川で獲った魚をその辺に散らばっていた乾いた木の枝に刺し、ぱちぱちと音を立てて炭の香りを漂わせている焚き火にかざす。
日が落ち、薄暗くなった辺りを照らしている暖かな炎の明かりが揺れ動く中、今日の晩飯が少しずつ焼けていく。
「ほら。焼けたぞ、やちる」
魚に火が通ったのを確認し、涎を垂らし指を咥えながら魚が焼ける様子を見ていたやちるへ差し出した。火傷しないように念のため、木の枝の温度も確かめた。やちるは、にこにこと笑いながら大きく口を開いて小さな手で受け取る。
「けんちゃん、あいあとー!」
「冷ましてから食えよ。じゃねえと、前みたいに火傷するぞ」
「あい! いたらきまーす!」
やちるは大きく空気を吸い込み、息を何度か吹きかけるとパクリと魚に齧り付いた。まだ熱かったのか、「はふ、はふ」と言いながら咀嚼している。
そんなやちるを尻目に、もう一つの焼いていた魚を俺も手に取る。ほくほくと湯気を放っているそれに息を吹きかけ、一口齧り付く。冷ましきれなかった熱が心地良い痛みを伴い、口の中へ広がっていく。適当に捕まえた魚だったが、身がしっかりとしている。味付けも特に何もしていないが、脂が濃厚だった。咀嚼し、もう一口食べようと口を開くとやちるがこちらを凝視しているのが目に入った。目が合うと、にっと歯を見せて笑う。
「おいちーね!」
「……ああ。骨、気を付けろよ」
「あーい!」
そのまま俺たちは黙々と魚を食べ続けた。
「ごちしょーしゃま! けんちゃん、あいあとー!」
やちるは魚を平らげ、満足げに口元を緩ませている。
最近、やちるはよく喋るようになった。まだ稚拙な話し方だが、話しかけて言葉が返ってくることに自分の心を埋めてくれている感覚があった。
やちるは俺が教えていないはずの言葉も使い、もう既に俺より多くの言葉を知っているかもしれない。
「『あいあとー』って何だ?」
最近、やちるはその言葉をよく使う。
「ばあばがねー、おちえてくりぇたのー。おいちーものもりゃったらー、あいあとーっていうんだって!」
やちるの言う"ばあば"とは、最近出会った婆さんのことだ。
強く吹雪く日が続いた冬に、食料を求めて俺たちは彷徨い歩いていた。雨風がしっかり凌げる家も持たずに、その日暮らしのような生活をしていた俺たち。気温も下がり体力を奪われ、動物も冬眠し、果実も実らない冬は厳しかった。食料を求めて色々な地区を移動した。そんな中、適当な場所で雪を凌いでいる時に婆さんと出会った。婆さんは何も言わずに俺たちへ衣食住を提供してくれた。久々に食べた温かい飯に宿。やちるは、婆さんにすっかり懐いてしまい、冬が終わった後も時折婆さんの元へ訪れるようになった。やちるが話すようになった新しい言葉のほとんどを婆さんが教えている。
「そうか……」
「そー! だからけんちゃん、あいあとー!」
「……ああ」
やちるは満面の笑みを俺に向けた後に、くわっと大きな欠伸を一つもらしていた。
その翌日。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「わー! いたらきまーす!」
やちるにせがまれ、婆さんのところを訪れていた。急に訪ねて来ても拒むことなく、嬉しそうにやちると話をしながら婆さんはいつも料理を振る舞ってくれる。
「ばあば、あいあとー!」
「どういたしまして。まだたくさんあるから好きなだけお食べ」
「あーいっ!」
婆さんは目尻に皺を乗せて笑いながら、やちるの頭を撫でた。やちるも嬉しそうに笑い、真剣な顔で箸を持つとまた笑顔で食べ始める。
「……」
目の前には、俺には作れない手間のかかった料理が並んでいる。
俺たちが手に入れられない白飯。芋の煮物と葉物野菜。ただ空腹を満たすだけの食べるという行為が、婆さんが作る料理だと五感を使って楽しむ"食事"というものになる。
──おいちーものもらったらー、あいあとーっていうんだって!
