カンッ。ガッ。
軽い音、重い音が不規則に道場へ響く。
俺が持つ木刀と対峙している一角が持つ木刀がぶつかり合う音。
俺に押されながらも攻撃を受け止め、心底愉しそうに笑う一角にゾクゾクと歓喜で体が震える。その震えさえも愉しみながら木刀を強く握り込み、一角へ振るう。すかさず、木刀で受け止められる。
だが、その衝撃で音を立てて勢い良く一角の木刀が折れた。
「あ……!」
折れた木刀がぐるぐると高速で回転しながら俺の顔面に目掛けて飛んできた。
それを左手で掴み、顔の前で止める。掴む場所が悪かったのか、手のひらに僅かな痛みが走った。液体が手首を伝う感覚があったかと思えば、ぽたりと床に赤い水滴が落ちる。
「……」
「すんません! 隊長!」
手を広げると、手のひらに木刀が突き刺さっていた。木刀を引き抜くと、折れてしまったことでできた木のささくれが手のひらにいくつも自立していた。大きいのやら小さいささくれが深く突き刺さっており、赤い水滴ももちろんここからの出血だ。
「あー……これは血止め薬塗る前に、ちゃんとささくれを綺麗に取らないとだめっスね……本当にすみませんでした」
一角は俺の手のひらを覗き込むと、頭を下げながらそう言った。
「ここじゃあ、道具がないんで俺が四番隊の奴を──」
「四番隊へ行ってくる」
「……え? あ、はい。……お願いします」
持っていた木刀を呆けている一角へ手渡し、俺は道場を後にした。
「なあ、弓親。最近の隊長って自ら進んで四番隊行くよな……何かあったのか?」
「……さあ? 僕は何も知らないよ」
*
(何か、手拭いとか巻いたほうが良かったか……?)
手のひらの傷口からは、まだ血液が溢れ出ている。下にさげて歩いてしまえば、また床にこぼれ落ちてしまう。手のひらを上に向け、そこにぷっくりと溜まってくる血液を眺めながら隊舎の廊下を歩く。すると、視界の隅に見慣れた桜色が見えた。手のひらから目を移すと、庭にやちるがしゃがみ込んでいた。足を止め、その背中に視線を送ってみるが依然とこちらを振り返る気配はない。
「やちる」
「んー? どうしたの? 剣ちゃん」
声を掛けるが振り返りもせずに生返事が返ってくる。
「何やってんだ」
庭に降りてその背中の後ろにしゃがみ込み、覗き込む。何に夢中になっているのかと思えば、庭の花壇に咲いている花だった。
「昨日は咲いてなかったから、見てたの!」
鐘型の大きめの花弁をもつ花が空へ向かい、いくつも咲いている。やちるより少し濃い桜色の色をしている花の名前は、俺には分からない。俺もやちるを真似て、じっと花を見つめてみる。だが花を眺めて何が楽しいのかは、やはり理解できなかった。
ふいに、やちるが鼻をスンスンと鳴らし始める。
「血の匂いがする」
やっと、振り返ったやちると目が合った。
「剣ちゃん、怪我したの?」
「ああ」
頷いて返事をしたと同時に、やちるは俺の手のひらを指差して「あ! 発見!」と声を上げる。
「これから四番隊、行くの?」
「ああ」
やちるは満面の笑みになり、花へ向き直ると花の茎を手折って摘み始めた。まるで草を毟るように無遠慮に摘んでいるが、これは庭師が手入れしているはずの花壇だ。「おい、良いのか?」と声を掛ける暇もなく、その花を俺に差し出した。
「じゃあ、はい! あげる!」
やちるは、相も変わらず満面の笑みを浮かべている。怪我をしていない右手を出すと、その手にぐいっと花を握りしめている小さな手を押し付けられた。手を握り、花を受け取る。俺の手に渡った花を見て、やちるは口角をさらに上げて笑った。
こうして、やちるに何かを手渡されるのは初めてではない。今日のようにその辺に咲いていた花や、道に落ちていたどんぐりや松ぼっくり、食べている金平糖。俺が受け取るといつも満足そうに笑うが、今日はその顔がいつもより嬉しそうに見えた。
