春は、あけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、
すこしあかりて、紫だちたる雲の、
細くたなびきたる。
勤務中に襲ってきた眠気を覚ますため、作業を止めて席を立った。外の空気を吸って気分転換をしようと、長い間閉じこもっていた執務室の戸を開く。戸を開けると少し冷たい風が頬を撫で、暖かい室内との温度差に思わず目を固く閉じた。ぶるり、と小さく体が震える。日中はぽかぽかとした陽気で過ごしやすい季節になったが、朝晩はまだ随分と冷え込む。
後頭部で一つに纏めている髪が風で揺れ、毛先がうなじを擽った。閉じていた瞼を開き、顔を上げる。そこには濃淡が幻想的な早朝の空が広がっていた。
美しい。
その言葉以外では、とても形容できない景色に見惚れる。
「——春はあけぼの」
平安時代中期に清少納言が執筆した『枕草子』の冒頭を思わず、口ずさんでいた。
『枕草子』とは、季節や自然の移ろい、人々の想いなどを書き記した随筆だ。「春は夜明けが一番美しい」という文章を季節と時間帯のみで表現し、多くの人々に強い印象を与えた。私もその中の一人だ。
清少納言も今の私のように美しい夜明けの朝空に見惚れ、その気持ちを心に留めようと筆を取ったのだろうか。百年、千年経っても、どの時代を生きた人々も同じように思い、感じているのだと改めて気付かされた。
この春の夜明けを見て、美しいと思ったことで千年も前と私は繋がったような気がした。物語をただ読んでいる時に感じるものとは、また違った不思議な感覚だ。この景色は自分のためだけにあるのだ、と錯覚してしまう。
この春で護廷十三隊に配属されてから四年の月日が経つ。
一年目は仕事を覚えるのに手一杯で毎日が目まぐるしく、空を見上げる余裕はなかった。
二年目はただ仕事をこなすだけではなく、視野を広く持ち、いろいろな事に気を配りながら行動する必要があった。一年目以上に慌ただしく日々が過ぎ去り、四季を感じる余裕もなく、時が過ぎた。
三年目は後輩の教育を任されるようになり、試行錯誤する日々が訪れた。指導者としての立場に慣れるのは時間がかかったが、人を指導する楽しさに気付き始め、いつしか心に余裕が出てきた。こうして仕事の息抜きに朝空を眺めて、夜勤も悪くないと感慨深く感じているのだから。
「ふうー……」
深く息を吐き、ゆっくりと吸う。
澄み切った冷たい空気が肺に満ちていく感覚が心地良く、自然と口角が上がった。
「さて、あともう少し頑張りましょうか」
自分自身を励まし、誰もいない執務室へと戻った。
*
夜勤が明けるまで、あと数十分。
後続の人への申し送りを終わらせた後に、物品倉庫で在庫確認を行っていた。
すると、換気のために開けていた窓から複数人の話し声が聞こえてくる。はっきりと聞こえないが、「早く行かないと」「でも行きたくない」と何やら話し合っているようだった。不本意だが盗み聞きのような形になったまま、私は作業を続けた。
それから、しばらくして自分の作業は終了した。しかし、それでも外で行われている話し合いの決着はついていない。
私は物品倉庫を後にし、声が聞こえるほうへと向かった。すると、廊下で男女四人が集まっているのが見えた。
「どうかされましたか?」
「
春宮先輩!」
声を掛けると四人全員が私のほうへと顔を向けた。同時に口を開き、声を揃えて私の名前を呼ぶ。
「何かありましたか?」
「……」
四人は困った表情で顔を見合わせ、ばつが悪そうな顔しながら一人が口を開いた。
「それが……」
話の内容は、こうだ。
十一番隊の更木隊長が戦闘中に負傷してしまった。見るからに治療が必要な怪我を負っているが、更木隊長は四番隊へ足を運ぶことを強く拒否している。見るに見かねた十一番隊の隊士たちが十一番隊隊舎まで治療しに来て欲しいと、四番隊へ要請をかけた。
「更木隊長——というか、十一番隊に所属している全員が僕ら四番隊のことを目の敵にしてますし……」
「頼りの卯ノ花隊長はお休みで、虎徹副隊長も別の重傷者の治療に当たっていて手を離せなくて……」
「他のみんなも夜勤と日勤が交代する時間で手が離せなくて……丁度手が空いていた僕たちに回ってきたんです」
「治療拒否があるなら行ったとしても厄介な事に巻き込まれそうだし……先輩たちは『それも通過儀礼だ』って……」
