「
優紫さん」
書庫でカルテの整理をしていると背後から名前を呼ばれた。振り向くとそこには虎徹副隊長。そして──
「草鹿副隊長……?」
草鹿副隊長が虎徹副隊長の死覇装の裾を掴んで立っていた。草鹿副隊長は何やら不満そうに頬を膨らませながら、両目に悲しそうな涙を溜め、今にも泣き出してしまいそうなのを耐えている。何かを喋ってしまうとそれが引き金になって声を上げて泣き出してしまいそうなのか、口を固く結んでいた。
「虎徹副隊長、何があったんでしょうか……?」
「それが、やちるちゃんが黙ったままでよく分からなくて……
優紫さんを探しているみたいだったのでここに……」
虎徹副隊長がそう言うと草鹿副隊長は掴んでいた裾を離し、腕を広げてこちらへ駆けて来た。手に持っていたカルテファイルを机の上に置き、抱き止める為に膝を折って屈む。腕を広げると腕の中へ草鹿副隊長が勢い良く飛び込んで来た。私が抱き止めると、虎徹副隊長が手を合わせて謝罪する動作をしながら、「私は戻りますね。後はお願いします」と声を出さずに口だけで私へ伝えた。私が頷くと、虎徹副隊長は再度頭を下げて書庫を後にした。
「草鹿副隊長、どうかされましたか?」
「っ……」
経緯は分からないが、草鹿副隊長の悲しい顔は見たくない。悲しさが紛れれば、と小さな背を優しく撫でる。すると、私の背へ腕を回している手が死覇装をきつく掴んだ。草鹿副隊長は声を震わせながら涙の理由を語り始めた。
「……剣、ちゃんがね」
「はい」
「あたしを、……置いて、どっか……行っちゃったの……っ」
「草鹿副隊長を、置いてですか?」
「っお昼寝、から……起きたら、みんないなかったの、」
草鹿副隊長の言葉に私はあることを思い出した。今日の午前中に、現世にて複数体の虚の反応を技術開発局が観測した。虚が出現した地区の担当死神が討伐に当たったが重傷を負ってしまった。虚に誘われたのか、大虚も現れたいう報告と共に救援要請が入った。その討伐任務が十一番隊へ、救護任務が四番隊へと降りた。四番隊からは伊江村三席が率いる第一上級救護班が現世へと赴いた。断片的に語られた草鹿副隊長の話から察するに、十一番隊では草鹿副隊長がお昼寝をしている間に救援要請が入ってしまった。いつもならば共に向かうのだが、今日はお昼寝していた草鹿副隊長へ声を掛けることなく更木隊長と斑目三席、綾瀬川五席は現世へと向かったようだ。余程気持ち良さそうに眠っていたのだろうか。
「そうでしたか。それはきっとびっくりしましたよね」
何も言わずに草鹿副隊長は腕の中で頷いた。
救援要請が入ったのは午前中。間も無く時刻は十八時になるが、伊江村三席はまだ帰って来ていない。報告もまだ上がってきていない為、現世での様子は何も分からない。更なる救援要請は入っていない為、順調に事は進んではいるのだろうが少し心配になってしまった。
「いっつも、あたしも、連れてってくれるのに……剣ちゃん、置いてったの……! 剣ちゃんのばあ〜か!」
草鹿副隊長は、わんわんと泣きながら私の胸の中に顔を埋めている。
「剣ちゃん、怪我が、治ったばっかりなのに……あたしが、いないとだめなのに……」
私に抱きついている為、その声はくぐもった小さな声だったが、しっかり私の耳に届いた。
草鹿副隊長の言う"怪我"は、北流魂街・二十八区『末枯』に突如現れた毒を持つ巨大虚を討伐する際に重傷を負ってしまった更木隊長が生死を彷徨った時のことだ。今にも命の火が消えてしまいそうだった更木隊長の姿を草鹿副隊長も目にしている。どうしてもその時のことを思い出してしまうのだろう。
更木隊長は技術開発局と卯ノ花隊長のお陰で何とか一命を取り留め、約一週間前に退院した。完治した更木隊長は既に万全の状態ではあるが、正直私もあの日のことを思い出してしまい不安だ。しかも、今回は大虚。巨大虚より巨躯で危険な存在だ。
「待っているのは不安ですよね……。大丈夫ですよ。更木隊長は必ず帰って来ますよ」
あの日、草鹿副隊長を慰めた時と同じように小さな体を抱き締める。そして、自分にもその言葉を言い聞かせた。
「うん……っ」
暫くそのまま草鹿副隊長が落ち着くまで抱き締めて背中を撫でていた。
腕の中で鼻を啜っている草鹿副隊長を可愛らしく感じてしまい、笑みを溢してしまった。
「お鼻、ちーんしましょうか」
鼻を啜りながら、草鹿副隊長は頷いた。近くに置いてあるちり紙を手に取り、草鹿副隊長の鼻を覆う。
「はい、どうぞ」
草鹿副隊長は鼻から息を吐いて、啜っていた鼻水をちり紙へと出した。ちり紙を丸めて、塵箱へと入れる。
「すっきりしましたか?」
「うん」
まだ寂しそうな顔をして、いつもの元気がない草鹿副隊長の頭を撫でる。
「なんで泣いちゃうと、鼻水が出ちゃうんだろう」
ポツリと呟いた草鹿副隊長の言葉が子供らしい疑問で心が和んだ。もう一つちり紙を取り、涙の跡を拭く。
「目とお鼻は繋がっているんです。泣く時は涙がその繋がってる管を通るのですが、目から溢れてしまった涙がお鼻から出てきちゃうんです。だからお鼻から出るのも涙なんですよ」
