「ちかちゃん!」
「
名前! どこに行ってたんだ! 一人で出歩いたら危ないって言っただろ!?」
いつも綺麗な表情から顔を崩さないちかちゃんが血相を変えて、わたしへと駆け寄った。
「……ごめんなさい。……きょう、ちかちゃんがおたんじょうびだったから……おはなをあげたくて……ちかちゃん、おはなすきでしょ?」
背中に隠していた花束をちかちゃんへ見せると口を小さく開いて、それに目を落としていた。
「これを僕に?」
「うん……ちかちゃんとずっと一緒にいられますようにって、このおはなさんたちにたくさんおねがいしたの」
「
名前……」
下がっていた口角がゆっくり上がっていく。
良かった。気に入ってくれたみたい。
「いろんな花がたくさんだね。ありがとう」
ちかちゃんは花束を受け取ると、柔らかい表情で笑っていた。
「……もう、おこってない?」
「一人で外を歩かないって約束するならね。約束できる?」
「うんっ!」
ちかちゃんの優しい手がわたしを撫でてくれる。この手がわたしは大好き。
「
名前も誕生日おめでとう。大きな声出してごめんね」
「ううん。わたしが、わるいことしたから……」
「
名前がこの花に願ってくれたように、僕も
名前とずっと一緒がいいなって思ってたよ。今日は
名前が好きな物を食べようか」
「ありがとう、ちかちゃん! でも、ちかちゃんの好きなものもだよ?」
「ふふっ、そうだね。さあ、
名前。帰ろうか」
そう言いながらわたしの手を握ったちかちゃんの手は、大きくて温かった。
*
ゆっくり瞼が開くと、板が綺麗に張り巡らされている天井があった。
まだ眠い目でぼんやりとそれを眺め、先ほど見ていた夢を思い出した。初めてちかちゃんの誕生日に贈り物をした日の記憶。懐かしくて、甘くて、柔らかで心地良い大切な思い出。いつ思い出しても優しい気持ちにしてくれる。けど、でも今は、少しだけ、胸が切なくなる。
真央霊術院で六年間、学んだちかちゃんは一角さんと一緒に入隊試験に合格し、今年の春に護廷十三隊へ入隊した。流魂街と瀞霊廷を隔てている高い壁の向こう側で過ごしているちかちゃん。ただでさえ死神業は忙しい。
物心ついた時からいつも毎日一緒にいたちかちゃん。死神になってから、ちかちゃんに会えた日を数えたほうが早いほどになってしまった。ちかちゃんが会いに来てくれなければ、会えない。寂しいけれど、わがままを言って困らせたくない。
普段はこんなに感傷へ浸ることはないが、今日は九月十九日──そう、ちかちゃんの誕生日。それもあって、つい頭に過ってしまうのは、ちかちゃんだった。
大切な日々に想いを馳せていると、廊下を駆ける足音がこちらへ向かってきた。それはわたしの部屋の前で止まると、勢い良く襖が開く。
「
名前ー! おはよー!」
志乃ちゃんは大きな口を開き、溌溂とした声で朝の挨拶をわたしへ告げた。
「志乃ちゃん、おはよう。今日は早起きだね」
ちかちゃんが護廷十三隊時へ入隊してからわたしは、志乃ちゃんの住み込みの使用人として斑目家に引き取ってもらった。ちかちゃんがいなくなければ流魂街で一人過ごすことになるわたしをちかちゃんと一角さん、そして志乃ちゃんが気遣ってくれたのだ。
朝が弱い志乃ちゃんを起こすことがわたしの毎朝の仕事。「あともう少し」と言ってなかなか起きない志乃ちゃんにいつも苦戦している。でも今日は珍しく志乃ちゃんは自ら布団から起き上がっている。まだ寝間着のままで、身支度はまだ整えてないみたいだけど。
「だって今日は
名前の誕生日じゃない」
部屋の中に入ると、志乃ちゃんはわたしが座っている布団まで歩み寄る。向かい合うようにして、志乃ちゃんは布団へ腰を下ろした。そして、目を合わせて楽しそうに笑っている。
「……どうしたの?」
「誕生日おめでとう、
名前!」
志乃ちゃんの明るくて優しい顔にわたしを包んでいた悲しさがどこかへと飛んでいった。
