はい。かしこまりました。少しお待ちくださいね」
優紫は楽しそうに微笑むと、俺へ背中を見せて厨房へと戻った。やちるも俺の注文を大声で繰り返しながら
優紫の背中を追いかけていき、俺は一人残される。
「……」
いつもなら料理が運ばれてくる時間は、
優紫とやちるで会話をしながら待っていた。今日、あの二人は婆さんの手伝いだから席についているのは俺一人。俺の席は厨房から離れているため、
優紫たちの会話の輪にも入れない。料理が届くまでは、退屈な時間を過ごすことを覚悟した。だが、俺が座っている席からは店全体を一望することができ、
優紫が注文を聞いて店内を回ったり、料理を運んだりするのを目で追うことができたため飽きることはなかった。料理を溢さないように真剣な顔で料理を運んだり、客の質問に対して丁寧に答えていたり、手伝おうとするやちるを優しい顔で補助したり、そんな
優紫の姿を俺は無意識に頬を緩ませながら眺めていた。
優紫は厨房に戻ると、婆さんと並んで立ち、一緒に作業を始めた。盛り付け終わった皿を盆へ乗せ、持ち上げた。俺と目を合わせると、口角を緩く上げて
優紫は微笑む。そして、俺の方へ向かって歩き始めた。
「おまたせしました」
俺の机に盆が静かに置かれる。
今日の日替わり定食は、見慣れないものだった。楕円形の肉の上に大葉と大根おろしが乗っている。
「豆腐ハンバーグです」
「はんばーぐ……」
聞きなれない言葉の料理は、おそらく現世のものだろう。「
優紫が作ったのか?」と聞こうと口を開いた時に、一人の客が
優紫を呼んだ。その声を聞いた
優紫は、すぐに顔を向けて反応した。
「少々お待ちください。……それでは剣八さん、ごゆっくりしてくださいね」
優紫は俺へ頭を下げると、背を向けて客の元へと向かった。離れていく
優紫の背中に寂しさを感じつつも、いつまでも名残惜しく見つめているわけにもいかずに俺は箸を手に取った。
はんばーぐという肉の塊を箸で一口大に切る。それを口の中へ運ぶ。肉にしては軽かった。しっとりした豆腐の質感が舌へ広がる。味はあっさりしているが、大豆の旨みもあり、食べやすさと満足感が絶妙だった。そして——胸の中へ広がっていく温かさ。これは
優紫が作った料理を食べた時に感じるものと同じだった。これは間違いなく
優紫が作ったのだろう。また、頬が勝手に緩んでいく。今日は一緒に机を囲んで飯は食えていないが、まるですぐ隣にいるように感じる。
(あったけえな……)
ガキみたいだが、
優紫の料理とすぐに気づけたことが嬉しい。
後で
優紫に言ってみよう。
どんな顔をするだろうか。どんなことを言ってくれるのだろうか。
そんなことを考えながら箸を止めることなく、はんばーぐを次から次へと胃袋へ収めていく。すると何やら話し声が聞こえてきた。
「ここは女将さんが一人で切り盛りしていると聞いていたけど、こんな綺麗な若女将もいらしゃったんですね」
「細かいところに気を配れるし、こんなに気持ち良く食事ができたのは初めてでした」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
優紫が二人の客に声を掛けられている。内容は
優紫の接客を称賛しているものだった。
「立ち振る舞いにも全く非の打ち所がない。家柄を伺うのも無粋だが、気になってしまいまして……教えていただけますか?」
「はい。春宮才紫朗の娘、春宮
優紫と申します」
頭を下げながら
優紫が名乗ると、二人は感嘆の声を上げた。
「才紫朗殿の! 確かによく似ている」
「これは驚いた! こんなに素敵な方が息子の嫁だったら、私も鼻が高いのだが……是非うちの息子に一度会ってはいただけないものでしょうか」
「私にも息子がいれば……残念だ」
優紫の父親のことを知っていた二人は、ますます
優紫に興味を持ったようでそんな提案をしていた。
巨大虚と戦った時に
優紫が指揮をとり、俺たちの命を救ったことがある。それを周りから評価されている時は、まるで自分のことのように嬉しかったのに、今は胸の中に重暗い靄のようなものが広がっていく。チクチクと胸の奥を針のようなもので刺されているように痛い。
箸を持つ手がぴたりと止まった。やけに重く感じる。棒っきれなのに、大きい岩のようだ。
「……」
本当は目を背けたい。耳を塞ぎたい。だが、これが本来あるべきことなのだろう。
現世で死んでここにきたのかも、ここで生まれ親に捨てられたのかも分からない俺とは違い、
優紫は家柄がしっかりしている。同じようにしっかりしている家柄の相手が
優紫には——
「申し訳ございません。お付き合いさせていただいている大切な方がいますので、息子様とお会いすることはできません」
柔らかくて、優しくて、温かい
優紫の声に心の中の雨雲が晴れていく。差し込む日差しが愛おしい。
そして、好きな女から自分と付き合っていることを他人に対して口に出されるのはこんなに嬉しいことなのか、と思った。
優紫は俺と付き合っていると頭では理解しているが、
優紫の口から聞いた途端嬉しさで胸が弾んでいる。
優越感? 独占欲? 承認欲?