「……そうなんだ」
草鹿副隊長は不思議そうに目元と鼻周りを触った。そんな姿が私を癒してくれて、口角が緩んだ。
すると突然、草鹿副隊長が大きな声を上げた。
「あーっ! そうだっ!」
それに驚いてしまって、体が跳ねてしまった。草鹿副隊長はいつものような明るい表情に戻っていた。
「どう、しましたか?」
「
優ちゃん!」
「は、はい?」
「今日、あたしのお家でお泊まりしよ!」
「……お泊まり、ですか?」
「うん! 今日、剣ちゃんがいないからあたしが
優ちゃんを独り占めするの!」
鞠のように声と体を跳ねさせている。元気になって何よりだったが、『お泊まり』という言葉が引っかかってしまった。
「でも、更木隊長に許可なく……」
「いーの! だって、あたしの家でもあるんだもん!」
更木隊長と交際を始めたが、まだ人々が思うような恋仲らしいことはしていない。一緒にお昼や夕飯を食べたりはしているが、それは持参したお弁当だったり、十一番隊の食堂だったり──つまり、まだ私は更木隊長の家へ行ったことはない。勿論、私の家へ招き入れたこともない。
「ね? 良いでしょ?」
私を上目遣いで見上げながら、草鹿副隊長は首を傾げた。もうすっかり笑顔になったが、私がここで断ってしまったらあの悲しい顔に戻ってしまうことを考えると断ることはできなかった。
「……では、お邪魔させて頂きますね」
「わーい! けってーい!」
草鹿副隊長は今度は満開の笑顔で私の胸へ飛び込んで来た。
*
終業時間までの間、草鹿副隊長が仕事を手伝ってくれた。いつも遊びに来てくれる草鹿副隊長の為に用意している金平糖があった為、それを食べながら仕事が終わるのを待っていても良いと伝えたが、どうしても手伝いたいと訴えられた。
始めは草鹿副隊長でも手伝えるような作業をお願いした。だが、草鹿副隊長は覚えが早く、応用力も備えていた為、ついつい色々お願いしてしまった。そんな草鹿副隊長の新しい一面を知り、虎徹副隊長が草鹿副隊長はオセロがとても強くて一度も勝ったことがないと言っていたのを思い出した。本当にオセロが強いのだろう。私も勝てそうにはなさそうだ。
カルテ整理しなければならない書類が山のようにあり、今日は残業確定だろうと思っていたが草鹿副隊長のお陰もあって、就業時間内に作業が終わった。
「草鹿副隊長、ありがとうございました」
「楽しかった!」
「ふふ、それは良かったです」
作業が終わると机に置いていた金平糖をちらちらと見ていた。やっぱり金平糖は食べたかったのだろう。お礼として金平糖を手渡すと、幸せそうに金平糖を頬張っていた。自分の感情に素直な草鹿副隊長が本当に可愛らしい。
そこで終業を知らせる鐘が鳴った。
「
優ちゃん、今日はもう終わり?」
「はい、もう終わりです」
「じゃあ、あたしのお家行こっ!」
金平糖を片手に草鹿副隊長は目を爛々としながら飛び跳ねている。私の手を掴むと書庫から出ようと私を引っ張りながら駆け出した。
「あ、待って下さい」
私の言葉に草鹿副隊長は、ぴたりと止まった。突然の動から静への切り替えの反動で体勢を崩し、左膝を床で打ってしまった。そのまま草鹿副隊長の方へ倒れてしまい、押し潰してしまいそうになったが、軽々と草鹿副隊長は抱き止めてくれた。
「ありがとう、ございます」
体が小さくて幼い草鹿副隊長が可愛らしくて、つい子供扱いをしてしまうがやはり十一番隊副隊長なのだと強く感じる。『末枯』での戦いの時もそうだった。戦闘が得意ではない私の代わりに巨大虚に立ち向かってくれて、守ってくれた。
私はいつも更木隊長にも、草鹿副隊長にも守られてばかりだ。私も、私なりに二人を守っていきたい、と常々思う。
今、更木隊長の側にいられないことが悔しい。私にもっと実力があれば任務に同行できたはずだ。
そんな私の憂いを吹き飛ばすような晴れやかな笑顔で草鹿副隊長は笑った。
「なあに? まだ何かお仕事あったの?」
「い、いえ、違うんですが……」
草鹿副隊長にもう一度お礼を述べて、立ち上がって膝を払う。
「お泊まりの準備がしたいので一度私の家にも寄ってもよろしいでしょうか?」
お泊まりをするならば着替えは必ず持っていきたい。それに草鹿副隊長に誘われてお泊まりをするが、更木隊長には許可を取れていない。勝手に家の物を使うのは気が引ける為、色々準備をして持っていった方が良い。
「
優ちゃんのお家? 行きたーい!」
再び目を爛々とさせた草鹿副隊長は両手を上げて、大きく飛び跳ねた。
*
草鹿副隊長と手繋いで、家へ一旦帰宅した。草鹿副隊長が楽しく思ってくれるような物は何もないが、とても嬉しそうにはしゃいでいた。あまりにも楽しそうだった為、「ここでお泊まりしますか?」と聞いてみた。すると、草鹿副隊長は勢い良く首をたくさん振って、「だめ! 今日はあたしのお家なの!」と断られてしまった。