「……」
「いってらっしゃい!」
「……行ってくる」
「うん!」
やちるは俺に手を大きく振ると、また花に向き直った。すると今度は、せかせかと地面を這う蟻に夢中になり始めた。
俺はそんなやちるに背を向け、当初の目的地へと向かった。
*
「ざっ、ざ、更木隊長……!? お、お、お疲れ様です……!」
門番をしていた隊士が後ずさるのを尻目に四番隊舎の門をくぐる。すると、それとは別の柔らかい声がすっと耳に入ってきた。
「更木隊長、お疲れ様です」
春宮だった。
箒を手に、俺へ微笑みを向けている。庭の掃き掃除をしていたらしい。いつもは適当な隊士を捕まえて
春宮の居場所を聞いているが、今日は探す手間が省けた。
「いかがされましたか?」
目尻を下げながら優しく微笑む
春宮に近付く。
そして——
「……」
「……」
左手のひらの傷口を見せるつもりだった。
だが、自分の視界に映ったのは赤く染まった左手ではなく、小さな花束。そして、目を丸くして驚いている
春宮の顔。
俺はやちるから手渡された花を持つ右手を、無意識のうちに
春宮へ差し出していた。驚いて目を瞬かせる
春宮の姿が視界に入り、胸に小さな焦りが広がっていく。勝手に動いた自分の腕に、どうしてこんなことをしたのかと自分へ問うが、答えが出でくるわけがない。しかし、出したものを今更引っ込めるわけにもいかなかった。
「……お花?」
春宮は口を小さく開き、ぽつりと辺りの雑音に溶けていってしまいそうな声で呟いた。そして、少しだけはっきりとさせた声で言葉を続けた。
「頂いてもよろしいのですか……?」
「……あ、ああ。……その辺に咲いてた花だけどよ」
俺が頷くと
春宮は両手に持っていた箒を自分の体へ立てかけるようにし、俺の手にゆっくり手を伸ばした。俺の右手を両手で包み込むようにして、花は
春宮の手へと渡る。触れ合った手から脈が早まっていくような感覚に少しだけ落ち着かなさを感じた。しかし、
春宮の顔と花が並んで目の前にあることが不思議と心地よく思った。
春宮は花へ顔を寄せ、香りを嗅ぐと頬を綻ばせる。そして、長い間大事にしてきた宝物のように胸へ優しく抱き寄せ、俺と目を合わせた。
「ありがとうございます」
頬をほんのりと赤く染め、目を細めて柔和に笑う
春宮の顔に今度は心臓が落ち着かなくなってくる。
春宮の顔から手元の花に目を移し、何とかそれをやり過ごす。
「思い入れのあるお花なので、とても嬉しいです」
「思い入れ……?」
春宮も花へと目を移し、穏やかな顔で見つめていた。
「はい。これは竜胆という名前のお花で、私にとって大切なお花なんです」
そう言いながら
春宮は指先でそっと花弁を撫でると、鐘型の花がゆらゆらと揺れていた。花には俺らのような表情はないが、喜んで笑っているように見えた。俺が手に持っていた時よりも嬉しそうだ。
「……そうか」
「はい。ありがとうございます、更木隊長」
また
春宮と目が合う。花へ向けられていた穏やかな顔が俺に向けられる。次第に気恥ずかしさを感じてくるが、今は顔を逸らしたくなかった。「どういたしまして」と返事をしてみようと口を開くが、俺でも
春宮でもない声に遮られた。
「
優紫さん」
春宮の名を呼んだのは、卯ノ花だった。
なんでここにいるんだ、と疑問が浮かぶが、ここは四番隊舎だった。その疑問を何も考えなく声に出しそうになったのを口をつぐんで抑えた。
「卯ノ花隊長! お疲れ様です」
春宮は背筋をピンと伸ばし、卯ノ花へ綺麗に頭を下げていた。
卯ノ花は目線をゆっくり動かす。まずは