「……覚えてくれてたんだ」
「当り前じゃない」
「ありがとう、志乃ちゃん」
目を細めて、にこっと笑うと志乃ちゃんはスッと立ち上がる。右手で拳を作り、左手は腰に当てていた。
「だから遊びに行くよ!」
「え、でも、今日もお仕事が……志乃ちゃんもお稽古が……」
「今日は
名前もあたしも休みなの! さっきあたしがみんなに言ってきたから! だから遊びに行くよ! 誕生日なんだから!」
こうして志乃ちゃんの発言で突然休みになったりすることはよくある。それでも周りの人たちは、何も言わずにそれに従っている。
ちかちゃんが一角さんと交流を持つようになって、知り合った志乃ちゃん。可愛くて、面倒見も良くて、思い切りが良いからついつい姉のように頼ってしまうことがある。
気取った感じもなく、自分と同じ女の子だけどこの屋敷では決定権を握っている。そんな志乃ちゃんに自分とは違う名家のお嬢様なのだと実感させられていた。
わたしは志乃ちゃんの甘い言葉を甘んじて受け入れてるから、もしかしたらいつかバチが当たっちゃうかもしれない。
「ほら、どこに行きたい? 何食べたい?」
「えーっと……志乃ちゃんは?」
「もう!
名前の誕生日って言ったでしょ!」
志乃ちゃんは眉を顰め、前屈みになるとわたしの鼻を摘んだ。
「志乃ちゃん、痛いよ〜」
「出掛ける準備する間にちゃんと決めてね」
口角を上げ、白い歯を見せながら笑った志乃ちゃん。頭を傾けると寝ぐせで天に向かって跳ねている髪の毛が可愛らしく揺れていた。
*
改まって「出かけたい場所はどこ?」と聞かれると中々考えはまとまらなかった。普段志乃ちゃんとお喋りしている時は、色々二人でしたいことや食べたい物が止まらないのに不思議。
「この"ころつけ"っていう食べ物、ホクホクしてて美味しいね」
「ね。現世の料理も意外といけるじゃない」
身支度をしている間で決めきれず、寝癖がなくなった志乃ちゃんに急かされるようにして出てきたのが、この"ころつけ"だった。
最近、現世から流入してきたじゃがいも料理。
現世では子供から大人まで大人気な食べ物らしい。外側は油で揚げられてサクサクとしているのに、中はホクホクで噛まなくても口の中で溶けていくような食感がとても美味しい。
現世が発祥のものは、入手が難しいためこちらでは高価な物が多い。貴族や瀞霊廷で働く人にとっては手に取りやすいだろうが、流魂街の住民にとっては雲の上。でもこの"ころつけ"は比較的お手頃価格で売られている。
じゃがいもを潰して、それを油で揚げるなんて考えたこともなかった。現世の人達は凄いなあ、と思いながら、まだ一度も目で見たことがない現世へと想いを馳せた。
「あ〜、美味しかった! 今日売り切れてたけど、次はころつけじゃないのも食べてみようよ。なんて言う名前だっけ……えっと……」
志乃ちゃんは満足そうにお腹を撫でた後に、腕を組んで考え始めた。
「めんちかつ、だっけ? あれも美味しそうだったよね」
見た目は、ころつけとよく似ていたけど中身は全く違うとお店の人が言っていた。
お肉らしいけど、どんな中身なんだろう。味を想像しながら、ころつけを食べ切る。
「志乃ちゃん、ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
無邪気に笑うと、志乃ちゃんはわたしの手を取った。
「よし、
名前! 次は、あそこ行こ!」
志乃ちゃんが指差したのは、小物屋さん。若者向けの商品を多く取り扱っている可愛いお店。興味はあったけれど、一度も訪れたことがなかった。
「
名前に似合う髪飾り、あたしに選ばせて!」
楽しそうに目を輝かせ、そう言うと志乃ちゃんはわたしの手を引いて小走りでその店へと向かった。お店に近付くに連れて、胸が少しずつ高鳴っていく。
