戻り梅雨 左手で傘を差し、右手で
優紫の小さな左手を握る。俺達三人は身を寄せ合い一つの傘で雨を凌ぎながら家へと向かって歩いていた。右手に感じる
優紫の指にある冷たい金属の存在。俺はそれを確かめるように自分の指を少し動かした。それに気付いた
優紫が微笑みながら俺を見上げて首を傾げた。
「雨止まないね」
俺の右肩から顔を覗かせるやちるは薄暗い灰色の空を見上げてそう言った。
「梅雨明けはまだですからね。もう少し雨の日が続いちゃいますね」
「そっか〜……」
「でも、今日は晴れて欲しかったですね……」
やちると同じように浮かない顔で空を見上げる
優紫。
「あたしも晴れて欲しかったな〜……」
頷いて
優紫に呼応するやちる。二人が何の話をしているのか見当が付がなかった。
「今日晴れて欲しい用事が何かあったのか?」
俺の台詞に頬を緩めて笑う
優紫。
「今日は七月七日の七夕ですよ、剣八さん」
「たなばた……」
「ええ。織姫様と彦星様の、七夕ですよ」
おりひめとひこぼし。離れた場所に居るらしいその二人が天の川を渡って、一年に一度だけ出会える日を七夕と言う。七月七日の夜がそうだと前に
優紫から話を聞いた事を思い出した。『雨が降ると天の川が渡れない』という言い伝えもあるから晴れを願う者が多い、とも言っていた気がする。
「あたし、短冊に 『今日が晴れますように』って書いたし、てるてる坊主も昨日作ったのにな〜」
確かにやちるは昨日の晩に、それぞれ大きさが違うてるてる坊主を三つ作っていた。左目に縦筋の傷がある一番大きいもの。首元に紫色の紐を蝶結びしている中ぐらいの大きさのもの。桜色の蝶結びをした紐を付けた一番小さいもの。やちるはそれを俺達だと言っていた。
「織姫様と彦星様が待ち侘びた逢瀬の日ですから晴れると良かったのですが……。でも、やちるちゃんの優しい気持ちは二人に届いていますよ。自分のお願い事より人の為にお願い事をするなんて中々出来ませんからね。とっても喜んでいると思いますよ」
優紫に褒められたやちるは嬉しそうに笑っている。
「だってあたしの願い事はもう叶ってるから! 剣ちゃんと
優ちゃんが一緒にいることと、あたしも二人と一緒にいること!」
やちるは抑揚のある声でそう言い、少し照れたように笑った。そんなやちるに
優紫は目を細めて微笑んだ。優しい顔だった。
「
優ちゃんはお願い事、何にした?」
「私ですか?」
「うん!」
「私は『剣八さんとやちるちゃんが健康でありますように』と書きました。……本当は別のお願い事をしたかったのですが」
「何て書きたかったの?」
「……剣八さんと、やちるちゃんと、ずっと一緒に居られますように」
優紫は、俺とやちるにそれぞれ目を合わせながらそう言った。
「でも織姫様と彦星様にお願いをして、願い事を叶えてもらって……。私ではなく、誰かの力でお二人がずっと一緒に居てくれても、それはあまり嬉しくないかな……、と思いまして……」
少し俯きがちに困ったような顔で
優紫は笑った。
「剣八さんとやちるちゃんが本当に心から私と一緒に居たい、と思ってくれて私と一緒に居てくれるほうが嬉しいな、と。我儘ですけどね」
呟いて完全に下を向いて俯いてしまった
優紫と目が合わなかった。
「我儘なんかじゃねえよ」
俺は繋いでいる手に力を込めた。すると、
優紫は俺を見上げる。少し
優紫の瞳が潤んでいる気がした。
「俺は好きでもねえ奴とこうやって手を繋ぐ程頭ン中花畑じゃねえぞ」
「あたしも! 好きじゃない人にぎゅ〜って抱き付いたりしないよ」
「
優紫。俺達は、
優紫が好きだから一緒に居るんだ」
優紫は少し目を見開いた。そして、ゆっくりと瞼を閉じた。口角を緩ませ、ゆっくり目を開く。
「ごめんなさい。お二人の気持ちを信じていない訳では無いのですが……、雨が続いて少し気持ちが沈んでしまったみたいです」
優紫は見た事が無い程切ない顔で笑っている。瞬きした瞬間に何処かに消えてしまいそうな儚さを感じさせる
優紫を俺は腕の中に閉じ込めた。
「俺は
優紫と一緒に居られて、こうして触れ合えて、言葉を交わせて、幸せだ」
だから、俺の傍に居て欲しい。
この先もずっと。いつまでも。
何処にも行かないでくれ。
もし、何処かに行ってしまうと言うなら、俺も一緒に連れて行ってくれ。
「剣八……」
優紫は俺を見上げて左手で俺の頬をそっと撫で、俺の胸に顔を埋め抱き締め返してくる。
俺の頬を撫でた左手に先程確かに存在を確かめたものが、無かった気がした。
泣いているのだろうか。震える声でこう呟いた。
「私も貴方の隣に居る事が出来て、幸せでした」
優紫のその台詞は過去形だった。
*
眠りから醒め、はっとして飛び起きる。つう、と背中に汗が垂れる感覚が気持ち悪い。
肩で息をする程に呼吸が荒かった。ひと呼吸おき、息を整える。此処は俺の寝室。辺りは真っ暗だ。静寂に響くのは雨が屋根を叩く音。
頭に残る記憶は夢のものだと漸く理解した俺は傍らに目を落とした。 そこには居るはずの彼女の姿はなく、やちるが丸まって眠っているだけだった。
今日は夜勤だっただろうか。
いや、違う。
眠れなくて何処かを散歩しているのだろうか。
いや、違う。
違う。違うんだ。
「ああ……。そうだったな……」
俺は自分に言い聞かせる様に呟いた。
「俺達は一年に一度だけでも、会えなくなっちまったんだな……」
自虐に満ちたその言葉はやけに辺りに響いた。
俺に現実を突きつけるかのように鋭く響く雨音を拒絶するように俺は両耳を塞いだ。
終