四番隊では、十一番隊の評判は非常に悪い。特に一番初めに名前が上がるのは、十一番隊を統べている更木隊長だ。負傷して四番隊に運ばれても、意識が戻ると治療拒否で大暴れ。常時、膨大な霊圧を放っており、それに気分を害する隊士と入院患者が多数。その対応で四番隊隊士たちは、てんやわんや。そんな更木隊長を習うように、部下たちも同じ立ち振る舞いなのだ。
戦闘を好み、血を流すことを恐れない十一番隊隊士たち。治療に秀でており、人々が傷付く争いを好まない四番隊隊士たち。そんな全く離れた価値観を持っている双方は、互いに対して良い印象を持っていない。
今日のように更木隊長の治療で四番隊が呼び出されることは初めてではない。隊長位の治療は通常であれば、同じ隊長または副隊長が当たるべき。だが、更木隊長の自己治癒能力は非常に特異であり、よっぽどのことがない限り魂魄の修復を必要としない。霊圧の修復の手助けさえしてしまえば、後は薬を塗布するだけで自身の自己回復力で数日後——早ければ半日後には何事もなかったかのように綺麗に治癒してしまう。私が入隊した頃は、まだ卯ノ花隊長や虎徹副隊長・上位席官たちが対応していた。だが今は、私たち一般隊士にも回ってくる仕事のうちの一つとなっている。卯ノ花隊長曰く「勉強の場」だそうだ。
「こうなったら恨みっこなしのじゃんけんで──」
「私が行きますよ」
「……えっ!?」
私の言葉を聞いた四人は、間を置いて素っ頓狂な声を上げた。
「でも
春宮先輩、確か夜勤でしたよね?」
「はい」
「もうそろそろ夜勤は明ける時間ですよ?」
先輩である私に押し付けるような形になることへ遠慮しているのか、四人は顔を見合わせて心の声で相談しているようだった。私はそんな四人へ微笑みかける。
「だからこそ、私が行きますよ。皆さんは、これから朝の巡回や申し送りの時間ですし、私に任せて準備に取り掛かってください」
「でも……」
「あとから咎め立てるつもりもありませんから」
まだ気が引ける様子の四人。
「ほらほら。早くしないとお仕事に遅れてしまいますから、私に譲ってください」
そう声を掛けると四人はもう一度顔を見合わせ、一人が遠慮がちに口を開いた。
「じゃあ……お言葉に甘えても大丈夫ですか……?」
「ええ。お任せください」
四人は何度も頭を下げながら、『ありがとうございます』とお礼を告げ、その場を立ち去った。後輩たちの背中をしばらく見守り、私も彼らに背を向けて再び物品倉庫へと向かった。
更木隊長の治療に当たったことはないが、入隊初日に顔を合わせたことはある。卯ノ花隊長と立ち話をしている時に更木隊長が偶然現れたのだ。もちろん、そこに更木隊長が現れた目的は卯ノ花隊長であり、私は認識の外だった。別れる間際に目が合い、驚いて戸惑う私の代わりに卯ノ花隊長が私の紹介をしてくれた。私は軽く会釈しただけ。言葉は交わさなかった。それに、名前も名乗っていない。更木隊長とはそれ以来だ。
護廷十三隊に属する死神たちの治療に当たる四番隊へ所属していると言えど、一介の隊士が簡単に異隊の隊長に接点を持てるわけがない。だからこそ卯ノ花隊長は、私たちに学ぶ場を与えてくれているのかもしれない。
噂では更木隊長の為人をよく耳にしている。初めて出会ったあの日は機嫌が悪かったらしく、その噂どおり傍若無人であった。実際はどう言う人なのだろうか。言葉は悪いが、とても興味がある。これからのことを考えると胸が弾んできた。父と母から『物怖じせず好奇心が旺盛だ』とよく言われることを思い出し、笑みが溢れた。私のこういうところをそう言っているのだろう。
「えっと……」
先程の四人の話では更木隊長の怪我の具合は、はっきりと分からなかった。もう少し具体的に話を聞いておけば良かったと後悔しつつも、思考を巡らす。
治療を拒否している、ということは意識がある。意識があるということは、命に関わるような怪我ではない——しかし、通常の人ならば意識を失ってしまうような重傷を負っても更木隊長は平然としていた、という話を聞いたことがある。怪我の具合が全く予想できない。みんなが言うとおりであるならば化膿止めや血止め薬の軟膏類があれば良いのだろうが、念のため幅広く対応ができるように物品を棚から集める。重傷であれば私一人では対応しきれないだろうから、ひとまず応急処置ができるような物を選ぶ。腕に抱えた物品を倉庫においてある予備の救護鞄へ詰めていく。
「よい、しょっと……」
必要そうな物を詰め終わった救護鞄を閉じ、背負う。いろいろなことを想定して荷物を詰めたため、救護鞄はすっかり重くなってしまった。荷物の重さから肩紐が肌に食い込む。肩紐に指を通し、前へ軽く引っ張り余裕を持たせた。
「よし!」