お店に足を踏み入れると、どこを見ても可愛くてきらきらしている髪飾りや簪、帯留、帯締が並んでいた。志乃ちゃんは意気込んで、"わたしに似合う髪飾り"を探し始める。わたしも志乃ちゃんに習って、並んでいる商品を眺めた。わたしには勿体無い物ばかりで、手に取るのを躊躇ってしまう。
「
名前っ」
鞠のように声を弾ませながら名前を呼ばれ、振り向くと笑顔の志乃ちゃんが立っていた。
「じっとしててね」
「うん?」
志乃ちゃんは真剣な顔になると、白い髪飾りをわたしの顔の横に近付けた。うんうん、と頷くと白い髪飾りを下ろし、今度は色違いの赤い飾りを近付けた。うーん、と小さく唸ると、白い髪飾りが顔の横に戻ってきた。
「
名前は白い髪飾りがよく似合うね」
にこっと笑うと志乃ちゃんは白い髪飾りをわたしに差し出した。手のひらを出すと、そこにそっと乗せられる。小さな可愛いお花がいくつかあしらわれている可愛い髪飾り。
「そうかな? 可愛くて、わたしには勿体ないような……」
「なあに? あたしが言うことが信用できないの?」
志乃ちゃんは疑うように半目でわたしをじーっと見つめてくる。
「ちっ、ちがうよ!」
手と頭を振って、慌てて否定すると志乃ちゃんはふき出して笑い始めた。体を揺らして大きく笑っている志乃ちゃんの手にある赤い花の髪飾りがしゃらしゃらと可愛らしく音を立てている。
「あー、
名前はやっぱり可愛くてからかい甲斐があるね。涙出ちゃった」
「ねえ、志乃ちゃん」
「なに?」
「そっちの赤いほうも見てもいい?」
「
名前は赤色好きだった? そっちにする?」
「ううん」
志乃ちゃんの前で手を広げると、手のひらに赤い髪飾りが乗せられた。それを志乃ちゃんがしてくれたように、志乃ちゃんの顔へ近付ける。
「志乃ちゃんに似合いそうだなあ、と思って。やっぱり、よく似合ってるよ」
たくさんの表情を見せてくれて、溌剌とした元気な笑顔がよく似合う志乃ちゃんにぴったりだった。
「わたしは、こっちを買って志乃ちゃんに贈り物しても良い?」
「良い、けど。今日は
名前の誕生日よ?」
「うん。志乃ちゃんとお揃いが良いなって思って……だめかな?」
志乃ちゃんは、わたしの手を握ると顔をぐいっと近付けて大きく口を開いた。
「良いに決まってるじゃない!」
大きな声に驚いてしまって肩を思わずすくめてしまう。志乃ちゃんは「ごめんごめん」と笑いながら、わたしの肩を撫でてはにかんだ。
「じゃあ。これを付けて、あんみつ食べに行こうか!」
「うんっ」
今度は志乃ちゃんと顔を見合わせて、二人で笑う。
楽しい。
志乃ちゃんと一緒だと時間があっという間に過ぎていく。
──でも。ふと、ちかちゃんはどんな誕生日を過ごしているのかと考えてしまった。
志乃ちゃんがわたしを祝ってくれているように一角さんたちにお祝いしてもらって、美味しい物を食べたり、楽しく過ごしているのだろうか。ちかちゃんの笑っている顔が頭に浮かんでくる。大好きなちかちゃんが楽しんでいるなら、それが一番なはずなのに悲しい気持ちになってしまった。
幸せを願っているはずなのに、そこに自分がいないとその幸せを僻んでしまう胸の奥深くにいる自分が大嫌い。
*
お揃いの髪飾りを身に付け、わたしたちは栗のあんみつを食べた。秋季限定のあんみつで行列ができていたが、待ち時間も志乃ちゃんと一緒だとあっという間だった。
「……ころつけもあんみつも美味しかったなあ」
湯を浴び、床につく準備を済ませたわたしは布団に寝転がりながら一日を振り返る。
たくさん美味しい物を食べて、たくさん歩いて、たくさんお喋りして、笑って、充実した一日だった。
寝返りを打つと、枕元に置いていたある物が目に入り、手を伸ばした。
「……」
それは、ちかちゃんへの手紙。
