突然、体が冷え、ぶるりと震えが走った。
心地よい眠りから意識がふわっと浮き上がってくる。
「剣八さん、朝ごはんできましたよ」
愛おしい声が聞こえ、ゆっくり瞼を開くと愛おしい彼女──
優紫の姿があった。
顔が隠れるまで潜っていた布団を
優紫が俺を起こすために少し捲ったらしい。鼻の奥がツンとする冷たい空気が俺を冷やそうと纏わりついてくる。今日は一段と寒い気がするのは気のせいだろうか。
「……」
「まだゆっくり寝ますか?」
その言葉で今日は仕事が休みだったと思い出した。俺を起こしに来た
優紫が、「まだ寝るか」と聞いて来るのは非番の日だけだ。
「……」
自分の意思とは関係なく、瞼が勝手にゆっくり落ちてくる。そのたびに重たい瞼をもち上げる。それを何度も何度も繰り返していると、
優紫は優しく笑いながら俺の頭を撫でた。
たったそれだけで穏やかな気持ちになり、もうひと眠りしてしまいそうになる。
「お昼ごろにまた起こしにきましょうか?」
変わらず柔らかくて優しい声が俺を包み込む。
このまま眠れば、きっと良い夢が見られるだろう。でも——
「……剣八さん?」
捲られていた布団を俺へ掛け直そうとした
優紫の手を捕まえる。長い間、布団の中で温められていた俺の手より
優紫の手は氷のように冷えていた。女は冷えやすいと聞くが、それだけじゃない。こんなに手が冷えるまで俺たちのために飯を作ってくれたり、掃除をしてくれたりしているのを俺は知っている。俺だったら布団の中でぬくぬくと苦労を知らずに寝ている奴がいれば斬りたくなるだろう。いや、それが
優紫なら俺は喜んで凍るまで手を冷やす。
手を握ったまま物を言わない俺を
優紫は不思議そうに見つめていたが、すぐに微笑んだ顔へ戻ると指を絡めて手を繋いだ。
「起きますか?」
繋いだ手をゆらゆらと揺らし、
優紫は俺の返答を待っている。
首を振って応え、布団の隅へと体を移動する。俺の隣に空いた空間をぽんぽんと叩くと、俺の意図を理解した
優紫は肩を揺らして笑った。
「お邪魔しますね」
俺が頷くのを確認し、
優紫は俺の隣に横になる。
優紫の肩まで布団をかけ、小さな体を抱き締めた。手と違って体は温かくて、ほっとした。
「剣八さん、あったかいです……」
俺の腕の中で身を預けている
優紫に愛おしさが増していく。
どれだけ寒くても小さくて華奢な体で俺に尽くしてくれる
優紫へ俺ができることは、これぐらいしかない。
優紫が安らいでいるのが伝わってきて、自分の心も満たされていく。
「このまま眠っちゃいそうです……」
「寝てもいいぞ。俺が起こしてやる」
「剣八さんは寝ないんですか?」
「ああ」
じゃあどうして布団の中に入ったままなのだ、と言いたそうな
優紫が首を傾げた。答えが知りたそうに上目遣いで、じっと見つめられる。
(かわいい……)
ついさっき俺の頭を撫でてくれていたように
優紫の頭を優しく撫でる。しなやかで手触りが良いさらさらの髪が指に絡んで気持ち良い。ずっと撫でていたくなってしまう。だが、今の俺には他にやりたいことがあった。
「
優紫の手が冷たかったから、温めたかっただけだ」
ひんやりと冷たい
優紫の手を自分の手で包み込む。俺の体温で温められている布団の中へ招き入れたが、
優紫の手はまだ冷たかった。
「まあ……ふふっ。そうなんですね、ありがとうございます」
嬉しそうに笑いながら包み込んでいる俺の手を優しい色の瞳で見つめていた。
(今日、休みで良かった……)
何も気にせずに
優紫との時間を過ごせていることにひっそりと感謝した。そして、寒いと言う理由で
優紫と好きなだけ引っ付いていられる冬にも感謝した。
冬はつとめて、とはよく言ったものだ。そういう意味じゃないと言われそうだが。
優紫が俺を見上げ、引き合うように目が合った。
「何かお礼をしないといけませんね」
「別に礼なんかいらねえよ。それに礼をしたいのは俺のほうだしな」
「剣八さんにはいつも『ありがとう』をいただいてますよ」
気持ちが伝わっているのは嬉しいが面と向かって、そう言われると少し恥ずかしさが込み上げてくる。
恥ずかしさから気を逸らすように目を伏せて
優紫の手の甲を撫でると、
優紫が口を開いた。
「では──」
優紫の顔が近付いてきて、唇が重なる。
温かくて、柔らかくて、愛おしい唇。
瞬く間に胸の中に多幸感が溢れてくる。
「……これがお礼、ということでお願いします」
優紫は頬を少し赤らめながら悪戯が成功した子供のように笑った。
(……かわいい)
もぞもぞと体を動かし、
優紫と距離を埋める。
「俺も、礼したい」
そう言ってみると
優紫は笑うと瞼を閉じた。じっと、俺の"礼"を待っている。
その様子もまた可愛くて、そのまま眺めていたかったが自分の欲望には勝てずに唇を重ねた。啄むように触れるだけの口付けを繰り返して温かな幸せに浸っていると、ふと疑問が一つ生まれた。