院生時代に寮で生活をしていたが、誰かの家へお泊まりなんて初めてかもしれない。隊長・副隊長の持ち家にお邪魔するのも始めてだ。粗相がないようにしなければ。
お泊まりに何が必要かがパッと頭に思い浮かばず、一度頭の中で自分の一日を思い起こしながら必要な物を頭の中で整理する。一先ず下着と寝間着は詰め込んだ。明日は非番の為、家に帰るだけだが着物も一応持っていくことにした。
「後は何が必要でしょうか……」
「あたしの家の物を使っても大丈夫だよ?」
「そうでしょうか? 家主の更木隊長の断無く勝手に使ってしまうのは気が引けてしまって……」
「もー! あたしも家主だよ!」
頬を膨らませた草鹿副隊長に叱られてしまった。
「剣ちゃんも怒ったりしないよ!
優ちゃんのことが大好きなんだもん。
優ちゃんも怒ったりしないでしょ?」
準備をしている私の顔を覗き込んで、草鹿副隊長はにっこり笑った。
私がいない時に更木隊長が私の部屋で生活し、色々物を使うところを想像してみた。不思議と全く嫌ではないし、寧ろ嬉しいかもしれない。更木隊長もそうであるならば、それはとても嬉しい。更木隊長の優しい笑顔を思い出して、胸がきゅっと切なくなった。
「着替えがあれば大丈夫! ね?」
草鹿副隊長は笑顔でまた私の切なさを何処かへと吹き飛ばしてくれた。涙を溜めた草鹿副隊長が私の元へやって来た時と立場が逆転してしまったな、と自分に対して苦笑してしまった。
「では、色々お世話になります」
「うん!」
正座をして座っていた私の膝上を跨って座って、草鹿副隊長は抱き付く。
「ふわふわ〜」
私の胸へ顔を埋めて笑っている。まるで私を姉のように、母親のように甘えてくれる姿に愛おしい気持ちに胸がいっぱいになる。
柔らかい桜色の髪の毛を指に絡めながら、頭を撫でる。
「夕飯はどうしましょうか。女将さんのところへ食べに行きますか?」
「あたし、
優ちゃんのご飯食べたい!」
実はまだ時間が作れておらず、営業を再開したひととせ食堂に行くことが出来ていなかった。本当は更木隊長と一緒に行きたかったが、草鹿副隊長に提案してみると思わぬ答えが返って来た。
「だめ?」
眉を下げて草鹿副隊長は首を傾げた。
「いいえ。私の作ったもので良ければ、是非。お家の冷蔵庫には何か食べ物はありますか?」
「うーん……何があったかなあ?」
草鹿副隊長は腕を組んで考え込んでしまった。更木隊長は自炊をされるのだろうか。まだまだお互い知らないことがたくさんある。これから、ゆっくり更木隊長のことを知っていきたい。
「では、一緒にお買い物に行きましょうか」
「うん! 行くっ!」
「草鹿副隊長は何が食べたいですか?」
「
優ちゃんが前に作ってくれたシフォンケーキが食べたい!」
夕飯に要望はあるか尋ねると、手を真っ直ぐ上げて草鹿副隊長は答えた。前に作ったシフォンケーキを随分と気に入ってくれたようで嬉しくなる。草鹿副隊長の話では、更木隊長も気に入ってくれたようだった。作りたいのは山々だが、シフォンケーキは夕飯ではなく、おやつになってしまう。
「それは、夕飯にはならないですね……シフォンケーキはまた今度作らせて下さいね」
「うん、分かったあ……」
少し元気がなくなってしまった草鹿副隊長をぎゅっと軽く抱き締める。それだけで笑顔になってくれて、また胸へ顔を埋めてにこにこ笑っている。
「草鹿副隊長はお肉とお魚だと、お肉が好きでしたよね?」
「うん! お肉大好きだよ!」
それならば肉料理にしよう。更木隊長も一緒に食卓を囲むことが出来れば嬉しいな、と思いながら草鹿副隊長と手を繋ぎながら買い物へ向かった。
*
十一番隊隊舎がある轡町に更木隊長と草鹿副隊長が暮らす家がある。夕飯の買い物を終え、「こっちだよ!」と手を繋いだ草鹿副隊長に案内されながら轡町を歩く。更木邸までの道を次は一人で歩けるように、道を覚えながら歩を進めた。
私と更木隊長が交際を始めたことは十一番隊内では既に周知の事実になってしまっているのだが、轡町で暮らしている人々にも知れ渡っているようですれ違う人々に声を掛けられた。以前、十一番隊へ向かう時にここを歩いた時はすれ違う人々全員が刺すような目で居心地悪く感じたが、全員が寛容的な態度で受け入れてくれた。この態度の変化を人によっては"都合が良い"と捉えるかもしれない。だが私は、彼らにとっては異質であろう自分の存在を受け入れられてくれていることが嬉しかった。そして本当に自分は更木隊長と交際を始めたのだと、改めて実感して胸が高鳴ってしまう。更木隊長に会いたくなった。早く、無事に、帰って来て欲しい。
「ここがあたしと剣ちゃんのお家だよ!」
「……素敵なお家ですね」
さすが隊長と副隊長の持ち家。到着した更木邸はとても立派だった。大きくて立派な門付きで広い庭もあり、部屋数も多そうだった。轡町での更木隊長の権威と人望を表しているように感じた。他の隊に所属する隊士からは恐れられている彼もここでは英雄のように慕われていると思うと、誇らしくて嬉しい気持ちになる。
「そうかな?