料理に手を付ける前に、婆さんへ視線を送ると気付いた婆さんが俺と目を合わせた。
「……あいあと」
その言葉を口に出した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。この妙な照れくささは、戦いの中ではもちろん感じたことがない。
婆さんが面食らった顔で固まっており、一瞬何かを間違えたのかと不安になった。やちると同じ言葉をちゃんと言えたはずだ。
「……ぷっ、あははっ!」
そして、そんな俺を置いて婆さんは吹き出して大きな声で笑い始める。なぜ婆さんがそんな反応をしたのかが分からず、眉間に皺が寄る。やちるのほうへと目を向けると、米粒を付け口角を上げて笑った。
二人が笑っている理由が分からず、俺はただ首を傾げるしかなかった。
*
「ふふっ」
優紫は声を抑えて笑っていたが、堪えきれずに小さな笑い声で控えめに笑い始めた。
「まさかそんな可愛いことを言ってくれるなんて思ってなくてね」
「剣ちゃん、やちるの真似したんだよー!」
「本当に、可愛いですね」
夕飯を食べるために、今日は婆さんが経営している"ひととせ食堂"にやちると
優紫と訪れている。
机の上に並んだ料理を見たやちるがふざけて「あいあとー!」と言ったことで、「懐かしいねえ」と婆さんは笑いながら俺が忘却の彼方に追いやりたい昔話を始めたのだった。
「……やちるが美味しい物を貰った時に言う言葉だって言うから、『ありがとう』とは別の言葉かと思ったんだよ」
「ふふっ。私も聞いてみたかったです」
優紫は俺を見つめ、肩を揺らしながら笑っている。くりくりと丸くさせている
優紫の期待する可愛い目に、顔の温度が上がり始めた。そんな目で見られても、恥ずかしてとても言えるわけがない。
「もう良いだろ、その話は。それにもう忘れろって言ったはずだぞ」
「ははっ。忘れたくても可愛くて、とても忘れられないよ」
「……」
「更木隊長が怖いから私は自分の仕事に戻ろうかねえ」
諸悪の根源──は、言い過ぎかもしれないが軽く睨み付けると婆さんは厨房に戻って他の客を饗す準備をしていた。
俺をからかっていた婆さんがいなくなっても変わらず赤い頬を、机に頬杖をついて隠す。
「あーっ! 剣ちゃん、ぶっぶー! 頬杖をついて食べちゃダメなんだよー!」
やちるに指を差されながらそんなことを言われてしまい、腕を下ろすしかなかった。赤い顔を隠す術がなくなり、目を逸らそうとした時に
優紫は口を開いた。
「やちるちゃんの世界を剣八さんが創っているように、剣八さんの世界もやちるちゃんが創っているんですね」
優紫は穏やかに顔を綻ばせ、優しく微笑んでいた。その言葉を聞いたやちるも同じような顔で笑っている。
俺たちは、出会った時から行動を共にしてきた。昔のことを思い出すと、必ずそこにはやちるがいる。
「今は
優紫も、だろ?」
やちると創った世界を、
優紫は彩ってくれている。まるで世界が変わったかのような美しさを色々なものから感じる。でも確かに、俺たちが生きてきた世界だ。生きることが、楽しいと思ったのはきっと
優紫に出会ってからだ。
「……あいあと」
俺がぽつりと落とした言葉は、しっかりと
優紫に届いたようだった。嬉しそうに笑った
優紫を見ていると、あの日のように胸の奥からじんわりと熱くなり、照れくささが込み上げてくる。
「ふふっ。あいあと、です」
優紫は俺と同じように赤く染めた頬をふっくらとさせて微笑んでいる。
「あたしも、あたしも! 剣ちゃん、
優ちゃん、あいあとー!」
「はい。やちるちゃんもあいあとー、です」
「うんっ!」
二人は顔を見合わせ、同じように頬を綻ばせた。
「やちるちゃん」
「なあに?
優ちゃん」
「他にも剣八さんの可愛いお話はありますか?」
「んーとねえ……なにがいいかなあ〜」
やちるは顎に人差し指を当てると、斜め上を見上げて話題を見繕い始める。
「もう良いだろ、俺の話は。早く食わねえと飯が冷めるぞ」
二人は「はーい」と声を揃えて返事をするが、「剣ちゃんに怒られちゃったね」「ですね」と顔を寄せて小声で楽しそうに話をしていた。
心が落ち着かない気恥ずかしさを拭えぬまま、俺は飯を食うために一人で合唱をする。
「剣八さん」
名を呼ばれ、顔を上げると
優紫の優しくて穏やかな瞳が俺を包み込んだ。この瞳にずっと俺を映して欲しい。
「剣八さんのことをもっとたくさん知りたいので、あとで剣八さんのお話を聞かせてくださいね」
彼女の世界も、俺たちが色付けていけたら──そんな想いを抱きながら、頷いた俺は静かに箸を持ち上げた。
終