気合を入れ、十一番隊へと向かうべく私は物品倉庫を後にした。
四番隊を出発する前に日勤帯の人へ挨拶と報告を済ませる。そこでもまた別の人に「面倒事を押し付けてしまった」と頭を下げられた。私はそれに対して笑みを返し、四番隊を出発した。
歩を進めながら視線を地面に落とすと、風に吹かれて散ってしまった桜の花弁たちが目に映った。それは絨毯のように足元に広がっている。踏んでしまわないように桜色ではなく、茶色の地面を歩く。歩幅が広くなったり、狭くなったり、右へ行ったり、左へ行ったり、千鳥歩きのようになってしまう。童心に帰った気分になり、一人でふき出して笑ってしまった。だが、すぐに仕事の最中だったことを思い出し、肩を竦めて辺りを見渡す。幸いにも周りには誰一人いなかった。ほっと胸を撫で下ろし、再び歩を進める。
改めて桜の絨毯をゆっくり眺めた。
どこまでも続くそれがまるで十一番隊への道を示しているように見え、私のことを歓迎しているように思えた。
*
十一番隊隊舎が見えてくると門前に人影が一つあった。
遠目でも特徴的な見た目からすぐにその人物を判別できた。陽の当たり加減で明るい紫色に見える髪の毛は顎のラインで綺麗に切り揃えられ、右目と右眉には鳥の羽のような美しい装飾品が二本ずつ。首元は橙色の防寒具のような物で隠されている。右腕にも同じく橙色の腕貫を装着して、肌を隠している。まるで絵画から出てきたような綺麗なその人は腕を組んで門に軽く寄り掛かり、どこか一点を見つめていた。会話をしたことはないが、しっかり顔と名前は一致する。
「綾瀬川五席、おはようございます」
その人の名前を呼び、声を掛けると目だけがこちらへ向けられた。
「もしかして、君が四番隊の子?」
「はい」
返事をすると綾瀬川五席は壁から背を離し、姿勢を正した。
「待ってたよ。隊長のところまで案内するから着いて来て」
「よろしくお願いします」
頭を下げ、上げる。すると、もう既に綾瀬川五席は歩き出していた。小走りでその背中を追う。
門内へ足を踏み入れ、綾瀬川五席に先導されながら歩いていると周りから刺すような視線を感じた。辺りを見渡すと十一番隊隊士たちの姿があった。きっと私が背負っている救護鞄に描かれている四番隊の隊花で、私の身元が分かったのだろう。あまり良くない言葉も聞こえてくる。十一番隊と四番隊の関係は本当に良くはないと改めて肌で感じた。「来ないほうが良かった」とは、思わないがやはり少し居心地が悪い。
二つの隊は思想的には正反対である。「全てを受け入れて欲しい」とは言えないが、少しは寛容に享受すべきではないだろうか。
胸に広がり始めた釈然としない気持ちをぶつける場所がなく、ぎゅっと強く手のひらを握り込んだ。
——パン!
綾瀬川五席が立ち止まったのと同時に乾いた大きな音が辺りに響いた。
綾瀬川五席の背にぶつかってしまいそうになり、慌てて足を止める。私に集まっていた視線は、全て綾瀬川五席へと移っていた。どうやら綾瀬川五席が手を叩いたようだ、手のひらを合わせたまま周りの隊士たちを見渡している。
「見せ物じゃないよ。僕ら十一番隊が隊長のために願い出て、本来ならこちらが四番隊に向かうべきところをわざわざ出向いてもらったんだ。ほら、サボってないで早く自分の持ち場に戻るんだ」
「は、はいっ! すんませんでした!」
まさに鶴の一声だった。十一番隊の方たちは頭を下げ、そそくさとその場を立ち去った。
「……ありがとうございます」
「君を助けたわけじゃないよ。面倒事に巻き込まれたくなかったからね。放っておいたら、あいつらに君が食ってかかりそうだったし」
自分の心境を見透かされていたことが恥ずかしくなり、顔に熱が集まった。思わず俯くと、くすくすと笑う綾瀬川五席の声が聞こえてくる。
「僕ら十一番隊は血気盛んな奴らが多いけど、君も結構血の気が多そうだね」
「そ、そういう訳では!」
「自分の気持ちを偽って、ヘラヘラ笑っているよりは良いんじゃない?」
そう言うと再び綾瀬川五席は歩き始めた。私も止めていた足を再び動かし、その後を一定の距離を保って歩く。
目的地に到着するまで、綾瀬川五席とはそれ以上言葉を交わすことはなかった。
*
「ここだよ」
綾瀬川五席が一つの戸の前で立ち止まった。私を振り返り、戸を指差す。
「わざわざご案内いただき、ありがとうございました。道を覚えましたので、帰りは大丈夫です。綾瀬川五席もお忙しいと思いますので、お仕事にお戻りください」
私の言葉に綾瀬川五席は眉を顰めて、扉を一瞥して口を開いた。