優ちゃんのお父さんとお母さんが住んでるお家の方がおっきくて綺麗だったよ!」
そう言いながら草鹿副隊長は玄関扉を開けた。鍵を解錠する素振りはなかった為、驚きが隠せなかった。
「鍵は、いつも掛けてないのですか?」
「うん! そうだよ」
さも当然のように草鹿副隊長は答えた。確かに、更木隊長の家に忍び込んで盗みを働くような者は瀞霊廷には存在しないのかもしれない。なるほど、あのとてつもない"強さ"は"防犯"にも繋がるのか、と感心してしまった。
確かに盗みを働く者はいないかもしれないが、『剣八』という最強の死神の名を欲して寝首をかこうとする者はいないのだろうか。いやでも確か、『剣八』を受け継ぐには二百名を越す隊士の前での決闘が条件だったはずだ。それであるならば大丈夫──なのだろうか。それでも私の中から不安は消えなかった。
(鍵を掛けた方が良いと伝えたら、更木隊長はどんな顔をされるだろうか……)
やはり、自分の頭に浮かぶのは優しそうな顔。自分でも思っているよりも何倍も私は更木隊長のあの笑顔が好きなようだ。頬に熱が集まるのが分かる。
施錠して出かけないのならば鍵を持ち歩いてもいないはずだ。更木隊長がいつ帰って来るのかも分からない為、今日は一先ず二人に習って施錠しないでそのままにしておいた。
脱いだ草履を草鹿副隊長の小さな草履の隣に並べて置き、家の中へと上がる。
「お邪魔致します」
「どうぞー! ゆっくりしていって下さい!」
元気良く跳ねたかと思うと、頭を下げる草鹿副隊長に口角が緩む。
「
優ちゃん、あたしお腹がぺっこぺこなの!」
頭を上げると眉を八の字にして、草鹿副隊長はお腹を抑えた。丁度良く、そこで草鹿副隊長のお腹が鳴る。私は声を抑えて笑い、口を開いた。
「それでは先にお夕飯にしましょうか」
「うん! そうしよー!」
「台所までご案内お願いします」
「はーい!」
草鹿副隊長へ手を差し出すと、笑顔でその手を握ってくれる。そして、更木邸までの道のりを案内してくれたように「こっちだよ!」と私の手を引いてくれた。
部屋の中は少々乱雑に散らかっており二人の死覇装が箪笥からこぼれ落ちていたり、寝間着が引きっぱなしの布団に転がっていたり。それも二人らしいと思い、心が温まってしまった。
草鹿副隊長の玩具と見受けられるものがいくつかあるが、二人が暮らしているというには少し殺風景にも感じる。寝る場所としてしか使われていないように見えた。
案内された台所に置いてある冷蔵庫の中を覗くと、意外にも食材は少し入っていた。台所を見渡すと酒瓶に紛れて調味料も一式揃っている。
「更木隊長は自炊をされるんですか?」
「じすい?」
「えっと、更木隊長もお食事をご自分で作ったりされるんですか?」
「うん! 流魂街の時は剣ちゃんが毎日用意してくれたけど、今は食堂があるから毎日じゃなくなったけど時々作ってくれるよ!」
少し驚いてしまったが、確かに草鹿副隊長と長年一緒だと生きる上では必要不可欠な能力はだろう。台所で斬魄刀より刀身が随分と短い包丁を握って食材を切る姿が可愛らしく思えた。
「あ! そうだ! 今度は剣ちゃんがいる時にお泊まりしようよ! それで剣ちゃんが作ってくれたご飯食べよ!」
「是非ご馳走になってみたいです」
「じゃあ、けってーいだ!」
二人で顔を見合わせ、声を出して笑った。"次"があることはとても嬉しい。
開いた冷蔵庫へ今は使わない食材を詰めていく。草鹿副隊長も私に習って食材を詰めるのを手伝ってくれた。
「
優ちゃん、何作るの?」
「豚の生姜焼きです。後お味噌汁とオクラの和物を作ろうと思ってます」
「豚の生姜焼き好き!」
「ふふ。良かったです」
「あたしも一緒に作っても良い?」
「はい、勿論ですよ。では、まずオクラさんから切っていきましょうか」
オクラを手に持ったところで、ハッとした。
「あっ!」
「どうしたの?」
草鹿副隊長はきょとんとした表情を浮かべて私を見上げる。ゆっくり草鹿副隊長と目を合わせた。
「……更木隊長は納豆のネバネバが苦手と仰っていましたが、オクラは平気でしょうか?」
更木隊長が外で食事を済ませて帰って来るかもしれないが、更木隊長の分の夕飯も用意するつもりではいた。納豆のネバネバが苦手であるならば、オクラも苦手かもしれない。盲点だったと急に焦りが生まれた。
草鹿副隊長はにっこり笑って、口を開いた。
「剣ちゃん、オクラは食べられるよ」
私はその言葉に胸を撫で下ろした。
*
「美味しい! 剣ちゃんと同じお味噌使ってるのに全然味ちがーう! どうして?」
お味噌汁を一口飲み込むと草鹿副隊長は感嘆の声を上げた。
「みりんを入れているんです。みりんを入れるとお味噌のしょっぱさが軽くなって、まろやかな風味になるんですよ」
「へー! それだけで味変わるの?」
「そうなんです」
「面白いね!
