すうっと、腕に抱えている花束の香りを嗅ぐと、ハーブのような爽やかさを纏った花の香りが胸の中に満ちた。そしてお米のように小さな花がほっと心を和ませてくれる。
「ありがとうございます」
花屋の店主へ礼を告げると、花のように癒してくれる微笑みをくれた。
「こちらこそいつもご贔屓にしていただいてありがとうございます」
ここは、元十二番隊のご夫婦が営む花屋さん。
この花屋では、それぞれの花に適した気候に設定できる特別な温室がある。そして花が美しく育つ肥料も扱っている。依頼をすれば、季節に関係なく様々な花が手に入ることで有名な花屋だ。私が受け取った花束──ライスフラワーの生花も本来なら今の季節は手に入らない。それでも、どうしても今日、この花が欲しかった私はこの花屋へ相談したのだった。
「苑枝様と才紫朗様への贈り物ですか?」
ここを訪れたのは初めてではなく、何度か訪れたことがある。いつも父や母への贈る花を依頼しているため、今日も店主からは父と母の名前が並んだ。
「いえ。今日は更木隊長に、と思って」
「更木隊長って、あの更木隊長ですか?」
「はい。十一番隊の更木隊長です。竜胆を頂いたのでそのお返しに、と思いまして」
更木隊長の名前を聞いた店主は驚いた顔をしていたが、私に花を贈ってくれたことを伝えるとすぐに柔らかい表情へ戻った。
以前、私は更木隊長から竜胆の花を貰った。偶然にもその日は、私の誕生日だった。更木隊長は私の誕生日だと何も知らなかったが、誕生日に更木隊長から花を貰えたことがとても嬉しかった。今思い出すだけでも、心が春の陽気のようにふわふわと温かくなってくる。
「きっと喜んでくださると思いますよ」
「はい、ありがとうございます」
そして今日は、十一月 十九日──更木隊長の誕生日だ。
*
今日は、隊首会だと聞いた。
以前、十一番隊舎へ訪問した時に門番をしていた十一番隊士と更木隊長に迷惑をかけてしまった。突然訪問すると、また迷惑をかけてしまう気がしたため、隊首会が行われている一番隊舎門の近くで更木隊長を待つことにした。
胸に抱えているライスフラワーの小さな花がそよ風に靡いて、揺れている。それが更木隊長が歩くたびに、ちりんちりんと鳴る鈴のように見えて自然ろ口角が緩んだ。
(……更木隊長、受け取ってくれると良いな)
あの日、私の目の前に花を差し出してくれたように、この花を差し出した時に更木隊長はどんな表情を見せてくれるのだろうか。とくとく、と想像すると胸の鼓動が少し早くなる。
私と同じように驚きながらも嬉しく思ってくれるのだろうか。
自分の都合の良いように頭の中には優しく笑ってくれている更木隊長の顔ばかり浮かんでくる。
「あれ〜? もしかして、その花は僕に?」
突然、声をかけられ、顔を上げた。
そこには目を細め、にこにこと陽気に笑っている京楽隊長が自身を指差しながら立っていた。
「花は女の子へ贈りたい派だけど、こうやって貰うのも悪くないねえ」
「これは──」
「何番隊の子かな?」
「よ、四番隊ですが」
「照れちゃって、可愛いねえ。是非、うちの隊に来て欲しいなあ。大歓迎だよ」
「え? い、いえ、あの……!」
駄目だ。訂正しようにも、すっかり京楽隊長の調子に飲み込まれている。
京楽隊長と目が合ったわけでもないのに何が原因で誤解させてしまったのかが理解できず、頭の中は疑問だらけになった。
「お礼に今からお茶でもどうかな?」
京楽隊長に恥をかかせるわけにはいかないが、差し出された手のひらにこの花束を渡すわけにもいかず、もちろん手を取るわけにもいかない。
「この花は——」
花束を強く抱えこんだ時、ガシッと大きな手のひらに京楽隊長の頭は掴まれた。私の方へ寄せられていた京楽隊長の顔は、私の正面から逸れて離れていく。
「……何やってんだ」
「ちょっと〜! 邪魔しないでよ、更木隊長!」
京楽隊長の頭を掴んだ大きな手の持ち主は、更木隊長だった。少し不機嫌そうに見える。
当然の更木隊長の登場に、思わず私は胸に抱えていた花束を反射的に背中に隠した。
「ボク、今デートに誘われてるところだったんだよ?」
「……」
眉間の皺を深くして京楽隊長を見下ろしていた更木隊長の首がぐるんと回る。京楽隊長の言葉の真偽を私へ確かめるように、じっと見つめられた。私が首を振ると、また首がぐるんと回り、京楽隊長を見下ろした。その目付きが、より鋭くなったように見えるは気のせいだろうか。
「違えみてェだぞ」
「ウブな子みたいだから、そうやって決め付けちゃうのは可哀そうだよ」