「……隊長は、ご覧のとおり結構イライラしてるけど一人で平気?」
「まだ一度も更木隊長とお話しをしたことがないのでなんとも言えませんが、大丈夫です。もし、大丈夫そうではなかったら……そうですね……走って逃げます……」
「……そう。まあ、僕に聞こえるぐらい大きな声を出してもらえれば助けに来てあげるよ」
綾瀬川五席は口角を上げて、綺麗に微笑んだ後にくるりと私へ背を向けた。
「それじゃあ、あとはよろしくね」
その言葉を残し、顔の高さまで上げた手をひらひらと振りながら綾瀬川五席はその場を立ち去った。私はその背中に一礼し、更木隊長がいる隊首室へと向き直った。
「……はー、……ふう」
深呼吸を一つ。
「……よし」
壁を一枚隔った向こう側からは、重く刺々しい霊圧が漂ってきている。綾瀬川五席も言っていた、更木隊長の機嫌の悪さを肌で感じる。戸を叩こうと握った右手に自然と力が入った。手の甲を扉へ向け、人差し指と中指の第二関節で戸を三回叩いた。
「更木隊長。四番隊からお怪我の治療で参りました、
春宮優紫と申します。お体を拝見させていただきたいので、中へ入ってもよろしいでしょうか?」
数十秒、待っても返事は返ってこなかった。
もう一度戸を叩き、同じ言葉を繰り返すが、やはり返事が返ってくる気配はない。
「失礼いたします」
恐らく入室の許可は、いくら待ってももらえることはないだろう。無礼を承知で、一声掛けて戸を開く。何かに抵抗されているかのうように戸が重い。もう片方の手もそえ、戸を開け切った。その瞬間、壁越しに感じていた霊圧が部屋の中から勢い良く流れ出てくる。丸のみされてしまいそうな巨大な霊圧を感じ、少し体が強張った。私はもう一度深呼吸をし、部屋の中へと足を踏み入れた。
私の気配を感じたのか、長椅子に寝転んでいた人影が身を起き上がらせる。部屋が暗く、顔は見えなかったが特徴的なその影は更木隊長で間違いない。声を掛けても返事が返ってこなかったのは寝ていたのか、無視をしていたのか、どちらなのだろうか。そんな呑気なことを考えていると低い声で尋ねられた。
「何の用だ」
「お怪我の治療で参りました」
「俺ァは呼んでねえぞ」
更木隊長はそう言うと、どすんと音を立てて再び長椅子に寝転んだ。重さで長椅子と床がきしむ音が静寂に響いた。
「十一番隊の方々から要請がありました」
「………」
「仮眠中のところ煩わしいと思いますが、お怪我をお見せください」
「………」
返事はない。
ゆっくり歩を進め、更木隊長の元へと近付く。距離が縮まるにつれ、更木隊長の霊圧はより重く苦しいものになった。両肩を上から押さえ込まれているよう体が、足が重くなる。
更木隊長の垂れ流しの霊圧で気分を悪くしてしまう人がいるとよく耳にするが、これがそうかと納得した。今は機嫌が悪いこともあり、普段よりも身体への影響が強いのではないだろうかと勝手に推測する。重い足でゆっくり歩み、なんとか倒れずに更木隊長の傍まで辿り着いた。
仰向けで長椅子に寝転んでいる更木隊長は、左肩から脇腹辺りにかけて血液をべっとりと付着させていた。死覇装と隊長羽織も赤く染まっている。部屋が暗いため傷をしっかりと確認できないが、出血量から深い傷だと予測ができた。
「早く洗濯されないと血液はなかなか落ちませんよ? それにそちらの椅子にも血液が付いてしまいます」
「チッ……うるせえなァ……」
私の言葉を聞いた、更木隊長は大きな舌打ちをした。閉じていた目を開き、鋭い視線を私へ向ける。発した声も雷のように低い重低音だった。
「傷を拝見させてください」
「……」
「その姿勢だと傷が拝見できませんので、起き上がってこちらへ座って頂けますか?」
「触ンじゃねえよッ!」
体に触れようとすると更木隊長の大きな手で思い切り弾かれた。叩かれた手の甲が瞬時に熱を持ち、赤く腫れ上がった。ビリビリと電気が走るように痺れ、手の感覚が一瞬なくなった。私はその手をもう片方の手で握り締め、口を開いた。
「お黙りくださいっ!」
更木隊長の怒声に負けないぐらい私も腹部に力を入れ、声を張る。
「……」
更木隊長は面食らった顔で言葉を失っていた。しん、とした静寂に包まれる。
再び私が口を開き、その静寂を破った。
「私は今、あなたが負っている怪我の治療を任されています! 今この場では、あなたは患者で、私はあたなの治療を任された主治医です! 十一番隊隊長と四番隊隊士ではありません! ですので、私の言うことには従っていただきます!」
「……」