優ちゃんのお味噌汁は美味しくて大好きだったけど、何か特別なお味噌使ってるのかと思ってた!」
「ふふ、更木隊長はどんなお味噌汁を作られるんですか?」
「剣ちゃんのお味噌汁はね、濃い〜お味噌の味だよ」
「まあ。濃い味がお好きなんですね」
草鹿副隊長との会話を楽しみながら夕食を終えても、更木隊長は帰ってはこなかった。約束をしたわけでもないのに、寂しい気持ちになってしまった。
取り分けて置いた更木隊長の分の夕飯を冷蔵庫へ入れ、使った調理器具や食器を草鹿副隊長と一緒に片付ける。
「片付けもお手伝いして下さってありがとうございました」
「あたしもご馳走さまでした! よーし! 次はお風呂だ! お風呂一緒に入ろう!」
後片付けが終わると、草鹿副隊長に早くお風呂に入ろうとせがまれる。
「ふふ、お背中洗いっこしましょうか」
「するー!」
私の手を握った草鹿副隊長に、お風呂場へと案内される。
「お風呂にお湯貯めて入ろー!」
浴室へ繋がる扉を嬉々としながら開けた草鹿副隊長へ続いて浴室へと入る。更木隊長の体に合わせて作られているのか、浴槽は普通の物より大きかった。その浴槽に草鹿副隊長が身を乗り出して栓をしようとしているところを覗くと、浴槽には結構埃が溜まっていた。
「お風呂は共用の浴場を使うことが多いんですか?」
「お家では湯船貯めて入らないから、湯船に浸かりたい時は浴場に行ってるよ」
「そうですか……あまり使っていらっしゃらないなら、洗ってから使いましょうか」
「お風呂とも洗いっこだ! あたしが洗ってあげる!」
草鹿副隊長は笑顔で私を振り返った。
浴槽を洗う為の掃除道具を探すが浴室内には見当たらない。自宅では浴槽に湯を張らないと言っていたから、そもそも掃除道具類もないのかもしれない。
「使っていない手拭いとかはありますか?」
「あるよ!」
草鹿副隊長は脱衣所に戻ると、古びた手拭いを持って来た。
「ではそれで浴槽をごしごし洗って頂けますか? 私がシャワーで洗い流しますね」
「うん! 分かったー!」
そうして浴槽を二人で綺麗にして、お湯を張った。脱衣場で身に付けていたものを脱ぎ、浴室へ。まずは草鹿副隊長の頭を洗う為にシャンプーを探すが、見当たらず。角が取れて丸くなった石鹸が一つ置いてあるだけだった。
「石鹸で洗っていらっしゃるんですね」
「うん。それの方が剣ちゃん、髪の毛がセットしやすいんだって」
「なるほど」
あの特徴的な髪型を石鹸が陰で支えていたのか。更木隊長のことが一つ一つ知れることが嬉しい。
私は石鹸を手に取って、泡立てていく。その泡で草鹿副隊長の頭と体を洗っていく。楽しそうに笑っている草鹿副隊長につられて私もたくさん笑顔になった。
草鹿副隊長の頭と背中が泡でいっぱいになると次の番は私。草鹿副隊長が小さな手で一生懸命に背中を洗ってくれた。背中だけではなくお互い体中を泡だらけにして、シャワーで洗い流す。石鹸で洗った為か、少し髪の毛がキシキシと音を立てていたが更木隊長と一緒なのだと思うと嫌ではなかった。石鹸で髪の毛を洗ってしまうと傷んでしまうが、草鹿副隊長の髪の毛は柔らかくて痛みなんか一切見えない。子供だからまだ平気なのだろうか。理由はわからないが濡れて艶々と光っている髪の毛をそっと撫でると草鹿副隊長は私を見上げて笑っていた。
体を洗い終えた私たちは向かい合うようにして浴槽に浸かる。一度に二人で入った為、溢れ出したお湯が浴槽から流れていく。
「
優ちゃん」
ふう、と身も心もほぐれる温かさに息を吐くと、少し元気がない声で名前を呼ばれた。
「これあたしが手を引っ張って、転んじゃった時の怪我?」
草鹿副隊長の目線を辿ると私の左膝に青痣があった。指摘されるまで気がつかなかったが、青痣できるような出来事はそれしか浮かばなかった。
「……ごめんなさい」
肩を落として元気がなくなってしまった草鹿副隊長は暗い顔で俯いてしまった。
「大丈夫ですよ。すぐに治っちゃいますから」
青痣を覆い隠すように手のひらで左膝を覆い、手のひらに霊圧を集中させる。柔い光が私たちを照らす。数十秒ほどそのまま霊圧を当てて、手のひらを外すと青痣はすっかり消えていた。
「すごーい!
