(一角夢主の四席も登場します。名前変換不可です。) 母が倒れた。
「おかあさま……」
「
優紫ちゃん、心配かけてごめんね……。お母さんは、大丈夫よ……」
私を心配させないように微笑む母の笑顔はいつもと違い、ぎこちなさがあった。息は荒く、熱のせいで頬は紅潮している。額に薄らと汗をかき、綺麗な透き通った声は掠れていた。私はその汗を拭うために母の枕元にある桶を手繰り寄せる。中に溜めてある冷水に手拭いを浸す。水を含んだ手拭いを固く絞ろうとするが、幼い私の力では十分に絞ることができなかった。手拭いからは水滴がぽたぽたと止め処なく流れ落ちている。思い描くように母の看病ができない情けない自分に涙が出そうになった。
「……ふふ。
優紫ちゃん、ありがとう」
母はそんな自分の気持ちに気付いたのか、私の頭へと手を伸ばす。私の大好きな優しい手が頭を撫でてくれる。その温かさに涙が頬を伝う、それを拭おうと手拭いから手を離そうとした時に大きな手に包み込まれた。
「おとうさま……」
父の手だった。
「自分の体と垂直になるように縦に握るんだ。そのほうが力を入れやすい」
そう言いながら父は手拭いを横に握っていた私の手を解き、雑巾を縦に握らせた。左手を順手で手前、右手を逆手で手拭い上部。
「そう何度も握り直すものではない。こうして、しっかり握りなさい」
「……はい」
「しっかり握った後は、両手首を内側に向けて絞るんだ。やってみなさい」
「はい」
父の言葉を頭の中で繰り返しながら、私は両手首を内側に向けて雑巾を絞る。すると、今度はしっかりと水気を切ることができた。父の顔を見上げると、目を細めて笑みを浮かべている。それに嬉しくなり私も顔が綻んだ。そんな私たちを見守っていた母も小さく笑い声を漏らし、微笑む。
絞った手拭いで母の汗を拭き取ると、熱で火照った体に水で濡らした手拭いが気持ち良さそうにしていた。母は目を閉じて柔らかく笑っている。
「ありがとう、
優紫ちゃん」
母は手を伸ばし、もう一度私の頭を撫でた。頭を数回撫で、私の頬に手を添える。母の手はいつもより熱を持っていた。
「
苑枝、食事はとれそうか?」
「はい。……少し、残してしまうかもしれませんが」
「構わん」
体を起こす母の背に父は手を添える。私も手伝おうと母に手を伸ばした。
「
優紫」
それを制するように、凛とした声で父は私の名を呼んだ。
「は、はい」
「あとは父に任せて向こうで遊んでいなさい」
「でも、わたしもおかあさまの看病を──」
「
優紫も風邪を引いてしまったら元も子もないだろう。父を困らせないでくれ」
「……はい。わかりました」
そう言われてしまったら、それ以上我儘を言うことはできなかった。私は立ち上がり、父と母に頭を下げ、父の言葉に従って寝室を後にした。
「……
才紫朗さん。
優紫ちゃんは、しっかりしていますがまだまだ子供なんですよ。もう少し優しい言い方をしてあげたらどうですか?」
「十分優しく言った」
「……」
「……が、何か駄目だったか?」
「もう……
才紫朗さん……。
才紫朗さんは怒っていなくても怒っているように見えてしまう時があるんですからね」
「……否定は、しない」
「きっと
優紫ちゃん泣いていますよ」
「……」
*
父や母からすれば私は力になれないほど、まだ幼いようだ。いろいろできるようになった、と自分ではそう思っている。だが、大人からすれば私なんてまだまだ子供だ。それは十分に分かっていたが、私も少しずつ成長していることを知って欲しい。
「たしか、この本に……」
私は、父の書斎で薬草図鑑の頁を捲っていた。
父は瀞霊廷の護廷十三隊・四番隊に所属する死神である。それ故に父は回道に長けている。また、私の家──
春宮家は代々医学に秀でており、流魂街で町医者としても活躍している。もちろん、父も死神として働きながら町医者として働いている。そのため、父の書斎には多くの医学書がある。休みなく働き、多くの人々に『ありがとう』と感謝されている父の姿はとても誇らしい。
そして、私はそんな父に憧れを抱いている。暇さえあれば、こうして父の書斎で書物を開いている。だが、まだ簡単な文字しか読めない私は薬草図鑑や人体図解の本──絵だけでも意図が汲み取れるような本ぐらいしか理解することはできない。それでも理解という言葉を使えるほど十分なものでもない。
以前、父の仕事を邪魔しない程度に文字の読み方や意味を尋ねた。体調を崩して寝込んでしまっている母の姿を見て、その時に父から教わった言葉と薬草を思い出したのだ。
「……あった!」
そこには、記憶の中の薬草と一致する絵。父から教わった『滋養強壮』という文字が書いてある頁を見つけた。「体力を消耗しているときには、滋養強壮効果が高いものを摂取すると良い」と父が言っていたことを覚えている。この薬草は一見ただの白い花に見えるが、白い花弁や葉、根には、その作用があるらしい。
(この薬草を探しに行こう……!)