これがなんなのかは分からないが、ただただ幸せだと思った。
「大変申し訳ございません」
「そうか。それならば仕方ないですね……いや、本当に残念だ」
眉を下げ、誘いを持ちかけた相手の気持ちを害さないように申し訳なさそうな表情を浮かべていた
優紫を見つめていると、ぱちりと目が合った。俺と目が合うと、優しく目を細めて軽く微笑まれる。
優紫は手に持っていた盆で二人の客から見えないように右手をさりげなく隠し、控えめに俺へ手を振った。刺すような胸の痛みが甘いものに変わり、ますます愛おしさを感じる。
「
優紫殿も霊力があると見受けられますが、才紫朗殿を継いで死神に?」
「はい。四番隊へ所属させていただいております」
「もしや末枯に現れた巨大虚を死者を出さずに討伐したというのは……」
「どこかで聞いたことがある名だと思っていたが、あれは
優紫殿だったのか」
「確かに私はあの場にいましたが、討伐したのは十一番隊の更木隊長ですので私は……!」
再び始まった
優紫への賛辞の言葉に
優紫は戸惑う姿を見せた。そんな謙虚さにも二人は気に入ったようで話はさらに弾んでいた。その様子を見ていても、心が陰ることは二度となかった。
(……俺は本当に、随分と単純だな)
いつの間にか軽くなった箸を再び動かし、残りのはんばーぐを食べ進める。
先程よりも美味しく感じるはんばーぐが俺をさらに満たしてくれた。
*
「ここで良いか?」
「はい。ありがとうございます、剣八さん」
店頭に掛かっていた暖簾を店の中へ仕舞い、出入り口近くの壁へ立てかける。
閉店時間になり、俺も
優紫と一緒に店仕舞いの手伝いをしていた。料理はできないが、掃除なら俺にもできる。婆さんと
優紫の指示どおりに机や椅子を雑巾で拭いたり、床を履いたり、言われるままに掃除に徹した。
「
優紫ちゃん、やちるちゃん、今日はありがとうね。本当に助かったよ。更木隊長も掃除ありがとう。私の手が届かないところも綺麗にしてくれてすっきりしたよ」
婆さんは割烹着の衣嚢へ手を入れると白い封筒を二つ取り出し、それを
優紫とやちるへそれぞれ差し出す。
「なあに、これ?」
やちるは興味津々に白い封筒を表から見たり、裏から覗いたりしている。しまいには顔を近付けて匂いを嗅いでいた。流石に食い物は入っていないだろう。
「少ないけど今日のお駄賃だよ」
「お駄賃!?」
「え! そんな! いただけないですよ……!」
戸惑う
優紫をよそにやちるは嬉々としながら婆さんから白い封筒を受け取った。中に入っている金を見るとさらに嬉しそうに笑う。
「
優ちゃん、見てみて! これでお菓子いっぱい買えるよ!」
「好きなものたくさん食べるんだよ」
「うん!」
やちるの頭を撫でると、婆さんはまた白い封筒を
優紫へ笑顔で差し出す。
「ほれ、
優紫ちゃんも」
「私から手伝うと言ったので本当にお気遣いなく……」
「いいんだよ。すごく助かったし、すごく楽しい一日だったからね。ほんの少しだけど、お礼の気持ちだよ」
「でも……」
このまま放って置くと、二人はいつまでもこのやり取りを続けそうだ。
「素直に貰っておけよ。それ相応の働きを
優紫がしたってことなんだろ? 俺たちも婆さんの飯食ったら金払ってるしな」
「そうだよ、