更木隊長が丸くした目でこちらを見つめている。まさにこの顔を鳩が豆鉄砲を食らったような顔と言うのだろう、とそんな緊張感のないことを乱れた呼吸を整えながら考えてしまった。
呆気に取られ、反論を示さない更木隊長の体に触れる。今度は拒まれなかった。
「さあ。体を起こして、ちゃんと座ってください。そのままでは治療ができませんからね」
「……」
数秒ほど間があったが、更木隊長はゆっくりと体を起こした。手すりに乗せていた足を床へ下ろし、長椅子に正しく座る。
「ありがとうございます」
更木隊長が横目で私の様子を窺ってきたため、目を合わせて微笑むとすぐに視線を外して床を見つめていた。
しばらく沈黙が流れ、更木隊長が口を開いた。今度は激しい怒声ではなく、落ち着いた低い声だった。
「……お前、気が弱そうに見えて卯ノ花みてえなことを言うんだな」
「そう仰って頂けて光栄です」
「光栄か……?」
下げていた視線を上げ、更木隊長は私と目を合わせる。眉頭の皺を深くし、あからさまに怪訝な顔をしている更木隊長が私にとってはとても新鮮だった。
「私は卯ノ花隊長の直属の部下ですもの。憧れて尊敬している卯ノ花隊長のようだと言われて、とても嬉しいです」
卯ノ花隊長は物怖じすることなく、間違っていることを間違っていると相手に意見を伝えることができる人。そして、分け隔てなく皆を平等に扱ってくれ、春のように温かい優しさで包み込んでくれる。そんな卯ノ花隊長は私の憧れであり、尊敬している人。
更木隊長は、「それでも理解できない」と言いたそうな顔をしていた。思わず声を出して笑いそうになり、口をつぐんで声を殺すが少しだけもれてしまう。それが届いてしまい、更木隊長はこちらをじっと見ていた。
「卯ノ花隊長は、私が唯一人こうありたいと願っている方です」
怪訝な顔をしていた更木隊長の表情がスッと何かを懐かしんでいるような、想いを馳せているような、静かなものになった。
「……そうか」
なぜ、更木隊長がそんな表情をしたのかが気になってしまった。だが、無理に詮索しては再び機嫌を損ねてしまい、本当に治療ができなさそうだったため早速仕事に取り掛かった。
「失礼いたしました。お喋りが過ぎました。傷を拝見いたしますね?」
「……」
私の言葉に更木隊長は黙って小さく頷く。
「傷が見えるように隊長羽織と死覇装を脱いでいただきたいです。体を動かすと痛むと思うので、お手伝いいたしますね。失礼します」
隊長羽織の襟元を持ち、袖から腕を抜きやすいように羽織を広げた。
脱ぎ終わった隊長羽織を畳み、長椅子に置く。
「どうせ捨てる物だ。そんなに丁寧に扱わなくて良いだろ」
更木隊長は自分の隣にある四角く畳まれた隊長羽織を見つめながらそう言った。
「捨てられるのですか?」
「血付いてんだろ」
「しっかり洗い落とせば、まだ使えますよ」
「破けてんのはどうすんだよ」
「縫えば大丈夫です」
「ンなの面倒臭えだろ。新しいのを卸せば済む話だ」
更木隊長は嘲笑するように鼻で笑い、呆れた顔をしていた。
「確かに汚れてしまったり、壊れてしまった物より新しい物が良いですけど……やっぱりずっと使っていた物は想い出がたくさん詰まっているじゃないですか」
「……」
更木隊長から返事はなかった。
「肌寒いと思いますので、死覇装は左側だけお脱ぎください。お手伝いしますね」
左胸にある傷に響かないようにそっと死覇装をはだけさせた。すると、痛々しい傷が露わになる。左胸から右横腹にかけて斜めに皮膚が切り裂かれている。傷口は深く、皮下組織まで達しているように見えるが、幸い傷からの出血は既に止まっている。虚の鋭利な爪で抉られたのだろう。この推測はあながち間違いではないはずだ。先程、話題に上がっていた隊長羽織も鋏で切ったかのように切り裂かれていたのだから。
「傷が随分と深そうですが、痛くありませんか?」
「痛くねえ」
「更木隊長は、痛みにお強いのですね」
「ハッ……。皮肉か?」
眉を寄せて疑うような視線を向けられた。その表情に少し笑ってしまう。
「いいえ、違いますよ。痛みに強い方は臆さない分、人より怪我を負うことも多ければ、深い傷を負うことが多いと思いますのでお気をつけくださいね」
「………」
「何が命取りになるかは分からないので、周りの方たちのお言葉に是非耳を傾けてください」
「………」
更木隊長は黙ったまま、相槌を打つことなく静かに私の言葉に耳を傾けていた。更木隊長が何を考えているのかは、私には分からない。