これも渡せていれば、もっと充実した一日だったかもしれない。瀞霊廷宛てに送れば良かったが、迷惑かもしれないと思うとできなかった。会えない時間がわたしを不安にさせてしまう。
そんなわたしを慰めてくれているような布団に包まれていると、襖が勢い良く開く。
反射的に手紙を枕の下へ隠して飛び起きると、そこには志乃ちゃんが布団を抱えて立っていた。
「し、志乃ちゃん!? どうしたの……?」
「一緒に寝るのもいいかな、と思ってね。
名前の誕生日だし」
志乃ちゃんは悪戯っ子のような表情で笑うと、わたしの布団の隣に布団を敷いた。
「あ〜! 疲れた、疲れた〜! 足パンパン! でも疲れ切ってると布団って最高に気持ち良い……」
大の字で布団に寝転がり、柔らかい布団に包まれながら目を閉じて癒しを感じているようだった。ぱちりと瞼が開くと栗色の瞳と目が合う。
「楽しかったね」
「うん。すっごく楽しかった」
わたしも志乃ちゃんと同じように大の字で布団に寝転がると、志乃ちゃんは優しい顔で笑った。
そしてそのままわたしたちは、その日のことや次遊びに行く日のことを時間を忘れて言葉を交わし続けた。
志乃ちゃんが欠伸を一つこぼし、それがわたしにうつったところで「そろそろ寝ようか」と二人で意見が合致し、部屋の灯りを消した。
暗くなった部屋で布団に包まれ、先程まで賑やかだった部屋に静寂が訪れる。
「……ねえ、
名前。寝ちゃった?」
どれぐらい経ったのだろうか。ぼうっと天井を見つめていると、耳元で囁くような小声で志乃ちゃんの声が聞こえた。
「ううん、起きてるよ」
志乃ちゃんのほうへ体を向けると志乃ちゃんも同じようにわたしへ体を向けた。部屋の中は暗いけど目が慣れたおかげで、ぼんやりと表情が分かる。志乃ちゃんは、ほんの少しだけ眉を寄せると少し言い出しにくそうに小さく口を開いた。
「やっぱり……弓親さんがいないから寂しい……?」
悟られないようにしていたつもりだけど、志乃ちゃんにはしっかり気付かれてしまった。
「……うん」
「そうだよね。あたしも一角兄いなくて寂しいもん」
こうして今日、わたしを一日連れ歩いて楽しませてくれれ、布団を並べて一緒に寝てくれているのもきっとわたしを思ってのことだろう。
「……ごめんね」
「どうして、
名前が謝るのよ」
志乃ちゃんは優しく微笑みながら、わたし手を握った。
温かくて、落ち着く。
ちかちゃんの手も温かかったな、と思い出してしまい涙が溢れそうになった。
「あたしね」
「うん」
「……来年、真央霊術院の入隊試験を受けようと思ってるの」
わたしを真っ直ぐ見つめながら、志乃ちゃんはしっかりした芯のある声で言った。わたしを真っ直ぐ射抜いている栗色は、暗闇の中できらめいている。先の未来への期待に満ちている志乃ちゃんの心を表しているようだった。
「弓親さんを見てて思ったんだ……、一角兄が前に立ってくれて色んなことから守ってくれたり、背中を追いかけるだけは嫌だ。あたしも一角兄の隣に並びたい」
「志乃ちゃんなら絶対なれるよ。わたし、応援する!」
ちかちゃんと一角さんのように黒い死覇装を身に纏っている志乃ちゃんを容易に想像できた。面倒見が良くて、行動力がある志乃ちゃんにはよく似合っている。
志乃ちゃんはわたしの手を握ると、目を細めて優しく笑った。
「ねえ、
名前も死神を目指さない?」
思ってもいなかった言葉が志乃ちゃんの口から飛び出した。
「……え? ……わ、わたしも?」
「そう。
名前とあたしの二人で死神になるの」
「志乃ちゃんに死神はぴったりだと思うけど……わたしなんて……いたっ!」
志乃ちゃんはもぞもぞと体を動かして、わたしへ近寄ると頭を軽く振り、わたしの額に向かって頭突きをした。ゴン、と重い音が頭の中に響く。ヒリヒリと痛む額を咄嗟に抑えた。
「痛いよ、志乃ちゃん!」
「
名前がその『わたしなんて』って言うの、あたしは嫌いよ」
眉間に皺を寄せて、明らかに怒っている顔だった。