そう思い至った私は大きな本を抱えて、父が死神業で使っている四番隊の隊花が入った救護鞄を手に持つ。鞄の中を確認すると、一通りの治療道具が入っていた。
「よし!」
鞄を閉じて、背負う。そして、私はそのまま父と母に見つからないように家を飛び出した。
文字が読めない私が分かることは、図鑑に載っている薬草の外見とそれが滋養強壮の効果があるということだけだった。
その薬草が生える時期、場所が分からずに飛び出すなんて今思えばあの頃の自分はとても無謀だった。でも恐怖心はなかった。その時の私には父と母から褒められて喜ぶ自分の姿しか思い浮かばなかったのだ。
*
探している薬草の頁を開いたままの本を抱えて、それが生えていそうな場所を探し歩いた。生い茂る草の中、樹木の根元、河川敷など思い付く場所をただ闇雲に探す。同じ頁に載っている薬草はいくつか見つけた。しかし、目当てとする白い花の薬草を見つけることはできなかった。植物には、それぞれ時期や生育地があることをまだ知らなかった私は辺りを見渡しながら、絶対に見つけるのだと自分に言い聞かせて先へ先へと足を進める。そんな私に声をかける者がいた。
「お嬢ちゃん」
背後から掛けられた声に私は振り返った。そこには掛衿、裾、袂が土で汚染された着物を来た男が二人いた。二人は私の頭の先から足先までじっくり舐めるように見て、まるで品定めをしているようだった。
「綺麗な着物を着ているね」
その言葉を聞き、私へ害を与えようとしているのだとすぐに分かった。
(逃げないと……!)
頭の中で警笛が鳴り響いた。本を閉じて、胸にきつく抱える。逃げようと立ち上がったが手首を掴まれてしまい、それはかなわなかった。胸に抱えていた本が音を立てて地面に落ちる。
「は、はなして! はなしてくださいっ!」
掴まれている手を振り払おうとするが大人に力で敵うわけがなく、余計私の手首を掴む力を強めただけだった。男の一人に抵抗できないように両手を拘束され、もう一人は父の鞄を乱暴に物色し始めた。
「やめてください! それはっ!」
「チッ……金目になるような物は、何も入ってねえな。何だよ、つまんねえなァ」
目当ての物はなかったのか、ごみを捨てるように鞄を放り投げられる。地面にぶつかった衝撃で包帯や薬、母のために集めた薬草が地面に散らばった。
「やっぱりお嬢ちゃんが着ている着物が一番良いな」
「これだけ綺麗な着物を着てんだ。こいつも捕まえて親を脅せば、それなりに金をもらえんだろ」
男の人はそう言うと、しゃがんで私に目線を合わせた。再び舐め回すように私を見る。
「それ、お兄さんたちにくれないかな?」
男は私を指差した。何を、と聞かなくても先程の男の発言で察しは付いた。
「お嬢ちゃん、どこの子だい?」
「お父さんとお母さんは、何て言う名前かな?」
両手首を掴む男の手に力が篭った。
「い、いやっ!」
振り解こうと抵抗しようとするが、ますます力強く掴まれてしまう。血が通わず、手の先が痺れてくる。
「はなして……!」
やはり私は無力なのだ。
少しできることが増えたからと言って、何でもできる気になっていたことが恥ずかしかった。悔しさが涙へと変わり、頬を流れた。
「だれかっ……! たすけ──」
「おい」
私の声を遮るように自分より年上に感じる幼い男の子の声が聞こえた。
私と男たちは、そちらへ目をやった。そこには、私より十数センチほど背が高い少年。短髪の黒髪に鋭いがあどけなさは残っている目元。少年は眉間に皺を寄せ、男たちを睨んでいた。身に纏っている着物は元がどんな着物だったのか想像できないほど袖や裾は引き裂かれている。そして男たちと同様に土で汚染されていた。