「まずは、血液を洗い流しましょうか。あちらの給湯室を借りしてもよろしいですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
背負っていた救護鞄を下ろし、持ってきた手拭いを中から取り出す。それを手に持ち、隊首室の中にある給湯室へと向かった。
給湯室のお湯が出る蛇口を捻り、水温が上がるまで数秒待つ。指先で温度を確認しながら、もう片方の冷水が出る蛇口を少しだけ捻る。丁度良いぬるま湯になったのを確認し、手拭いを濡らす。
ずっしり重くなった手拭いを両手で持ち、水滴が出なくなるまで固く絞る。掛け流す用のぬるま湯も持って行けるように戸棚を開き、丁度良い容器を探す。戸棚の中には湯呑みがあり、それを手に取った。少しほこりを被っていた。しばらく使われていなかったのだろう。積もっているほこりを洗い流し、中にぬるま湯を溜めた。それと手拭いを持ち、更木隊長の元へと戻る。
「お体を拭きますね。お湯を掛けて、血液を洗い流します」
「ああ」
傷口を感染させないように両手へ手袋を着ける。そして、傷口以外を濡らしてしまわないように手拭いで受け止めながら、乾燥して凝固してしまった血液へお湯を掛けた。
「染みませんか?」
「問題ねえ」
手元から更木隊長へ目を移し、表情を窺った。痛みから表情が変わっている様子がないのを確認し、再び手元に視線を戻す。ぬるま湯で少しずつ血液を溶かし、タオルで優しく拭き取る。砂や小石が視認でき、それも慎重に取り除いていく。お湯を掛け、溶かして拭き取る。それを何度か繰り返し、大方の血液を拭き取った。血液を吸い取り、白から赤く変色した手拭いと手袋をビニール袋へ入れ、空になった湯呑みを近くの机の上を置く。
「終わりました。次は治療に移りますね」
「……」
更木隊長は静かに頷く。
「それでは始めます」
両手を傷口にかざし、手のひらへ霊圧を込めた。淡い暖色の光が灯る。ちらりと横目で更木隊長の様子を窺うと、眉間から皺が少し減り、纏っている霊圧も少し柔らかくなった。私の回道に安らいでいるように見える姿に胸を撫で下ろし、自然と頬が綻んだ。手元に視線を戻し、手のひらに意識を集中させる。
言葉を交わさず、そのまま治療を続けた。その間、更木隊長はじっと私の手元を見つめていた。
「……皆さん、心配されていましたよ」
「あァ?」
私の手元から顔へと視線が移動した。返事と呼ぶには少しぶっきらぼうではあったが、目を丸くし、きょとんとした子供のような幼さを感じる表情をしている。そんな更木隊長に胸が擽られた。
「十一番隊の方々が更木隊長のことを心配されていましたよ」
「チッ……何ともねえって言ってんのに誰も聞きやァしねえ……」
更木隊長は小さく舌打ちをした後、そう言ってため息をついた。
「確かに私も心配され過ぎるとそう思ってしまうこともありますが、でも心配してもらえるのはとても幸せなことだと私は思います」
「……幸せ?」
「はい。それも一つの愛の形ですから」
「愛……」
「はい」
「………」
私の言葉が腑に落ちないのか、何かを考える素振りで黙って床を見つめている。
「皆さん、親身になって更木隊長のことを心配されていて、とてもお優しいですね」
「そんなもんじゃねえよ。放っておいて、後で死んだなんて知りゃア気分悪ィだろ」
更木隊長は先程より深いため息をついた。
「私が十一番隊の門をくぐって、更木隊長の元へ来る間に十一番隊の方たちとすれ違いました。『更木隊長に何かあったらタダじゃおかねえぞ』と。皆さん、そう言う目で私を見ていましたよ」
「………」
「皆さん。更木隊長のことが大好きだから、心配されているんですよ」
「気持ち悪ィ……俺なんかを好きになる奴なんているわけねえだろ」
不快そうに眉を顰めている更木隊長に思わず笑ってしまった。その顔に更木隊長が『大好き』という言葉を勘違いしているとすぐに分かった。
「"好き"は、恋愛感情の"好き"だけではありませんよ。恋人としての好き、友達としての好き、家族としての好き、同僚としての好き、部下としての好き、上司としての好き、たくさんあるんですよ」
「……ふん」
「"好き"はたくさんありますが、どの"好き"も、好きな人には悲しい思いや辛い思いをして欲しくないとみんな心配するんです。だから、私の中では、心配は愛なんです。あくまで持論ですけどね」
「……」
「私の持論なので無理に共感していただかなくて大丈夫なのですが、ご自分のことをあまり卑下なさらないでください」
「……」
余計なお節介かもしれなかったが、更木隊長は苛々しているような雰囲気も見せずに私の言葉を静かに聞いていた。
