桜は私にとって特別なものだ。
私の実家の庭には大きな桜の木がある。尸魂界で一番大きな桜の木だ。それは、私が産まれる前からそこにあった。幼い頃から何度も見上げてきた桜の木。幼いながらにその美しさと儚さに惹かれた。春にならねば花は咲かないが、嬉しい時、悲しい時、楽しい時、苦しい時、いつも桜の木は私の傍にあった。そこにあるのが当たり前の存在。だから、「なぜそれがそこにあるのか」という疑問も思い浮かばなかったのかもしれない。それほど桜の木は私にとって、まるで家族のような特別な存在だった。
その桜の開花と共にこの春、私は護廷十三隊へ入隊する。
念願が叶い、憧れだった四番隊へ配属された。既に除隊しているが、私の父は四番隊で副隊長として活躍していた。その姿を幼い頃から見ていた私が憧憬の念を抱くのに、そう時間はかからなかった。両親は自分の好きな道を歩くようにと、常々私に優しく言い聞かせてくれていたが、「父と同じ道を目指したい」と両親へ打ち明けた時の二人の嬉しそうな表情を私はきっと忘れないだろう。
そんな大切な思い出を思い返しているうちに、虎徹副隊長が入隊式の閉会を告げた。式の間に別のことを考えてしまっていた私は、虎徹副隊長のよく通る声にピンと背筋が伸びる。
(院生気分は終わりなんだから、しっかりしないと……)
式の後は一年間行動を共にする同期たちの班分けが発表された。一年間私たちの教育を担当する先輩と、一年間苦楽を共にする仲間たちと顔合わせを行う。業務内容の簡単な説明と救護鞄が支給され、昼頃には解散となった。
先輩たちはまだ仕事をしていたため、邪魔にならないように早く帰宅する必要があった。しかし、自分の冒険心に勝つことができなかった私はこっそりと少しだけ見学して帰ろうと隊舎内を周り歩くことにした。
過去に、父に連れられて四番隊の隊舎内を歩いたことはある。一度見たことがある景色だが、これからはじまる新しいことへの期待感からか全く違う景色に見えた。診察室、処置室、執務室、武道場、食堂、仮眠室。ここを目指し、真央霊術院では必死に日々勉学に励んでいたが、ここが明日から自分の生活の一部になるのだと思うと不思議な気持ちだった。実感が今一つ湧かず、まるで目を開けたまま夢を見ているようだった。
曲がり角を曲がると中庭へと辿り着いた。そこには立派な大きな桜の木が根を張っており、私の新しい門出を祝福するかのように美しく咲き誇っていた。息をするのも忘れ、目を奪われる。
ふわりと春風にそよぐ桜の花弁が、私の心の中に舞い込んでくる。
「まあ」
鶯のように耳触りの良い声が聞こえた。
桜の木から目を下ろすと、そこには一人の女性の姿があった。体の前で編み込んでいる長い黒髪をそよ風に靡いている。優しくこちらに微笑んでいるその女性は、私の憧れであり、惟一人こうありたいと願う人。
「う、卯ノ花隊長! 申し訳ございません……!」
自隊の隊長の存在に気が付かず、挨拶もすることなく桜に見惚れてしまっていた。「しっかりしないと」と自分を戒めたはずだったが、やはり院生気分が抜け切れていない自分を恥じた。
「謝る必要はありませんよ。美しい桜に見惚れるのは、何もおかしなことではありませんからね」
自分の言動を見透かされていることに余計に恥ずかしくなってしまい、赤くなってしまった顔を隠すように顔を伏せる。
「せっかく、桜の木の下にいるのですから頭を下げるのはもったいないですよ」
「は、はい……」
顔を上げると、静かな森の中にある湖のように深く美しい青藍の瞳に私が映った。
「
春宮優紫さん、あなたのことをずっと待っていましたよ」
「ありがとうございます……」
