隊首室を目指し、十一番隊隊舎の廊下を歩いていると、遠くに剣八さんの背中が見えた。
その背中にやちるちゃんの姿はどこにも見えず、一人で歩いてる彼を見ていると急に悪戯心が芽生えてくる。
彼に気付かれないように息を潜めて霊圧を消し、足音を立てないように廊下を忍足で歩く。だが、彼の一歩一歩は私の何倍も大きく、どんどん距離を離されていく。遠くなっていく背中に焦ってしまい、どうしても小走りになってしまう。私の体重で僅かに床板が軋むが、それでも彼は前を見据えたまま歩いていた。彼が髪の毛に付けている鈴の音と自身の足音で、かき消されてしまっているようだ。いや、もしかしたら庭で鳴いている蝉たちのおかげかもしれない。
時刻はまだ、就業時間中。
私が今日担当していた仕事がキリの良いところで終わってしまい、早めに退勤することができた。剣八さんは、私が十一番隊にいるとは思っていないだろう。彼の驚く顔を想像し、思わず口角が上がってしまうのを抑えつつ距離を詰めていく。
追い付いた大きな背中を"ぽん、ぽん"と軽く叩こうとした時に、あるものが目に入った。
「あ……」
せっかく、気配を消して近付いたというのに寸前で声を出してしまう。その声は剣八さんの耳へ届いてしまったようで、彼は勢い良く振り返る。ぐりん。そんな音が聞こえてきそうなほどの勢いだった。
彼の背中に沿うように構えていた両手が、彼の体に振り払われてしまう。悲鳴を上げる隙もなく、その勢いと一緒に私の体勢は崩れた。振り払われた両手と一緒に床へと体が倒れていく。目に映る世界が風のように動き、何もとらえることができない。突然のことに、「受け身を取らないと危ない」という考えも頭にはなかった。
だが、床にぶつかることなく、私の体はぴたりと止まる。
「……」
剣八さんがたくましい腕で私の腰をしっかりと抱き止めてくれていた。
彼の瞳と私の瞳が交わった瞬間、剣八さんは、ほっと安堵の息をつく。
「悪い……
優紫だとは思わなかった」
「……」
「……大丈夫か? 怪我、してねえか?」
眉を寄せ、赦しを請うような表情で見つめられる。
「いえ! 剣八さんのことを驚かせようとした私が悪いので……!」
「……驚かせる?」
剣八さんは私の手を掬い、体勢を整えさせると首を傾げた。
彼のきょとんとしているこの表情が好きだ。うんと背が高くて、体格も大きくて、精悍な顔つきの彼がとたんに幼い子供のように見えてしまうから。
「……まだ仕事が終わるには早い時間なので、私が突然声をかけたら剣八さんの驚いた顔が見られるかな、と思って」
「……」
剣八さんは、面食らった顔でぱちぱちと目を瞬かせる。
少しして片手で顔を覆った。その指の隙間から赤く染まっている顔が見え、堪らず胸の奥がきゅんと疼いた。
「もったいねえ……」
ぎゅっと指を絡めて手を握られ、心臓が強く鼓動を打ち始める。
「え?」
「……驚かせて欲しかった。……絶対、
優紫がかわいかったから」
頬を赤らめながらも私を真っ直ぐ射抜く剣八さんの言葉に、私も顔が赤く染まっていく。私の方が赤いかもしれない。
結果的には驚かせてしまうことにはなったのだが、剣八さんの頭の中の私はどうやって彼を驚かせたのだろうか。彼は、どんな顔をしたのだろうか。
「今度、また、挑戦します……」
「うん」
幼い子供のような返事と一緒に剣八さんはゆっくり頷いた。その無防備さが堪らなくかわいく感じた。
「楽しみにしてる」
「あともう少しだったのですが、剣八さんの背中に癒されて、気が抜けてしまって……」
「俺の背中?」
また剣八さんは目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げていた。首を回し、背中を覗き込んでいるがきっと何も見えていないだろう。そんな彼の様子に頬が緩んだ。
埒が開かないと思ったのか、私と繋いでいた手を解く。そして、隊首羽織を脱ぐと目の前に背面側を広げた。その時に滅紫色の裏地に白い縫い跡が見えて、さらに頬が緩んだ。胸にふんわりと暖かいものが広がっていく。
「……蝉の抜け殻」
「はい」
隊首羽織を眺めている剣八さんにそっと寄り添い、私も隊首羽織を眺める。
「去年も付けていらっしゃいましたよね」
一年前の夏も剣八さんは、背中に蝉の抜け殻を付けていた。
あの時は二つだったが──今年は、三つ。
一回り小さい蝉の抜け殻を間にし、寄り添うように蝉の抜け殻たちは『十一』という数字の下にくっ付いている。
そっと、一つずつ指先で撫でる。
これを付けたであろう女の子の笑顔が頭に浮かんだ。蝉の抜け殻が一つ増えた意味を考えると、優しくて穏やかな幸せが私を包んでいく。
剣八さんは両手で広げていた隊首羽織を片手に引っかけると、もう片方の手は私の腰に回った。胸の中へ優しく抱き寄せられる。
「一ついるか?」
「いえ……」
首を傾け、剣八さんの胸に寄りかかる。とくとく、と心地良い穏やかな鼓動が聞こえてくる。
日が落ち、気温が下がり始めている時間帯で良かった。
暑さにとらわれずに彼と好きなだけ寄り添っていられるのだから。
「このまま、みんな一緒が幸せだと思うので──」
隊首羽織に手を伸ばし、そっとそれを胸に抱き締める。
「そうだな……」
剣八さんは、ふっと小さく息をもらすと口角を緩やかに上げて微笑んだ。
「あ〜! 見つかっちゃった!」
どこからともなく蝉に負けない元気な声が聞こえてくる。声の主を探し、辺りを見渡していると両手に持っていた隊首羽織が膨らんだ。
蝉の抜け殻が潰れてしまわないように隊首羽織を捲ると、にっこりと笑っているやちるちゃんが顔を覗かせた。手には巾着袋を持っており、きっとその中にも蝉の抜け殻が入っているのだろう。
「ふふっ。見つけちゃいました。やっぱり、やちるちゃんだったんですね」
布に擦れてしまって少し乱れている髪の毛を撫でて整えると、ますます笑顔になる。
「うんっ!」
やちるちゃんは私から隊首羽織にくっ付いている蝉の抜け殻に目を映すと、とても満足そうな顔をしていた。そして、「えへへ」と可愛らしい声と一緒に私のお腹に抱き付いてくる。それを見た剣八さんも背中を丸め、私を後ろから抱き締めた。
ぴったりとくっ付いて、まるで蝉の抜け殻のようだ。
そう思うと私の胸がいとおしさでいっぱいになり、笑みが溢れてくる。
蝉の鳴き声も聞こえなくなり、夏が終わったとしても、この先もずっと幸せはここにある。
二人から伝わってくる優しい温かさが、心からそう思わせてくれた。
終