「その本人が違えって言ってんだ」
「またまた~。というか、こういうコトに興味なさそうな更木隊長がどうして……」
更木隊長にぞんざいに扱われても調子が崩れなかった京楽隊長の口が止まった。
「……」
「……?」
数度、私と更木隊長の顔を交互に見た後に、にこにこ——と言うよりにやにやという言葉が正しいような含んだ笑みを見せた。
「なるほどねえ……。先月の隊首会でおかしいと思ったんだよね。あの更木隊長が文句も言うことなく、やけに四番隊へ協力的だな、って」
京楽隊長が何について言及しているかは、すぐに分かった。
私が発案した四番隊と十一番隊で行う共同任務についてだろう。先月、卯ノ花隊長が隊首会で軽く報告したと言っていたから、京楽隊長の耳に入っていることは確実だ。
「……何が言いてェんだ」
「ううん、何も」
京楽隊長はますます楽しそうに笑っている。
「ただ、やっぱり良いものだと思ってね」
「何がだよ」
「やだなァ。とぼけちゃってー」
京楽隊長は更木隊長に向かって片目を閉じると、更木隊長は苦い顔をして不愉快そうにしていた。
今回は私も京楽隊長が言いたいことが分からずに首を傾げると、京楽隊長は冗談を流すように空を払う仕草を見せる。
「更木隊長が口を割ってくれないから、ますます君に色々と話を聞きたくなっちゃったなあ」
再び京楽隊長の顔が寄ってくる。更木隊長がまたその顔を掴もうとしている気配を感じたが、それよりも早く京楽隊長の顔が勢い良く弾かれた。バシン、と良い音が辺りに響く。
「痛いよ〜! なにするの、七緒ちゃ~ん」
赤く腫れてしまった頬を撫でながら、京楽隊長は涙を溜めている。
「油を売っていないで、さっさと帰りますよ。隊舎で書類が待っているんですからね」
京楽隊長の頬を叩いたのは、分厚い本を持っている伊勢副隊長。眼鏡の奥の瞳に更木隊長と同じくらい鋭い光を宿らせ、京楽隊長に冷たい目を向けている。
「そんなあ! 隊舎に帰ったら、まずお茶しようって話だったでしょ?」
「さあ、何のことでしょうか。休憩ならもう十分取られていたように見えましたが」
「ちょーっと立ち話してただけじゃない!」
伊勢副隊長は呆れたように小さく息をつくと指先で眼鏡を持ち上げ、私たちへ向き直った。
「更木隊長に
春宮さん、お邪魔して申し訳ございませんでした」
「……私の名前、」
「はい、存じています」
異隊に属しており、今までこれといって関わりもなかったはずだが、伊勢副隊長に名を呼ばれて驚いてしまった。私が零してしまった言葉を拾った伊勢副隊長は、凛とした表情から柔らかい微笑みに変わった。
伊勢副隊長は相当優秀で、入隊試験も早期に受けたと聞いた。八番隊では執務関係の仕事の大部分は、伊勢副隊長が切り盛りしているらしいが、まさか他隊の一般隊士の顔と名前まで頭に入っているのだろうか。
「それでは、私たちは失礼いたします」
「お、お疲れ様でした……」
伊勢副隊長は凛とした表情に戻ると頭を下げ、綺麗な礼をした。私もそれに慌てて礼を返すと、伊勢副隊長は再び京楽隊長へ冷たい目を向ける。
「さあ、帰りますよ。いつまでもそこで道を塞がないでください。邪魔です」
「ひどい! 待ってよ、七緒ちゃ~ん」
躊躇いなく歩を進める伊勢副隊長を京楽隊長が追いかける形で二人は、私たちの前から立ち去った。
「……」
「……卯ノ花ならまだ総隊長と話してたぞ」
私たちの間に少し流れた沈黙を更木隊長が破った。
「あ、違うんです! 私は更木隊長に用がありまして……」
「俺に?」
「は、い……」
背中に隠し続けている花束を更木隊長へ渡そうとした時に、更木隊長の手に青い紐で蝶々結びをされている小さな包みが目に入った。その瞬間、冷たい水をかけられたように心がひんやりと冷たくなる。
「……これは、浮竹に貰った。貰ったというより無理やり握らされた。いらねえ、って言ったのに」
私の視線に気付いた更木隊長は、それが手にある理由を教えてくれた。中身は駄菓子が入っているように見える。興味なさそうにそれを眺めた後に、更木隊長はそれを懐へと収めた。
更木隊長は、きっと嘘はついていない。
浮竹隊長も私と同じように誕生日の贈り物を更木隊長に贈ったのだろう。贈り主が浮竹隊長だと分かると心から冷たさはなくなっていく。ほっと胸を撫でおろしてしまうが、なぜ自分が安堵しているのかも分からない。
更木隊長が周りの人から祝福を受けているのは喜ばしいことなのに。
更木隊長の交友関係に口を出す筋合いは私にはないのに。