「……そういえば、やちるは? まだ寝てんのか?」
いつも
優紫とこうしていると、間に割って入ってくるやちるの姿が見えない。周りを見渡すが、転がり落ちてもいなかった。
「やちるちゃんは、朝ごはんを食べたらすぐに十一番隊舎へ向かわれましたよ」
俺の疑問に
優紫はそう返した。
俺が休みならば、必然的にやちるも休みになる。女性死神協会の奴らのところへ遊びに行くことはあるが、やちるだけ隊舎へ向かうことはそうそうない。
「隊舎にか?」
「はい。十一番隊舎のお庭に剣八さんぐらい大きな雪だるまをつくるんだ、って張り切っていました」
「雪だるま……?」
頭の中に浮かんでいるやちるの姿が雪の塊に変わった。
疑問ばかりの俺を
優紫はくすくすと笑う。
「昨日の夜から雪が降ってましたからね。たっくさん積もっていますよ」
なるほど、どうりで寒いわけだ。
*
優紫の手が俺の体温に温められころ、名残惜しかったが布団から出た。
優紫が作ってくれた飯を食い、やちるがせっせと作っているであろう雪だるまを見るべく、十一番隊舎へ向かうことになった。「大きな雪だるま楽しみですね」と笑う
優紫の声も弾んでいて、やちるのように
優紫も積雪に心を躍らせているのが伝わってくる。
冬物の羽織に雪沓を履き、外出の支度を済ませる。玄関の戸を開くと真っ白な世界が広がっていた。誰にも踏み荒らされていない白がどこまでも続いている。そこには、やちるの足跡もない。きっと、俺らが家を出るまでに絶え間なく降っている雪が隠してしまったのだろう。陽の光を反射して輝いている白が眩しい。底冷えするような寒さが些細なことに感じた。
「……」
一つも汚れを知らない白が、まるで
優紫のように感じた。
俺が触れてはいけない白。
手を伸ばしてもいけない白。
自分と同じだと思ってはいけない白。
美しいと思ってはいけない白。
以前の俺なら何も気にも止めずにこの上を歩いていただろう。
今の俺は、この白を踏み荒らしてしまうことに気が引け、足を踏み留めている。
玄関先の敷石から足を降ろせずにいると
優紫がさくさくと音を鳴らしながら白の上を歩き、俺の前へ立った。
「行きましょう?」
微笑みながら手のひらを差し出される。
「……っ」
何故か、胸の奥がきつく締め付けられ、言葉が出なかった。
だが、苦しさは感じない。
これは、嬉しいだ。
優紫の手を取ると、寝起きに握った手よりも温かかった。
一歩、足を踏み出し白の上に足を置くと、さくっと音を立てながら足が沈んでいく。
優紫は俺の手を握って、嬉しそうに笑っていた。
目に映る白の輝きは、全く損なわれていなかった。依然として、この世の美しさを教えてくれている。
良いんだ。
俺が触れても、知っても、美しいと思っても良いんだ。
優紫が雪に足を取られて転んでしまわないようにしっかり握り込み、
優紫と一緒にまっさらな白の上を歩く。
俺たちが歩くたびに白がさく、さく、と足元から聞こえてくる。その音が喜んでいるように聞こえてしまうのは、俺の勝手な思い違いだろう。
振り返ると、汚したくないと思った白銀の世界に俺と
優紫の足跡がくっきり残っていた。
「……」
「忘れ物ですか?」
その光景に目を奪われていると
優紫に尋ねられる。
「いや、違えよ。……だだ、この綺麗な雪が
優紫みてえだなって、思っただけだ」
「……私は、この雪を見て剣八さんのことを思い浮かべていましたよ」
俺の顔色を見て、俺が喜ぶようなことを選んで言っているわけではないことは優しく包んでくれるような笑みですぐに分かった。
「俺を?」
「はい。剣八さんに想いを告げていただいた時も今のように雪がたくさん積もって綺麗だったので」
「そうだったな……」
当時の記憶がまるで先程の出来事のように鮮明に思い起こされる。
あの日の雪も朝日を浴びて、輝いていた。誰かを愛することを知った俺を祝福していてくれたのかもしれない。なんて、鼻で笑いたくなるような臭い言葉が頭に浮かんだ。けれど、
優紫はきっと肯定してくれるはずだ。
「……なあ、
優紫」
「はい」
「好きだ」
あの日と変わらない気持ちを言葉にしてみた。
それを受け取った
優紫は目を細め、幸せそうに穏やかに微笑んだ。
「私も剣八さんのことが好きです」
当時の自分へ、そしてこの雪へ誓いを立てるように俺は
優紫へ口付けた。
その瞬間、俺たちを取り巻くすべてがゆっくり時が流れているような不思議な感覚に陥った。唇を離してもそれは少しの間続いた。
「……行くか」
「はい」
指を絡めて手を繋ぎ直し、俺たちは再び歩み始める。
しばらくして振り返ると、何も変わらず俺たちの足跡が並んでいた。胸に込み上げるものを俺は「嬉しい」と言う言葉以外で表現することはできそうにない。
隣を歩く
優紫へ視線を移すと、すぐに目が合い、微笑まれる。
これからも俺たちは、一緒にこの白を践むんだ。
終