優紫ちゃん。受け取ってもらえなかったら、私は心残りで年越せないよ」
優紫のように説得力のある上手いことは言えないが、俺の言葉を聞いた
優紫はおずおずと封筒は手を伸ばして受け取った。
「……ありがとうございます」
「これで
優ちゃんもいっぱいお菓子買えるね!」
やちるの無邪気な言葉に
優紫は小さく笑って返事をしていた。
「良かったらまた手伝わせておくれ」
「はい、是非!」
「やちるちゃんも、更木隊長もまたよろしく頼んだよ」
「うん、いいよー!」
「俺は掃除ぐらいしか、できねえけどな」
「あはは! 老体には掃除が一番大変だから助かるよ」
婆さんと年末の挨拶をし、俺たちは帰路についた。
外気温の冷たさに体温を奪われていくが、
優紫と手を繋いでいる手だけはずっと暖かかった。ちらり、と隣を歩いている
優紫の横顔を窺う。
優紫は口角をゆるりと上げ、微笑んでいた。
「嬉しそうだな。婆さんの手伝いはそんなに楽しかったか?」
「はい。とっても」
声をかけると
優紫はすぐに俺へ顔を向け、さらに口角を上げて柔らかく微笑んだ。その顔を見ていると、ほんわりと胸にも温かさが広がっていく。
「そうか。良かったな」
「はい」
にこにこと笑っている
優紫にじっと見つめられる。俺が小さく首を傾げると
優紫は口を開いた。
「剣八さんもなんだか嬉しそうですね」
「剣ちゃんは、豆腐ハンバーグ食べてからニッコニコなんだよ!」
寒いと言って俺の死覇装と隊首羽織の間に潜り込んでいたやちるが勢いよく顔を覗かせた。「ね~、剣ちゃん」とか言いながら楽しそうに笑い、俺の顔を覗き込んでくる。間違ってはいないため、俺が頷くと
優紫は肩を揺らしながらくすくすと笑った。
「そうなんですね」
「美味かった。……また、作って欲しい」
「はい、喜んで」
優紫は頷いて、快く返事を返すと「そういえば……」と再び口を開いた。
「私が作ったことは女将さんや、やちるちゃんからお聞きしたんですか?」
「いや、聞いてねえ」
「剣ちゃんは
優ちゃんの作ったものなら何でも分かるんだよ! 心が満たされるって言ってたもんね~」
「……茶化すな」
俺の肩に手を付き、さらに身を乗り出してくるやちるの頭を片手で抑えるが、気にすることなくさらに体を前に乗り出してくる。一度落ちてしまえば良いのに。上手く着地するだろうが。
「今度、利き
優ちゃんやってみようよ!」
「それは面白そうですね」
「ね~! 面白そうだよね! 剣ちゃんと
優ちゃん、どっちが勝つかな~」
やちるの提案に
優紫も笑顔で乗っかっている。
「……それは正解したら何か褒美が貰えんのか?」
「そうですね……。何かあったほうが良いですよね、考えておきますね」
「期待してるぞ」
腰を曲げ、
優紫の耳元へ顔を寄せて囁くと
優紫は顔を絡めて静かに頷いた。可愛い反応に自然と頬が緩み、胸が嬉しそうに跳ね始める。
「ご、ご期待に応えられるように頑張ります……」
「ああ、楽しみにしてる」
「あたしはお菓子がいいなー」
冷えるから早く暖かい家へ帰りたいはずなのに、遠回りしたくなってしまった。包み込んでくれるような穏やかな時間が終わってしまうのがもったいない。
だが、この時間が終わったとしても、俺の心の寄る辺はいつまでもここにあると愛おしい温かさが教えてくれていた。
終