優ちゃんは剣ちゃんの怪我も治しちゃうし、すごいね!」
「ふふ、ありがとうございます。……でも私はまだまだなんです。これからも力になれるように頑張りますね」
「うん。剣ちゃんの痛いの何処かに吹き飛ばしてあげてね」
「はい。勿論、草鹿副隊長もですよ」
何処か他人事のように聞こえてしまった草鹿副隊長の言葉が寂しく感じてしまい、桜色の頭を優しく撫でる。
優しい草鹿副隊長は私と更木隊長の仲をいつも取り持ってくれる。草鹿副隊長にとっても大事な存在である更木隊長。以前、草鹿副隊長は更木隊長を世界の全てだと教えてくれた。そんな仲の二人の間に割って入ってしまった私に「剣ちゃんを取らないで」と拒まれても何も可笑しくはない。それでもこうして私のことも好きになってくれて、甘えてくれて、受け入れてくれている。そんな草鹿副隊長の想いを砕いてしまいたくはない。
「あたしも?」
「はい。怪我してしまった時はすぐに私に教えて下さいね。大切で大好きな草鹿副隊長の怪我も私がぜーんぶ治しちゃいますから。だから、我慢したりしないで下さいね?」
柔らかくて温かい頬を両手で包んで言うと、私の手に小さな手を重ねて草鹿副隊長は少し目を潤ませて満面の笑みで笑った。
「うん……
優ちゃん、ありがとう」
お風呂ではない、別の温かさで胸が包まれていっぱいになっていく。私は更木隊長と草鹿副隊長が大好きだ、と感じる度に胸へ広がるこの温かさはいつも私を幸せな気持ちにしてくれる。
「ねえねえ、
優ちゃん」
「どうしましたか? 草鹿副隊長」
私の方へ身を寄せる為に草鹿副隊長が体を動かすと、ちゃぷんとお湯が音を立てた。私に抱き付いて体を寄せると、何も身に纏っていない為草鹿副隊長の体温が伝わってくる。
「剣ちゃんと
優ちゃんは恋人同士なんでしょ?」
「……そういうことに、なりますね」
その言葉にどくりと胸が音を立て始める。
「もう十一番隊の隊長と四番隊の隊士だけじゃなくて、恋人なんだよね?」
「は、はい」
改めて言葉にされると意識してしまい、恥ずかしさから顔に熱が集まっていく。まだその言葉に慣れていなくて、くすぐったい。
「じゃあ、あたしも……十一番隊の副隊長と四番隊の隊士じゃなくて、お友達だよね?」
「ふふ。私はそう思っていますよ」
少し遠慮がちにしていた草鹿副隊長へ微笑むと、口角も声の大きさも上がった草鹿副隊長は身を乗り出した。
「じゃあ、じゃあ! もう、あたしのこと"やちる"って呼んでも良いよねっ?」
期待の眼差しで草鹿副隊長は私をじっと見つめる。その真っ直ぐで可愛らしい瞳が愛おしくて、幸せなため息が漏れた。
「そうですね、やちるちゃん」
今日一番の笑顔で幸せそうに顔を綻ばせたやちるちゃんは、ぎゅっと強く抱き付いて私の胸へ顔を埋めた。
*
お風呂から上がり、寝間着へと着替え頃にはやちるちゃんはすっかり疲れ切ってうとうとしていた。お昼寝はしたと言っていたが、目覚めてから色々あった。寂しくて、悲しくて涙も流した。私の業務もせっせと手伝ってくれた。家事のお手伝いも一生懸命してくれた。たくさん笑って、元気で明るい姿を見せてくれた。お風呂で温まって、体がほぐれたことで眠気が襲ってきたのだろう。
「お休みの時間ですね」
「やだぁ……まだ、ねたく、ない……」
大きな欠伸をこぼして、目に溜まった涙を手の甲でごしごしと拭っている。
「剣ちゃんも、まだ……かえってきてないし……
優ちゃんとも、あそびたい、もん……」
腫れてしまわないように手首をそっと握って止めて、親指の腹で涙を拭う。
「また明日も遊べますよ。私、明日お仕事お休みなので一緒に遊びましょう?」
「ほんとう? ……やくそく、だよ?」
「ええ、約束です」
差し出された小指に自分の小指をそっと絡ませて、約束を結ぶ。
「いっしょに、ねよ?」
やちるちゃんに手を引かれて、引きっぱなしだった布団へと誘われる。
やちるちゃんが布団に横になり、私もその隣に横になる。ふわり、と更木隊長の香りが漂ってきて、まるで抱き締められているかのような感覚になった。心臓が鼓動が早くなるが、とても、落ち着く。
「
優ちゃん」
「はい」
落ちてくる瞼を何度も何度も上げて、やちるちゃん私をじっと見つめている。
「剣ちゃんと、ずっと、……いっしょに、いてあげてね……? 剣ちゃん、
優ちゃんのこと、だぁいすき……だから」
眠気と追いかけっこをしながら、ぽつりぽつりと伝えてくれるやちるちゃんの言葉一つ一つを聞き漏らしたくなくて息をするのも忘れて耳を傾けた。