「でも……ちかちゃんみたいに霊圧の扱いが上手なわけじゃないし、一角さんみたいに戦いが好きなわけじゃないし……いた!」
わたしの言葉を並べていくと、志乃ちゃんの眉間にますます皺が寄っていく。
「その『でも』も嫌い。体を動かすことは好きだし、楽しそうにしている一角兄を見るのは好きだけど誰かを斬ったりする戦いは正直あたしも苦手。弓親さんみたいに霊圧を扱うこともあたしだって自信ない。なりたい気持ちと同じぐらい不安はいっぱいだよ」
強く手を握られ、わたしはやっと志乃ちゃんの手が僅かに手が震えていることに気が付いた。
そうだよね。
志乃ちゃんはわたしと同世代の女の子。普段はそんな姿を見せないように気丈に振る舞ってるけど、わたしが怖かったり、不安に思ったりすることは志乃ちゃんにとっても同じ。
「それでもあたしは
名前と一緒に目指したいって思ったの。
名前と一緒なら全部"楽しい"に変えられるって思ってる」
「なれるかな……」
「なれるかな、じゃなくてなるの。二人でね」
志乃ちゃんの言葉はいつもわたしに勇気をくれる。わたしの手を引いて、新しい世界へと連れて行ってくれる。
志乃ちゃんが「できる」と言えば、翼を折られた鳥も飛べ、声を奪われた狼も月へ向かって遠吠えられると確信してしまう。そんな不思議な力があった。
「
名前だって、弓親さんのこと待ってるばかりは嫌でしょ?」
「良いのかな……そんな不純な気持ちで目指しても……」
「誰かと一緒にいたいから強くなるって、あたしは立派な理由だと思うけど? それにお金稼ぎで死神を目指してる人とゴロゴロいるし、
名前の理由が不純ならみーんなそうよ。あたしもね」
「志乃ちゃんは違うよ! ちゃんとした理由だもん! 不純なんかじゃない!」
「分かった、分かった。ありがとね」
思わず出てしまった大きい声に志乃ちゃんは笑いながら、宥めるようにわたしの頭を撫でた。
「それで、
名前の今の気持ちはどうなの?」
「わたしは……」
ちかちゃんに死神を目指すことを伝えられた時は、正直「わたしのことを置いて行っちゃうんだ」と思ってしまった。でもちかちゃんが決めたことをわたしのわがまま一つで変えたりなんかしたくなかった。それでも寂しくて、淋しくて。あの時、自分も死神になりたいと言ったらどんな顔をしていたんだろうか。何か変わっていたのだろうか。
今、あの時のよう勝手に一人でいじけてしまえば、何も変わらない。より深くなる寂しさに一人で涙するだけだ。
わたしも変わりたい。ちかちゃんの背中じゃなくて、隣に立ちたい。
「……わたしも、志乃ちゃんと一緒に……死神になりたい」
志乃ちゃんはわたしを勢いよく抱き締めた。「よく言った! 偉い!」なんて言いながらたくさん褒めてくれるから、わたしはいつもついつい甘えちゃうんだ。
でも、今日はわたしの遠い先を歩いているちかちゃんに一歩近付けた気がした。
*
──トントン
突然、耳に飛び込んできた音が優しくわたしを眠りの海から手を引いた。
開いても自分が意図せずに落ちてくる瞼を何度も持ち上げる。自分の顔のすぐ隣には、ぐっすり眠っている志乃ちゃんの顔。布団を二つ並べたのに、結局くっ付いてわたしたちは一つの布団で眠ったのだった。気持ち良さそうに眠っている志乃ちゃんを見ていると瞼が完全にくっつきそうになってしまう。
──トントン
すると、また同じ音が聞こえてきた。少しだけ体を起こして音の元を探す。
月明かりが差し込み、部屋の中は明るい。
ぐるり、と部屋を見渡すと障子越しに一つの影があった。月明かりを背にして、浮かび上がる黒い影。不思議と恐怖は抱かなかった。説明できないが、むしろ感じたのは安堵。
わたしは枕の下に忍ばせたままだった手紙を懐に入れ、その影へと近付いた。
ゆっくり障子を開く。
そこには、今日一日中想いを馳せていた人の姿があった。