「お前は!」
男の一人が声を上げた。
「お前ら、さっきどさくさに紛れて俺の食い物を盗んで行っただろ。返せ」
「あれは俺たちが」
「返せ」
「ヒッ……!」
彼は手に持っていた刀身が長い刀をその男たちに突き付け、凄味が増した瞳で睨んでいた。声にならない悲鳴をあげた二人は、持っていた果物や木の実、食べ物をすべて地面へ落としてそそくさとその場を去った。私とそんなに年は違わないだろう彼は、私一人では追い返せなかった男二人をものの見事に数秒で追い返した。小さくなる男二人の背中にふん、と鼻を鳴らした彼は地面に落とされた食べ物を手に持っていた麻袋に詰め始める。私はそれを呆然としながら見つめた。彼は私の視線に気付き、こちらを振り返る。
「……やらねえぞ」
拾った林檎に付いていた土を手で払って落とし、齧りながらそう言った。食べ物が欲しかったわけではない私は首を横に振る。
「じゃあ、何だ」
「あの……ありがとう、ございました……」
「……」
助けてもらった感謝を述べるが、彼から返答はなかった。少しだけ眉を顰めて、私に向けていた視線をすぐに林檎へと戻した。しゃくしゃくと食欲を駆り立てる良い音を立てながら林檎を咀嚼している。
無視されてしまった。
彼は黙ったまま林檎を食べ進る。やがて、林檎は芯だけになった。彼はそれをその辺に放り投げ、また私へと視線を向けた。
「まだいたのか」
「ごみは、ちゃんとごみ箱にすてないと」
「あァ?」
とても不機嫌そうな低い声。私は彼が放り投げた林檎の芯を走って拾いに行き、それを両手に載せて彼へ差し出す。
「ちゃんと、ごみをすてるべき場所にすててください」
「……他の連中も捨ててるだろうが。見てみろ。他にも落ちてんだろ。俺がこれを捨てても捨てなくても何にも変わんねえよ」
彼の言うとおり、私たちの周りには人が捨てたであろうごみが落ちている。彼が捨てたものと同じ林檎の芯だったり、使い古された草履だったり、着物だったり、土に汚れてそれが何だったのかも分からないものもある。確かに、このたった一つのごみを正しい場所に捨てたとしてもこの場所は変わらないだろう。でも——
「いいえ。変わります」
「何が変わるって言うんだ」
「あなたがこれをちゃんとごみをすてるべき場所にすてるならば、すくなくともあなたの意識はかわるはずです。つぎはきっとだれも注意しなくとも、すてるべき場所にすてようとおもうはずですよ」
「……じゃあお前はこの辺に落ちているごみも捨てた奴を探して、そいつにもごみを捨てろと言うのか?」
彼は顎をしゃくり、周りのごみを指した。
「それは、さすがにできません。……ですが、わたしの目のまえでおこなわれた正しくないことは無視したくありません」
「この林檎も正しくないことで、手に入れたもんだけどな」
「それは、そうせざるをえない状況だったようですし……。でも、それがごみを好きにすてていい理由にはなりません」
「………ふん」
彼は私の言葉に改心してくれたのか、それとも言い合いが面倒になったのか、林檎の芯を乱暴に私の手から奪い取り、麻袋に収めた。しばらく私たちの間に沈黙が流れ、少年が私を見つめて口を開く。
「説教が終わったなら、とっとと帰れ」
「あ、えっと……」
私は地面に放り捨てられていた薬草図鑑を拾う。土を払い、ぱらぱらと頁を捲る。目的の頁を開くと私はそれを彼に見せた。
「この白いお花をさがしているんです。ごぞんじありませんか?」
「それ……」
頁を見せると、彼は目を見張らせた。「知っている」「見たことがある」という言葉は続かなかったが、彼の表情はそれを物語っていた。
「ごぞんじなのですか!」
思わず彼の手を握ってしまった。