「だから、……剣ちゃんのこと、きらいに……ならないで、あげてね……?」
「はい、嫌いになんてなりませんよ」
私の言葉に安心したように笑うやちるちゃんはまた私へ小指を差し出す。
「やくそく」
その小指に自分の小指を絡める。
「
優ちゃん、だいすき……」
それを私へ伝えるとやちるちゃんの下がった瞼はもう上がることがなく、心地良さそうに眠る寝息が聞こえてくる。
更木隊長は私たちが眠るまでに帰ってこなかった。早く会いたいけれど、もう切ない寂しさはなくなっていた。
「私も大好きですよ、やちるちゃん」
そっとやちるちゃんを抱き締める。やちるちゃんと、そして更木隊長の温度も確かに感じながら私も誘われるように眠りへ落ちた。
*
あれからどれぐらい眠っていたのだろうか。
玄関の方からガラガラと扉を開ける音が聞こえ、目が覚めた。今にもくっつきそうな瞼と戦っていると、鈴の音とずっと帰りを待っていた声が聞こえた。
「やちる、帰ったぞ」
更木隊長だ。
ようやく意識がはっきりしてきた頭の中で理解すると、私は熟睡しているやちるちゃんを起こさないようにそっと布団から抜け出した。
玄関へと向かうと、更木隊長が玄関に腰掛けて草履を脱いでいた。その背中に声を掛けてみる。
「おかえりなさい、更木隊長。お邪魔しています」
ぐるん、と勢い良くこちらを振り返った更木隊長は双眸と目があった。私の姿を見て、驚きからどちらの目も大きく丸くしていた。戦いの最中、眼帯を外したのだろう。それ程、今回の任務は大変だったのだと悟った。
「
春宮?」
「はい」
「どうして、ここに……」
「勝手にお邪魔して申し訳ありません。やちるちゃんに誘われてお泊まりさせて頂いてました」
「……やちる」
更木隊長は少しの間、固まってしまった。親しき仲にも礼儀あり、という言葉がある。やはり、遠慮しておくべきだったのか。
「はい。お断りを入れずに申し訳ございませんでした」
「……いや、問い質してるわけじゃねえ。謝らなくて良い。……本当に
春宮か?」
信じられなさそうに更木隊長は自分の頬を軽く摘んでいた。思わない更木隊長の行動に声を我慢して肩を揺らして笑ってしまう。
「……今日、会えると思ってなかった」
「私もです」
頬をつねった行動は自分でも無意識だったのか、少し決まりが悪そうだった。
「……」
何だかいつもの更木隊長ではないように見えてしまう。ここが初めての彼の家の中だからなのか、それとも眼帯を外して素顔が見えているからなのか、どちらがそう感じさせているのだろうか。どくどく、と心臓が落ち着いて考えさせてくれなかった。
更木隊長が遠慮がちに両腕を広げたので、またどくどくと煩くなる心臓を胸に一歩近寄った。すると何かを思い出したかのようにハッとした更木隊長は立ち上がって、腕を下ろすと後退った。少し顔色が悪いように見えた。
私、何か変な格好をしていただろうか?と自分の格好を手先から足先まで見渡した。寝間着が見苦しかっただろうか。
そんなことを考えていると、更木隊長は手のひらで右目を隠して、口を開いた。
「悪い。眼帯してなかった。……戦ってる時にどっかやっちまって今持ってねえんだ。さっき戦ってきたばかりで……俺、霊圧抑えるのよく分かんねえから、気分悪いだろ?」
全くそんなことは感じていなかったから驚いた。目を手のひらで隠しても技術開発局が作った眼帯のような効果はないというのに、その姿が健気に見えて可愛いと思ってしまった。
「いえ、そんなことありませんよ。貴方のことが恋しくて恋しくて……寧ろ貴方に抱き締められたくて、堪りません」
「……っ、血がついちまう」
「血がついても洗えば綺麗になりますよ」
「……、」
「更木隊長はお怪我はありませんか?」
更木隊長は黙ったまま、頷いた。
「……良かった」
止めてしまった足を進めて、更木隊長に近付く為に裸足で玄関へ降りる。
「足汚れるぞ」
「更木隊長も足袋が汚れちゃいますよ」
「……洗えば落ちるんだろ?」
「ふふ。はい、そうですよ」
草履を脱いでいる更木隊長も足袋で玄関に立っている。変わらず目を隠している更木隊長に向かって、今度は私が腕を広げてみた。更木隊長は少し戸惑いながらも私へ擦り寄るように抱き寄った。私の首元で深く息をしている。
「……俺の匂いがする」
「石鹸とお布団をお借りしました」
「そうか……」
たった三文字だったが、嬉しそうなのが伝わってくる声色だった。
──剣ちゃんも怒ったりしないよ!