幼い頃に父と一緒に四番隊へ訪れた以外にも、卯ノ花隊長と何度か顔を合わせたことはある。父も母も卯ノ花隊長と親しい間柄だったため、実家に卯ノ花隊長が訪れることも多かった。しかし、霊術院に入ってからは全くそういう機会はなくなっていた。霊術院で回道の講義を卯ノ花隊長が受け持つことは数回あったが、どれも自分の組ではなかった。
もう何十年と会っていなかったため、成長した自分の姿に気付かれないと思っていた。しかし、幼い頃の記憶と何も変わらず、卯ノ花隊長は包み込むような優しい笑顔で私を見つめている。
「あなたの噂は、よく耳にしていましたよ」
「……悪い噂ですか?」
「まさか。どれもあなたを称賛する良い噂ですよ」
「そんな……! 私なんて、まだまだです……!」
何度も首を横に振り、否定している私に卯ノ花隊長は緩く握った拳で口元を隠し、くすくすと肩を小さく震わせて笑う。その姿はとても気品に溢れていた。
「今の
優紫さんを見ていると、あなたのお父様の若い頃を思い出します。あなたもお父様のように素晴らしい死神になるのでしょうね」
「……確かに父は、娘の私も自慢したくなるほど素晴らしい人です」
卯ノ花隊長は微笑んだまま、ゆっくりと相槌を打つ。
「でも……だからと言って、私が優れているわけではありません。私にはまだ何もありません。精進して、自分だけのものを見つけます」
私の言葉に卯ノ花隊長は、すべてを受け入れてくれるような穏やかな顔で微笑んだ。
「もうあなたは十分優れた人ですよ。でも、あなたの成長が楽しみです」
「ありがとうございます!」
「
優紫さん。あなたはこれからいろんな経験をするでしょう——」
卯ノ花隊長は瞼をゆっくり閉じた。自分の過去を思い浮かべているのだろうか。
「楽しいことばかりではありません。もちろん背を向けたくなるほど辛い経験も。しかし、決して足を止めてはなりません。苦しくても、悔しくても、辛くても、少しずつで良いのです。前へ足を出しなさい」
卯ノ花隊長の言葉が胸に深く響く。神に天命を授かっているような気分だった。そんなことを言ってしまえば、きっと卯ノ花隊長に笑われてしまうだろう。
「あなたの強さをしっかり見つけ、磨いていきなさい。必ずそれはあなたの武器となり、あなたの進む道の助けとなるでしょう」
私に指標を与え、気持ちを突き動かすその姿は正に護廷十三隊の隊長だった。
「はい! 父が私の誇りであるように、私も父の誇りになります。そして、卯ノ花隊長の誇りにもなります!」
私の言葉に卯ノ花隊長は目を細め、春の日差しのような微笑みを浮かべた。
「卯ノ花隊長の元で強くなります。身も心も。……今は、卯ノ花隊長の賛辞を素直に受け止めることができませんが、必ず胸を張って受け止められるようになってみせます!」
暖かい笑顔に胸の中へ優しく照らす光が生まれ、ようやく夢を歩みはじめる実感が湧いてくる。
「こんなところにいやがったかッ!」
そんな穏やかな空気を掻き消すように怒号が響いた。
「あら」
しかし、卯ノ花隊長は纏う空気を変えずにその声が聞こえたほうへと顔を向けた。私も卯ノ花隊長につられて、声の出どころへと顔を向ける。
「『あら』じゃねえよ! わざわざ地獄蝶を飛ばして、散々俺のことを呼び出した癖にこんなところで仕事サボってんじゃねえよ!」
そこには、特徴的な頭髪をした一人の男性がいた。
顔の左側には瞳を真っ二つに裂くように額から顎にかけて大きな刀傷があり、卯ノ花隊長と形状が違う袖のない隊長羽織を羽織っていた。右目は眼帯で隠されており、隠れていないもう一つの目は深い森のような緑色。その瞳で卯ノ花隊長を真っ直ぐ睨んでいた。穏やかな空気を纏う卯ノ花隊長とは、正反対に随分と大きな怒気を纏っている。
「その様子では、もう先日の怪我は大丈夫そうですね」
険悪な空気を漂わせているが、卯ノ花隊長はものともしない。
「だから言っただろうがッ! 傷はもう目に見えねえぐれェ綺麗さっぱりなくなったから、ここには来る必要はねえって!」