「それで俺に用ってなんだ?」
「あ、はい……!」
色々な出来事に、すっかり崩されてしまった調子を取り戻すために小さく深呼吸をする。更木隊長はその間、不思議そうにしながら私を見つめていた。
「更木隊長、お誕生日おめでとうございます」
隠していた花束を差し出す。更木隊長は目を丸めて、さらに不思議そうな顔になった。
「……知って、いたのか?」
「はい」
「誰から聞いたんだ?」
「少し、ずるをしました」
「ずる?」
「はい。四番隊にある更木隊長のカルテを拝見したので……」
一度も更木隊長の口から聞いたことがなかった誕生日を私が知っている理由を聞いた更木隊長は、納得したような表情を見せる。
「……」
私が差し出している花をじっと見つめ、口を開く。
「……これ、俺が……貰って良いのか?」
眉間を寄せて呟いた声には、戸惑いとほんの少しの喜びが混ざっているように感じた。
「はい。いつもお世話になっていますので、ぜひ受け取ってください」
おずおずと近付いてくる更木隊長の両手へ、そっと花束を乗せる。手に渡った花束に胸がどきどきと大きく高鳴り始めた。
「このお花はライスフラワーと言います」
「らい、す……?」
「更木隊長のお花なんですよ」
「俺の……花?」
「はい。誕生花、と言って一日一日にその日を象徴するお花が割り当てられていて——更木隊長のお誕生日はこのお花なんです」
私が抱えていたように、更木隊長は丁寧に両手でライスフラワーの花束を抱えている。その様子が可愛らしく見えて、つい頬が緩んでしまう。
「ライスフラワーは、お米の花という意味なんです。この小さなお花がお米みたいで、そう言われているんですよ」
更木隊長の腕にあるライスフラワーを指先でつつくと、笑うように小さく揺れている。私を真似するように更木隊長も遠慮がちに指先で花をつんつんとつついた。
「確かに米粒みてえに小せェ花だな」
「だから、それにちなんでこのお花には『豊かな実り』という言葉が込められているんです」
ぱちぱちと瞬きしながら、きょとんとした表情で私を見つめる。
「更木隊長の毎日が豊かな実りあるものでありますように」
「……ありがとう」
微笑みと一緒に言葉を贈ると、更木隊長はきゅっと結んでいた唇を緩ませて微笑んだ。
その笑みからは、嬉々とした更木隊長の感情が伝わってくる。
(お花、喜んでくれて良かった……)
花を選んだのは、ただの私の自己的な考えだった。もっと更木隊長の趣味に合った物を贈ったほうが良かったかもしれないが、更木隊長の微笑みにその迷いは一切なくなった。
「
春宮はいつが誕生日だ?」
「私はもう更木隊長に祝っていただいたのでお返しは大丈夫ですよ」
「……俺が?」
私の返答を聞いて、更木隊長は不思議そうに首を傾げていた。くすくすと私が笑うと、更木隊長はさらに首を傾げる。体勢を崩して、そのまま頭から倒れてしまいそうだ。
「竜胆を贈ってくださったことを覚えていますか?」
「……あ、ああ」
更木隊長は少し照れくさそうにしながら頷いた。
「竜胆をくださった日が、私の誕生日だったんです」
「そう、だったのか……」
本当に偶然が重なっただけの出来事。
あの日の更木隊長は私に豊かな幸福をくれた。
更木隊長の手に渡った花は、未来にどんな実りをもたらしてくれるだろうか。
更木隊長が穏やかに微笑みながら花束を大事そうに抱えており、口角が自然と上がってくる。
「なあ」
まるで愛おしい人へ向けるような瞳で花を見つめていた更木隊長の瞳が私へと向けられた。
どきり、と胸が大きく跳ねる。
「どうやったら花は枯れないんだ?」
更木隊長は私をじっと見つめ、返答を待っている。
好みも価値観も違うのに、こうして私の好きなものを受け入れて、歩み寄ってくれるのが嬉しい。
「長い間、お花を楽しむには——」
これからも、こうして、少しずつお互いのことを知っていければ良いな、と心の奥で思ってしまう。
私の説明を更木隊長は興味津々に聞きながら、静かに頷いていた。
「俺が
春宮に渡した花も、そうやって世話してたのか?」
「はい。綺麗に咲いて、私の日々を豊かにしてくれてました。少し手間はかかりますが、その分長く楽しめますよ」
「……分かった、やってみる」
真剣な表情で更木隊長は最後に一つ頷いた。そして、忘れないように私が伝えたことを指折りで復唱している。
そんな姿を見ていると、花が咲いてしまいそうなほどの温かさが胸の中に満ちていくのを確かに感じた。
人と人の心を結んでくれる花は、やはり良いものだ。
終