大きな月の輝きを背にしているその姿は、浮世離れしている美しさがあった。まるで御伽話の中に入り込んでしまったかのような感覚に包まれる。
もしかしたら、わたしは夢を見ているのかもしれない。
「……ちかちゃん?」
黒い死覇装を着ている姿は初めて見た。なんだか違う人のようだった。でも、わたしと目を合わせて、いつものように口角を少し上げて優しく微笑む。
「うん。起こしちゃってごめんね」
「本当に、ちかちゃん……?」
「そうだよ」
繰り返して確かめるわたしに、ちかちゃんは短く声をもらして笑った。
「起こしちゃってごめんね。もっと早く来るつもりだったんだけど、なかなか抜け出せなくて」
一歩踏み出して近付くと、ちかちゃんの笑みは深くなった。もう一歩近付いても、幻みたいに消えたりはしない。
ちかちゃんは穏やかに微笑みながら両手を広げた。
「おいで?」
あやしてくれるような声にわたしは我慢できなくなってしまい、その胸の中へ飛び込む。ちかちゃんは優しく抱き締めてくれる。懐かしい香りに紛れて、ほんの少しのお酒と煙草の匂い。やっぱり一角さんたちにお祝いしてもらっていたんだ。それなのにわざわざわたしのところに来てくれたことが嬉しくて、涙がじわりと滲んできた。
「……ちかちゃん、お誕生日、おめでとう」
「うん。
名前も誕生日おめでとう」
すん、と音を立てながら無意識に鼻を啜ると、ちかちゃんが頭を撫でてくれた。それにまた涙が溢れてくる。
「ちかちゃん、これ……」
懐に入れていた手紙を差し出す。ちかちゃんは、少し驚いた顔をしている。
「手紙?」
「うん……。本当は送ろうと思ってたんだけど……」
ちかちゃんは綺麗な細い指で手紙を手に取った。ちかちゃんのために書いた手紙だけど、いざ手に渡ったと思うと急に恥ずかしくなった。
「ありがとう。今、読んでもいい?」
「だ、だめ! えっと……恥ずかしいから、あとでお願いします……」
面と向かって手紙なんて読まれたら恥ずかしすぎてどうすれば良いのかわからなくなってしまう。
大慌てで止めるとちかちゃんは声を押し殺し、肩を震わせながらくつくつと笑っていた。それに余計、恥ずかしさも頬の熱も増していった。
「今読んで、この手紙の返事をしたい気分なんだけど、それでもだめ?」
「それでもだめ!」
「分かったよ」
わたしの赤い顔を見て、意地悪なことを言ってきたちかちゃん。おかしそうに笑っているちかちゃんを睨むようにしてじっと見つめると、「ごめん、ごめん」と頭を撫でられる。からかわれるのは恥ずかしいけど、嬉しいと思ってしまう自分もいる。
わたしの頭を撫でていた手を止めると、ちかちゃんはその手をもう片方の腕へと持って行った。
「僕も、これ。受け取ってくれる?」
すぐに気付けなかったが、ちかちゃんの腕には紙袋が掛かっていた。その中からちかちゃんが取り出したのは紙箱。それをわたしへと手渡される。
「開けても、いいの?」
「どうぞ」
ちかちゃんを見上げると、目細めている優しい瞳と目が合った。
ゆっくり紙箱の蓋を開けると、その中には白菫色の草履。わたしが普段履いている藁の草履ではなく、志乃ちゃんが履いている綺麗な着物と一緒に合わせて履くような皮の草履だった。白菫色の草履は月の明かりを反射して、わたしの目にはとても眩しく映った。とても、美しかった。
「これ履いて、少し散歩でもする?」
髪の毛を指に絡めるように頭を撫でられ、胸が跳ねる。
「……えっと」
「気に入らなかった?」
首を傾げて、少し苦笑を浮かべているちかちゃん。慌ててわたしは首を振る。
「ううん! 違うっ! その……お散歩したいけど、せっかくこんなに綺麗なのに汚しちゃうのがなんだか勿体無くて……」