男性はそんな卯ノ花隊長にますます腹を立て、声をさらに荒らげた。
「あなたの『大丈夫』は、一番信用になりませんからね。ですので、自分の目でしっかり見定めなければなりません」
「当の本人が大丈夫って言ってんだから、大丈夫に決まってんだろうがッ!」
「そんなことを仰って……その怪我を負った時に『大丈夫だから構うな』と私たちの治療を拒み、散々暴れ回った挙句、倒れてしまったのは一体どこの誰でしょうかね?」
「倒れてねえだろ。意識はあっただろうが。……体が動かなくなっただけだ」
「それを世間一般的には、『倒れた』と言うのです」
「……チッ」
二人とも自分の意見を譲る様子はなかった。だが、言い返しても言い返しても言葉が返ってくることに観念したのか男性は大きく舌打ちをし、卯ノ花隊長から顔を逸らした。その様子を見た卯ノ花隊長は幼い子を見守る母親のような表情を浮かべ、小さな声をもらして笑っていた。それに再び腹を立てたのか男性はもう一度こちらに視線をやり、大きく口を開いた。しかし、そこから言葉は出てこない。先程は全く合わなかった視線がしっかりと私に合っている。
「……」
「私の隊の新入隊士です」
男性が何を言いたいのかを察した卯ノ花隊長が私に目をやりながら、そう言った。
「新入隊士?」
男性は語尾を上げ、卯ノ花隊長の言葉を繰り返した。
じっくり品定めをするように見つめられ、私はぎこちなく頭を下げる。
「あなたの隊も本日、入隊式があったでしょう? あなたの隊にも新しい隊士たちが配属されたはずですよ」
「……ああ。そういえば、そうだったな」
少し間をおいて、小さく呟く。あまり興味がなさそうな雰囲気だ。
「その様子では、またお昼寝でもされて、お仕事をサボっていらっしゃったようですね」
「一々うるせえなァ、あんたは」
「可愛い私の部下ですので、くれぐれも虐めないでくださいね」
「誰が虐めるか」
「あなたに他意がなくとも、その垂れ流しの霊圧は一種の暴力ですから」
卯ノ花隊長のその言葉に男性は眉間の皺を深くした。
「ハッ。もうここには来ねえから安心しろ」
「私もそれを願っています」
「あんたが見たがっていた具合とやらは分かっただろ。俺は帰るからな」
「あなたの生命力には、いつも驚かされます。それでは、お気を付けてお帰りください」
ふん、と鼻を鳴らし、男性は身を翻す。それと同時に鈴の音が聞こえた。
音の出どころを探すと、男性の特徴的な髪の毛の先に小さな鈴がくくりつけられていた。歩く度にその鈴が揺れ、音が鳴る。大きく乱暴な足音と、可愛らしい鈴の音。そんな、あべこべな組み合わせに思わず和んでしまった。
「
優紫さん、大丈夫でしたか?」
「え?」
「あの人の近くにいるだけでも、あの霊圧で気分を損なう方が多いですから。それで声が出なかったのでしょう?」
心配そうな表情を浮かべた卯ノ花隊長は、私の背を優しく撫でた。
「いえ。そういうわけでは、ないのですが……」
先程の会話で卯ノ花隊長は、『垂れ流しの霊圧は一種の暴力』と言っていた。確かにその垂れ流しの霊圧は感じたが、気分が悪くなってしまうようなことはなかった。ただ、緊張してしまって感覚が鈍っていただけかもしれないが。
「黙ったままで自己紹介をしなかったのは失礼でしたよね。卯ノ花隊長と同じ隊長様ですし、今からでも追いかけて挨拶を——」
驚いたように卯ノ花隊長は少しだけ目を見開く。
なぜ、卯ノ花隊長がそんな反応をしたのかが分からず私は首を傾げた。だが、卯ノ花隊長はすぐにまた微笑む。
「あの方は、すぐにそんな些細なことは忘れてしまうから平気ですよ。それに、そういう畏まったものは好まない方ですからね」
「……そう、ですか」
私はまだ微かに聞こえてくる鈴の音のほうへ顔を向けた。
春風に靡く白い隊長羽織。その背中には、十一という数字が刻まれていた。
続