「更木隊長はたくさんの方から愛されていますよ。——私も、お具合を拝見するまで更木隊長のことがとても心配でした」
「……そうか」
「はい」
小さな声で返事が返ってきた。微笑みかけると、ちらりと横目で更木隊長はこちらを見つめてくる。首を傾げると、すぐに目を逸らされてしまった。私も更木隊長から目線を外し、手元へ戻す。
更木隊長の傷は完全には塞がっていないが、自分の霊圧が尽きてきた。元より隊長、副隊長や席官の手当ては同等の霊圧を持った者が治療に当たることが決まっている。私が傷を完治させられないのは、しょうがないと言ってしまえば、しょうがない。完治させるのは無理だと分かっていたが、力不足を思い知らされた。しかし、皮下組織まで達していた傷は何とか真皮まで治癒させることはできた。後は軟膏を塗り、包帯の保護ぐらいしか今の私にはできない。
「申し訳ございません。私には完全には治療できませんでした。卯ノ花隊長や虎徹副隊長なら綺麗に治せたはずなのですが……あいにく本日はどちらも都合が付かず、一般隊士の私が伺わせていただきました。力不足で申し訳ございません」
「いや、良い。ここまで治ったならすぐに塞がるだろ。それに——」
何かを言いかけて更木隊長は口を閉じた。
「……いかがされました?」
「いや。なんでもねえ」
「では、傷の治りを早める軟膏を塗って包帯を巻きますね」
「ああ」
もう一度、両手へ手袋を着ける。持ってきた軟膏を手に取り、チューブから手の甲に出した。それを指先で傷口を埋めるように厚く塗っていく。
「もし傷口の周りが赤く腫れたり、膿が出てきたりするようだったら早めに四番隊へお越しください。その時は別のお薬を塗る必要があるので」
「……そうなのか」
「はい。その状態は細菌に感染してしまっているので、悪さをしている細菌を退治できるお薬を使わなければいけないのです」
更木隊長に説明しながら軟膏を塗り終えた傷口へガーゼを当て、その上から包帯を巻いていく。
「悪化することなく何も異常がなければ様子を見ていただいて良いのですが、二週間後ぐらいにはまた傷の具合を拝見したいので四番隊でお待ちしていますね」
「………」
「よしっ! これで終わりです。お疲れさまでした」
包帯を巻き終わり、手袋を外す。その手袋もビニール袋に入れ、封をする。そして最後に、治療するために広げた物品の片付けに取り掛かった。その終始、更木隊長は私の手の動きを目で追っていた。その姿に飼い主の動向を見守る犬や猫が頭に浮かんでしまった。私と目が合うと、その目はすぐ逸らされてしまう。でもまた、目を離すと私の手を目で追いかける。
(犬か、猫か、と言われたら、猫かな?)
そんなことを考えてしまい、つい笑いそうになってしまった。笑いを堪えていることが更木隊長にばれてしまわないように、黙々と片付けを続ける。
使用した湯呑みは給湯室で水洗いをし、軽く水を切る。水切り籠も水滴を拭き取る布もないため、戸棚の外に置いた。給湯室から出て、荷物を置いている場所へと戻る。忘れ物はないかと辺りを見渡していると、更木隊長の隣に置いた隊長羽織が目に付いた。
「あっ!」
「何だ」
「よろしければ、この隊長羽織を私にお洗濯と修繕をさせてください」
「……どうせ捨てようと思ってた物だ。お前の好きにしろ」
「ふふっ。はい、好きにさせていただきます。ありがとうございます」
隊長羽織を両手で拾い上げ、胸に抱える。
「こちらを直して、待っていますので二週間後に四番隊へ是非お越しくださいね」
「………」
そうきたか、と言いたそうな目で更木隊長に見つめられた。
「もし、今日みたいにどうしても気が向かなかった時は私を呼び付けてください」
全ての物を片付け終わった救護鞄を閉じ、背負う。
「それでは、私は帰りますね。お大事にしてください」
更木隊長へ一度頭を下げ、背を向ける。そして、出口へと向かって歩く。戸の前で一度、更木隊長へ振り返った。
「失礼いたしました」
再度、更木隊長に頭を下げて、戸に手を掛けた。
「おい」
「はい?」
更木隊長に呼び止められる。振り返ると、じっと私を見つめていた。
「名前ぐらい名乗って帰れ。主治医ってのは、患者に身を明かさねえのか?」
部屋の中に入る前に名乗ったが、やはり耳には届いていなかったようだ。いや、恐らく眠っていたのだろう。私は姿勢を正し、改めて自己紹介をした。
「失礼いたしました。私は、四番隊所属の
春宮優紫と申します」
「
春宮、
優紫……」
「はい。今後ともよろしくお願いいたします、更木隊長」