ちかちゃんに貰った草履を履いて、ちかちゃんと一緒に散歩はもちろんしたい。でも汚したくない。そんなこと言ってたら、いつまでも履けなくて置物にしてしまうかもしれない。ちかちゃんもちゃんと使っているほうがきっと嬉しいに決まっている。
「じゃあ──」
紙箱の中で輝いている草履に手を飛ばすと、ぐらりと視界が揺れた。
「わっ……!」
紙箱を抱えたまま、ちかちゃんはわたしを横抱きに抱え上げた。ちかちゃんと目が合うと、口角をゆるりと上げて微笑む。自分が置かれている現状を客観的に考えると、頬が急激な速さで熱くなってくる。
「少し我慢してて?」
急に周りの風景が目に捉えられない速さで動き、気付くと屋根の上にいた。月と距離が近くなり、大きく見える。
「ここで、少しお喋りでもしようか」
ちかちゃんはゆっくりわたしを瓦の上へと下ろすと、わたしのすぐ隣に腰を下ろした。
「
名前は、今日何してたの?」
「あのね、志乃ちゃんと一緒に"ころつけ"食べたの」
「"ころつけ"って、あのじゃがいもを油で揚げてる?」
ほんの少しだけ眉をぴくりと動かしたちかちゃん。
(……あ、油ってお肌に悪いからちかちゃん嫌いだったかな)
話題として相応しくなかったかもしれないと思うと、焦りが生まれてくる。
「うん……その"ころつけ"……」
ぎこちなく頷いて、何となく目を合わせ辛くて少し俯いていると頭を撫でられた。
「美味しかった?」
「う、うん……すっごく……」
「
名前が美味しかったなら、僕も食べてみたいな」
ちかちゃんは、優しい顔だった。その言葉に嘘はなさそうな、ちゃんと心がこもっている言葉だった。
「うん! 食べてみて。お芋がホクホクしてて美味しいの」
自然と口角が上がってくる。わたしが笑うと、ちかちゃんも笑ってくれた。
「ちかちゃんは、何してた?」
「僕は普通に仕事して、仕事の後に一角や隊長たちが僕の誕生日という名目で酒を飲んで騒げるからって居酒屋に連れて行かれて、今までそこにいた感じだね」
「抜け出して来ちゃって良かったの?」
「大丈夫だよ。もうみんな泥酔しちゃって、僕がいないのも気付いていないと思うし、僕が誕生日っていうのももう忘れちゃってると思うよ」
ちかちゃんは呆れたように肩をすくめていた。ちかちゃんの隊長さんには会ったことないけど、一角さんはお酒が大好きだったからたくさん飲んで呆れているちかちゃんが簡単に想像できた。思わず笑ってしまう。二人が死神になる前もそういう光景をよく見たなあ、と懐かしい気持ちにもなってくる。そんなわたしをちかちゃんは暖かい目で見つめていた。
「死神の仕事楽しい?」
「まあね、それなりに楽しくやってるよ」
「そっか、良かった」
次、いつ会えるか分からないからあのことを伝えておくべきかもしれない。
「ちかちゃん、あのね」
「うん?」
優しくて柔らかい声と一緒にちかちゃんは小首を傾げた。
「わたしが……死神になりたい、って言ったら止める?」
そんな言葉がわたしの口から出てくると思っていなかったのか、ちかちゃんは目を見開いていた。こういう顔をしててもかっこいいな、なんて場違いな考えを頭の隅においやる。
「死神に?」
「うん。志乃ちゃんと一緒に頑張ろうねって話してたの……」
「……」
ちかちゃんから言葉は返ってこない。
「……やっぱり、だめかな」
「まさか。そんなことないよ。驚きはしたけどね」
ちかちゃんはわたしの頭を撫で、微笑んだ後に真剣な顔へと変わった。
「でも、どうしても命の危険が隣にあるから兄としては心配だけどね」
少しの沈黙の後、ちかちゃんは鼻をならして苦笑を浮かべた。
「……でもそれは、流魂街にいてもそれも同じ、だもんね」
「わたしになれるか、分からないけど待ってるだけになりたくなくて……強くなりたいの」
「そっか……決めたんだね。
名前は僕のことを応援してくれたんだから、
名前のことを僕は応援するよ」
「……ありがとう、ちかちゃん」
目を見合わせ、わたしたちは同時に笑った。