優ちゃんのことが大好きなんだもん。
優ちゃんも怒ったりしないでしょ?
更木隊長も私と同じように嬉しいと思ったのだと思うと、とても幸福を感じた。
「更木隊長のお顔、よく見せてくれませんか?」
首元に埋められている顔の両頬へ両手を添えると、ゆっくり顔が離れていく。そして、またゆっくりと右目を隠していた手のひらが離れていく。森のように深い色をした二つの瞳が私を射抜いて離さない。耳のすぐ隣に心臓があるかのように錯覚するほど、どくどくと自分の激しい鼓動の音が聞こえる。
更木隊長が眼帯をしていない姿を見るのはこれで二度目だ。『末枯』の戦いで負った傷の治療を終えた後にも素顔は見ている。それでも、その時に感じなかった胸の高鳴りがここにあるのは、その時はまだ私たちの関係に"恋人"というものがなかったからだろうか。
そっと顔の左側にある大きな傷にそっと指をそわすと、少し左目が閉じられる。右頬からスッと指を滑らせて、いつも眼帯で隠されている右目の周りを撫でると、小さく頭が動いた。
「くすぐってえ」
「あ、ごめんなさい。眼帯がないのが新鮮で……」
手を引こうとすると指を絡められて捕まえられ、頬を擦り寄せられた。ふるふるとそのまま頭を横に振る。
「もっとしてくれ」
私を見つめる瞳は優しさもあるけれど、逃がさないというような鋭さもあって胸が大きく跳ねた。擦り寄られている頬をそっと撫でると、更木隊長の顔が近付いてくる。一度止まって、更木隊長の大きな手で私も頬を撫でられる。くすぐったくて、心地良くて、私も擦り寄ってしまう。更木隊長は、親指の腹で軽く唇に触れる。
「ここに、俺の、少しだけ重ねても良いか?」
「それ、って……」
「……キス、しても良いか?」
その二文字に私の心臓はどきどきと痛いほど騒がしくなった。小さく頷くと、止まっているのか、と疑ってしまうほどゆっくりゆっくりと近付いてくる。それが私を怖がらせない為だ、と分かっている私は愛おしさで胸が弾けてしまいそうだった。更木隊長が瞼を閉じるのを見て、私も瞼を閉じる。暫くして、唇にふにっとした柔らかな感触を少しだけ感じてすぐに離れていく。私は、初めて、更木隊長と口付けを交わした。目を開くと頬を赤くした更木隊長に見つめられていた。顔に熱が集まっていく。
急に視界が高くなり、彼に抱き上げられたと少し遅れて気付く。そういえば私たちは裸足と足袋で玄関に立っていた。
抱き上げられたことによって、何もしていなくてもいつもより近い位置に更木隊長の顔がある。更木隊長の唇から目が離せなかった。
もっと、更木隊長を感じたい。
自分の欲に、はしたなさを感じながらも更木隊長の頬に両手を添えて、唇を重ねた。先程よりも少しだけ長く、柔らかな感触を独り占めする。唇を離すと、更木隊長は目を丸くして驚いた。
「好きです……更木隊長」
更木隊長は眉に皺を寄せ、何かを耐えているように見えた。
更木隊長は私を抱えたまま家へ上がり、優しく家の廊下へと座らせた。
「俺も好きだ、
春宮……」
顎を掬われて、唇を奪われる。一度目よりも、二度目よりも、長い間重ねていた。時がそのまま止まったような感覚もあった。けれど私の手に重ねられた更木隊長の手と背中を支える腕にこもる力が少しずつ強くなるのを感じて、時間は止まっていないと教えてくれた。
ゆっくり唇を離し、鼻が擦れ合う距離で視線を交える。
「しふぉんけーきより、柔らかいな」
やちるちゃんにも「また食べたい」と言われたシフォンケーキの名がここで出てくるとは思わず、二人の意気投合具合に一人で笑ってしまう。
「ふふ……柔らかいですね」
また今度、ではなく明日にでもシフォンケーキを作ろうかな。
そんなことを考えていると更木隊長は目を少し細めた。そして口角を緩ませて、私が大好きな優しい顔で笑った。
「
春宮、ただいま」
「はい。おかえりなさい、更木隊長」
ああ。恋しくて、恋しくて、帰りを待ち望んだ大好きな人を出迎えることは、こんなに大きくて優しい幸せで胸いっぱいに満たしてくれるのか。
彼を見つめると優しく抱き締められ、彼も同じことを思っているのだと教えてくれた。
続