「……見てねえ」
「見たことがあるという顔をしていました」
「見てねえよ」
彼は片方の眉を上げて迷惑そうな表情を浮かべ、虫でも追い払うように私が握っていないほうの手をひらひらとさせる。
「うそです」
「嘘じゃねえ」
「……」
「ンだよ……」
眉間に皺を寄せて片足を揺すり、面倒事に巻き込むなという顔で手を振り払われた。
「おねがいします……。知っていることならなんでも良いんです!」
「だから、知らねえって」
「おねがいします! おしえてください……!」
「……はあ」
譲らない私に彼が折れて、深いため息をついた。
「……さっき見た」
そして、そっぽを見ながらぽつりと呟く。
「ほんとうですか……! ぜひ、そこに案内を──」
「しねえ。もう帰れ。ここは、お前みてえな奴がいて良いところじゃねえぞ」
私の言葉を遮った彼は麻袋を肩に担ぎ、その場から立ち去ろうとした。
「まってください!」
また彼の手を握り、引き止める。
「……離せ」
彼は掴んでいる私の手を数秒黙って見つめ、冷えた声でそう言い放った。
「これがみつかるまで、かえりたくないんです……」
「……」
「……」
しばらく私たちの間に沈黙が流れる。懇願するように彼の腕を掴む手に力がこもった。
「……はあ」
彼のため息がやけに響いた。掴んでいた手は、糸も簡単に振り払われる。折角手掛かりを掴めそうなのに、どこかへ行ってしまう。もう一度彼の手を掴もうと手を伸ばした時に、言葉が降ってきた。
「こっちだ」
彼は顎をしゃくり、その方向へと歩き始める。
「ま、まってください!」
先導するつもりもないのか、彼は私を置いて先へ先へと歩いて行く。その背中を目で追いながら私は地面に散らばった薬や包帯、薬草を鞄に詰め直して彼の後を追った。
*
「あそこだ」
彼が指を差したのは岩壁だった。指先を辿るとそこには図鑑の絵と似た白い花が一輪咲いていた。
しかし、それは三メートルの高さに、だ。
「……」
案内して欲しいと願い出た時にすぐに快諾されなかったのは、ただ単に面倒だからかと思っていた。だが、彼はこれを知っていたから私に「帰れ」と言ったのだろう。子供の私たちにはそれを摘むことはできないから。
「……分かったら、さっさと帰れよ」
背伸びをし、手を伸ばしてみるが無論届くはずがない。彼はそんな私を一瞥し、また私の前から立ち去ろうとした。再度私は、彼の腕を掴んで引き止める。
「ンだよ……まだ何かあんのか?」
眉に皺を寄せて煩わしそうにしていた。しかし、手は振り払われない。
「肩を……肩を、かしていただけませんか……!」
彼は目を少し見開いた。
「……おねがいします」
「俺の上に乗っても取れねえよ」
「やってみないとわかりません……!」
「分かるだろ。見てみろ。あんな高ェところにあるんだぞ。それにお前が欲しがってる花と似てるだけで、まったくの別物かもしれねえだろ」
「なにもしていないのにできないって、あきらめるのはいやなんです……」
「……」
「……」
「……はあ。……これで取れなかったら諦めろよ」
彼は深いため息をつき、渋々快諾した。麻袋と刀を傍に置き、しゃがみ込んだ。
「おら、さっさと乗れ」
しゃがんだままの彼は私を見上げ、急かす。
「し、しつれいします……」
彼の背に手を置き、肩へ跨った。彼は私の両足を掴むとゆっくりと立ち上がる。落とされないように彼の頭に軽く掴まった。
「………」
手を伸ばすが届かなかった。まだ距離がある。彼は呆れたように深くため息をついた。
「……だから言っただろ」
「………」
「できねえもんは、できねえんだ」
彼は予想していた結果を、そう言い捨てた。
「下ろすぞ」