ちかちゃんはわたしの腕の中にある草履を指差して、口を開いた。
「これと合う
名前に似合う着物を選びたいなって思っているんだよね。その時ははなむけとして、最高級なものを仕立てないとね」
「き、着物も!? そんなにたくさん貰えないよ……!」
「良いんだよ。今までたくさん我慢させてきちゃったし、僕がそうしたいんだ。だから受け取って欲しいな」
「ちかちゃん……」
それはわたしの台詞だった。わたしのほうがきっとちかちゃんにたくさん我慢させてきてしまった。
親に捨てられ、わたしたちは二人で生きてきた。霊力を保持していたわたしたちは危険がつきまとうことが多く、いつもちかちゃんはわたしの前に立って、守ってくれていた。霊力があるせいで空腹を感じ、食料を調達する必要があった。いつも食事をわたしに多く分け与えてくれていたことに、わたしはちゃんと気付いている。
妹という存在。きっと、ちかちゃんにとってわたしは足枷だった。それでも一度もそれを感じることがなかった。
だから、一角さんと死神を目指すことを告げられた時に引き止めるなんてことは出来なかった。
死神になれば、わたしもちかちゃんに何か恩返しできるだろうか。
「ちかちゃん、ありがとう……」
「泣かないで?」
気付けば頬を流れていた涙をちかちゃんは微笑みながら指の甲で拭ってくれた。
「着物を選びに行った時にさ、僕とも"ころつけ"食べてくれる?」
「……うん! ちかちゃんと一緒に食べたい」
それから、月に見守られながらしばらくちかちゃんとお喋りを続けた。
このまずっとこうしていたい。
そう思っていても流石に欠伸がもれてしまい、瞼が徐々に重くなった。うとうとしているわたしに笑みを溢しながらちかちゃんは、肩に手を回すと胸の中へと抱き寄せた。
「おやすみ」
寝かしつけるように頭を撫でられ、わたしは簡単に眠りへと落ちていく。
「──待ってるよ、
名前」
遠くで聞こえるちかちゃんの声が子守唄のように聞こえた。
*
「
名前、朝よー!」
体を遠慮なく揺すぶられ、意識を引き上げられる。
甘いを夢を見ていた。ちかちゃんが会いに来てくれる夢。夢の中でもちかちゃんは優しくて、温かかった。まだその夢に浸っていたくて、夢の続きが見たくて、掛け布団の中に潜るとため息をついた声が聞こえてくる。
「昨日いろんなところに連れて歩き回りすぎちゃったかなあ。いつもあたしを起こしてくれる
名前の気持ちがなんとなく分かったかもしれない……」
また意識が夢の世界へと旅立とうと準備を始め、最後のほうの言葉を何を言っているのか頭で理解することができなかった。
「あ、弓親さん! お久しぶりです、元気でしたか?」
ちかちゃんの名前にとろとろとわたしを溶かしていた眠気はあっという間にどこかへと逃げていった。
「え! ちかちゃん!?」
慌てて飛び起き、室内を見渡すがどこにもちかちゃんの姿はなかった。茶目っ気のある顔で笑っている志乃ちゃんだけ。
「志乃ちゃん、ひどい……!」
「だって、こうでもしないと
名前は起きないじゃない」
今度、わたしも志乃ちゃんを起こす時に一角さんが帰って来たと嘘をついて悪戯をして仕返しをしようと企てていると志乃ちゃんはきょとんとした顔でわたしを見つめていた。
「
名前、草履なんて抱えて寝ちゃってどうしたの?」
志乃ちゃんが指差した先を辿ると、わたしの腕の中には夢で見た白菫色の草履がある。
「本当だ……」
枕の下を探ってみると、そこに隠したはずの手紙もなかった。
夢じゃなかったんだ。
てっきり自分の欲望が作り出した夢かと思ってしまった。それぐらいわたしにとって甘くて、溶けてしまいそうな夢のようなひと時だった。
「──良かったじゃない、
名前」
「うん……」
何かを悟った志乃ちゃんは、まるで自分のことのように幸せそうに穏やかに笑っていた。
終