私の存在を頭の片隅に置いてくれようとしているのか、更木隊長は私の名前をゆっくり復唱した。その様子にまた自然と笑みが溢れてくる。
「それでは、失礼いたします」
再び頭を下げて、扉を開く。廊下へ出て、ゆっくり音を立てないように扉を閉めた。重く感じた扉が、今はとても軽く感じた。
綾瀬川五席に案内された時の記憶を辿り、十一番隊の門へと向かって歩き始める。道中、欠伸が一つ出てしまった。伝令神機を取り出して時間を確認すると、いつの間にか正午を迎えようとしていた。そう言えば、お腹が空いた気がする。夜勤明けからそのまま十一番隊へ向かったため、何も胃に入れていない。四番隊に戻ったら後片付けをして、報告書を書かなければいけない。その間に少しだけ何か食べても許されるだろうか。残業はまだまだ続きそうだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
——そうだ。まずは四番隊に戻ったら、この隊長羽織の血液を落とすためにつけ置きしておいたほうが良さそうかな。
そう思いながら胸に抱いている隊長羽織へ目を落とす。
そこに刻まれた十一という数字の上に桜の花弁が一枚、ひらりと舞い落ちた。
*
「おい」
「はい。なんで……ヒイッ! ざっ、ざ、ざ……更木隊長! ど、どうしてここに?! よ、四番隊に、な、何か、ご、ご用ですか……?」
声を掛けた奴は、振り返って俺を見るなり悲鳴を上げていた。おまけに、怯えるように体を震わせている。何度も吃りながら、あからさまに俺から視線を外す。チラチラと横目で俺の様子を確認し、目が合うたびに小さく悲鳴を上げては目を逸らすことを繰り返している。そんな見飽きた反応に俺は小さくため息をつく。
「用があるから、ここに来たに決まってんだろうが。用がなかったら誰がこんなところに来るかよ」
今日から丁度、二週間前に四番隊の奴から治療を受けた。そいつから、傷の具合を見たいから二週間後に四番隊へ来いと言われたのだ。だから、わざわざ出向いてやったわけだ。しっかり日数を数えていた自分が本当に"らしく"ないと思う。
「そっ、そ、そうですよねー! アハ! アハ、ハハー!」
俺とはなるべく話をしたくなければ、近付きたくもない。目の前の奴がそう思っているのが、じわじわと伝わってきて今度は小さく舌打ちをした。もう数える気も湧かないほど、何度も何度も見てきた反応だ。今更、悲観する感情は湧いてはこないが苛立ちはする。——だが、あいつは違った。二週間前に俺を治療した奴からは俺を苛立たせるものをまったく感じなかった。だから、俺は大人しく最後まで治療を受ける気になってしまったのだろう。
「
春宮って奴はいるか」
忘れたくても忘れられなかった名前を口に出す。他の奴らとは違う対応し、理解ができないことをつらつらと言ってきた女の名前。
すると、目の前の奴は知った名前に安堵したのか突然吃りがなくなった。
「えっ?
春宮さんですか?
春宮さんは、今日は確か——」
「山田七席、私がどうかしましたか?」
目の前に突っ立っている男の向こう側から女の声が聞こえた。そこへ目を向けると探していた女の姿があった。
艶のある黒髪を後頭部で一つに結び、葵色の瞳を持つ女が記憶の中にある女の姿としっかり一致する。
「
春宮……」
「
春宮さん! 今日、遅番なのにもう来られていたんですね」
「はい。準備がいろいろとありましたので」
二週間前に俺へ見せた同じ笑顔で今日も
春宮は笑っている。こいつは俺以外の奴にも、この笑顔を向けている。それは偽ったり、取り繕ったりしたものではないことは俺にでも分かる。まるで心が溶かされてしまいそうな笑顔。それを向ける対象に俺が外されていないことに、どうしようもなく心がうわついてしまうのだ。普段なら自分が理解できない感情に腹が立ち、足を揺すりながら舌打ちでもしていただろう。でも、それも悪くはないと思ってしまうのだ。どうやら俺は、この春の陽気に頭がやられてしまったらしい。
「更木隊長。診察の準備をして、お待ちしておりました」
男から俺に視線を移した
春宮と目が合った。
「私の名前、覚えていてくださったのですね」
男の声に掻き消されてしまったと思っていた俺の声は、しっかりと
春宮へ届いていた。何と返せば良いのか分からず、口をつぐんで黙って頷くと目を細めて優しい顔で微笑まれる。
「ありがとうございます、更木隊長」
その瞬間、柔らかい何かに包まれたかのように胸が温かくなった。そんな気がした。
続