「まってくださいっ!」
「お、おいっ!」
私の足を支えている彼の手を振り払う。彼の頭に手を置き、彼の肩に足を掛けた。
「危ねえだろ! 落ちるぞ!」
「あと、もうすこしなんです! あと……もうすこしで……!」
彼の肩に立った私は、岩壁に咲く白い花へと手を伸ばす。しかし、あともう十センチほど届かない。
「あと、もうすこしなのにっ……!」
「もう諦めろ!」
「いやです!」
「おいッ!」
私は彼の肩を蹴り、跳んだ。
「……とどいた!」
私の手は、しっかりと白い花を掴んでいる。
「きゃっ……!」
が、彼の肩に元のように着地ができるはずがなく、彼の肩から足を踏み外した私はそのまま彼を下敷きにして落下した。
「……いってぇ」
「ご……ごめんなさい……!」
「早く退けろ……」
私の下でうつ伏せに倒れている彼は絞り出すような低い声を出した。私は急いで立ち上がる。
「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫なように、見えるか?」
「ごめんなさい……」
彼に手を差し出すが必要ないと振り払われてしまう。彼は一人で立ち上がる。
「あっ! 血が……!」
彼の右膝に先程までなかった傷があり、血が滲んでいた。
「こんなの大した傷じゃねえよ」
彼は何でもないように言い捨て、血を拭おうと傷口に手で触れようとした。
「さわらないでくださいっ!」
私の声に彼は小さく肩を震わせ、その手を止めた。
「清潔ではない手でふれたら雑菌が傷口に入って、化膿してしまいます。治療するので、そこにすわってください」
「………」
彼は反論することなく黙って私の指示どおりに静かに腰を下ろした。私は鞄から手袋、消毒薬、滅菌ガーゼ、血止め薬、包帯を取り出す。まずは手袋を身に付ける。
「すこし染みるかもしれません」
消毒薬を滅菌ガーゼに浸して、傷口を消毒した。傷口から砂と小さな石を取り除く。痛みがあるはずだが、彼は表情を一つも動かすことなく私の手元を見ていた。消毒が終わった傷口に、次は血止め薬を厚めに塗る。そして、包帯を巻いて保護をした。
「これでおわりです。このお薬は出血をとめてくれる作用と瘡蓋の役割をしてくれて、傷の治りをはやめてくれるので二、三日はこのままにしておいていただいてかまいません」
「……すげえな。……お前、何者だ?」
彼からの賛辞の言葉に頬が紅潮した。口角が自然と緩む。
「名乗るような肩書きはもっていないです……。でも、わたしの父がお医者様をしているんです」
「いしゃ、って病気とか怪我を治す奴のことか?」
「はい、そうです。わたしは、医者でもなんでもないので……じつは傷の手当てをするのははじめてで……でも、きちんとできてよかったです」
「……初めてだったのか」
「はい。でも、何度も父が処置しているところはちかくでみたことがあります」
何度も何度も父の傍で見てきた。自分の足に包帯を巻く練習もこっそりしたこともあった。実際にできるか不安もあったが、それでも自信のほうが強かった。
「ますます、すげえな」
初めて、彼が笑った。
口をきつく結び、口角を下げて不機嫌そうな顔ばかりしていた彼。今は口角を上げて目を細め、歯を見せて笑っていた。その笑顔になぜか、ますます頬が紅潮するのを感じる。きっと、初めて一人で何か成し遂げたことを褒められているからだろう。そう自分を納得させる。
「……これ、さしあげます。今日みたいに怪我をしたときに、これをぬってください。」
彼の林檎のように父からくすねて来た物だが、きっと父もこうするだろう。
私は血止め薬が入った小瓶を彼の手に握らせた。
「……どうして俺にここまでするんだ」