春宮、次に俺を見つめた。その目は何もかも見透かされるようだった。胸に芽生えた警戒心と共に卯ノ花の楽しげな笑みの裏に隠された意図を探ろうとするが、何も掴めない。分かることと言えば、やちるの無邪気な笑顔とは違い、少しの厄介さが潜んでいることだけだ。
「お邪魔してしまったみたいですね。更木隊長、そうして霊圧を抑えることができるならいつもそうなさってくださいな」
始めに浮かべた笑顔を変えることなく、卯ノ花は笑っている。
どうせ俺の霊圧に気付いている上でこうして
春宮に声を掛けたはずだ。
俺が軽く睨むと、また楽しそうにくすくすと肩を揺らす。
「……何か私にご用でしたでしょうか? 何か私が担当した業務に不備がありましたか?」
春宮が少し不思議そうに俺たちを見つめ、卯ノ花に問う。
「いえ、あなたにお茶をご馳走したかっただけですよ。ですが、更木隊長に先を越されてしまいましたね」
卯ノ花は
春宮の両手にある花へ目を向け、にこりと笑う。
「素敵なお花ですね」
「はい……とっても、素敵です……」
「本当に、あなたも更木隊長も愛らしいですね」
口元を片手で覆いながら、くすくすと卯ノ花はまた笑っている。
ちらりと、横目で
春宮の様子を窺う。
春宮は肩をすくめて小さくなり、赤く染まっている顔を両手の花で隠そうとしていた。
春宮には『愛らしい』という言葉が相応しいだろう。だが卯ノ花が自分にも向けて言っていることを考えると、虫唾が走りそうになってしまった。
「これ以上、あなた方の逢瀬を邪魔したくありませんので私は失礼します」
「卯ノ花隊長っ! お、逢瀬などでは……!」
片手を振りながら必死に訂正しようとする
春宮を見て、卯ノ花はことさら楽しそうにしていた。本当に、他人をからかうのが好きな奴だ。
「ふふ。あとで私とも逢瀬してくださいね」
「……は、はい! 是非……!」
「更木隊長は汚さないようにお気をつけくださいね。
優紫さんが綺麗に掃除をしたばかりなので」
卯ノ花はそう言い残し、俺たちに背を向けて歩き始める。卯ノ花が残した言葉を聞いた
春宮が不思議そうな顔で俺を観察し始め、左手が視界に入ったところで驚いた顔でピンと背筋が伸ばした。
「更木隊長! 左手に血が!」
「ああ。木刀が刺さった」
そういえば、そうだった。ここに来た目的は、これだった。
久しぶりに手のひらへと目を落とすと、小さな血溜まりは少し乾き始めていた。
「ぼ、木刀が!? いつもすぐに気が付かなくて申し訳ございません! 救護詰所に早く行きましょう! こちらです!」
俺へ背を向け歩き始め、先導する
春宮。
自分は花の名前がなんて何一つ知らなければ、興味もない。だが、
春宮は花が好きで良かった。
そんなことを考えながら、
春宮の数歩後ろを歩く。髪を後ろで一つにまとめているその後ろ姿は、赤くなっている両耳がよく見える。そんな
春宮に無意識のうちに頬が緩んでしまう。
「あっ」
なんの脈絡もなく、突然短く声を上げて
春宮は足を止めた。
「……どうした?」
「片付けるのを忘れていました……」
振り返った
春宮の右手には花、左手には箒を持ったままだった。まだ顔を赤くしている
春宮につられて、花の色も濃くなっているように見えた。花もこんなに表情豊かだったのか。
「……戻るか?」
「いえ! 今は更木隊長の傷を治すのが先決なのではやく行きましょう!」
箒を持ったまま、再び歩き始める
春宮。いつもよりどこか慌ただしい
春宮に笑いがこみ上げ、声を押し殺して笑っていると
春宮の耳はさらに赤く染まっていく。
「更木隊長までからかわないでください……」
少しだけ俺のほうを振り返り、
春宮は小さな花束でまた赤い顔を隠していた。
そんな姿を見ていると、花が咲いてしまいそうなほどの温かさが胸の中に満ちていくのを確かに感じた。
自分が思っているよりも、花は良いものなのかもしれない。
終