「二度もたすけていただいたからです。ありがとうございます」
「………」
感謝を告げるが、やはりそれに対する返答はなかった。
「なあ」
「……はい?」
「その……『ありがとう』ってのは、何だ……?」
無視されていたわけではなかった。
彼のその質問で彼の行動に合点がいく。無視したのではなく、言葉の意味を知らなかったから、何と返せば良いのか分からなかったのだ。
「『ありがとう』は、感謝のきもちをつたえる言葉です」
「感謝……?」
「はい。だれかになにかをしてもらって、助かったときや、うれしかったときに感謝のきもちとして『ありがとう』を相手につたえるんです」
「………」
彼は包帯が巻かれた右足に視線を落とす。しばらく、そのまま自分の足を見つめていた。そして、私へと視線を戻す。
「……ありがとう」
感謝の言葉をもらったことは、初めてではない。今日も母からもらった。
けれど、憧れの父のように初めて傷の手当てをした。そして、初めて感謝をされた。
「はい! どういたしまして!」
彼の言葉はとても自分を優しく包み、心も体も温かくなるものだった。
「……何で泣くんだよ」
彼は訝しげに眉を顰め、見慣れた表情に戻ってしまった。
「ごめんなさい……。とってもうれしくて……」
「俺が泣かせてるみてえだろ。とっとと泣き止め」
「うれしくても、涙はでるんです」
彼は不思議そうにしていた。私は涙を拭い、そんな彼に笑い掛ける。
「あの、あなたの名前はなんというのですか?」
「名前……」
「はい」
「……」
彼はきつく唇を結んだ。そしてしばらく沈黙した後に、ゆっくり口を開いた。
「……俺に、名前は──」
「勝手に一人で出歩いては、駄目だとあれほど言っただろう!」
彼の言葉は背後から聞こえてきた声に掻き消された。後ろを振り向くと、父がこちらに駆け寄っているところだった。
「おとうさま……!」
父は息を乱しながら私に怪我がないか確認し、抱き締める。
「怪我はないか?」
「はい。わたしは……」
「無事で良かった、
優紫。……
苑枝に叱られてしまったよ」
「おかあさまに……?」
「ああ……。もう少し優しい言い方をしろと」
叱られると思っていたのは、自分のほうだった。
「でも……わたしは、おとうさまとおかあさまの役に立てないから……。邪魔をしてしまうので、おとうさまは何も間違っては……」
「それは違う。……大人ではただの風邪でも子どもに罹ってしまったら重篤になる場合もある。それが心配だった」
邪魔だから、何も手伝えないから、という理由ではなかったのだ。私も勘違いをしていた。
「……ごめんなさい、おとうさま」
「私が悪かった。
優紫のことを足手纏いだと思ったことはない。私のことをいつもよく助けてくれている」
父に背中を撫でられる。優しいその手に思わず涙が溢れてきた。私がぎゅっと抱き付くと、父は私を抱き締める力を強めた。
「あのね、おとうさま。おかあさまのためにわたし、薬草をあつめたんです」
もぞもぞと父の腕の中で動くと、父は腕を緩めた。手に持っていた鞄の中身を父へ見せると、父は目を見張り驚いた表情を浮かべる。
「……凄いではないか、
優紫」
私と目を合わせると、眉を細めて穏やかに微笑んだ。
「私が知らないうちに、
優紫はもう一人で何でもできるようになったのだな」
「ありがとうございます……」
優しく微笑む父に頭を撫でられ、私は照れを隠すように少し俯いた。
「でも、わたし一人ではないんです。わたしを助けてくれた人がいて、このお花を一緒にさがして……あれ?」
「私が来た時から誰も居なかったが……」
振り向くとそこには、もう彼の姿はなかった。