送り梅雨
(四席も登場します。名前変換不可です。) 眠りから醒め、はっとして飛び起きる。つう、と背中に汗が垂れる感覚が気持ち悪い。
嫌な夢を見た。思い出したくも無く、言葉にもしたく無い程の嫌な夢だった。目が醒めた事で夢だったと酷く安心した。しかし、その感情とは裏腹に夢で見た光景が頭から離れなかった。
──早く忘れろ。あれは夢だ。
そう何度も自分に言い聞かせるが、どうしようも無い焦燥感に駆られる。どくどくと五月蝿い心臓がある左胸を右手で押さえる。夢だと頭では理解しているつもりだが、自分の目でしっかりと確かめなければ治まりそうに無かった。そんな俺の耳にふと小さな雨音が届いた。その雨音は次第に大きな雨音へと変化する。夢と同じだった。先程見た夢でも雨が降っていた。冷たく、激しく、痛く、身体を突き抜けるような雨が降っていた。その雨音に共鳴するかのように心臓の鼓動が更に早くなっていく。
「おい、やちる」
傍らで眠っているやちるの身体を揺する。やちるは身を捩り、眉を顰める。
「ん〜……剣ちゃん、何〜?」
「帰るぞ」
「まだ、お仕事終わるまで時間あるよ……? もうちょっと寝てようよ〜……」
「いいから帰るぞ」
「え〜? 怒られちゃってもあたしは知らないからね? 全部剣ちゃんのせいにしちゃうんだから〜……」
一向に起き上がろうとしないやちるを左脇に抱えて立ち上がり、隊首室を足早に後にした。出口へと繋がる廊下を駆け、曲がり角を曲がると何かとぶつかった。
「いったーい!」
それは、どすん、と音を立てて尻もちを着く。同時に甲高い声を上げた。
「たいちょー! 廊下は走っちゃダメって言われてるじゃん! 隊長、ただでさえ身体大きいのに新幹線みたいに突っ込んできたら、か弱いあたしは大怪我なんだからね! 大事故だよ、大事故!」
しんかんせん、というのはよく分からなかった。俺とぶつかったなつめは不貞腐れた表情で尻もちを着いたまま俺を見上げていた。
「本当にここの男共はあたしのことを全然女扱いしてくれないんだから! お父さんの精子からやり直してレディーの扱い学んで来いよ! まったく!」
「なつめ、邪魔だ。退けろ。お前がこの程度で怪我するわけねぇだろ」
「ひっどーい! そんなんだったらいつか見放されるんだからねー、だ! ていうか隊長、帰るつもりでしょ! まだあと数分あるよ! 部下に働かせて上司は早上がりするなんてあたし許さなーい! 絶対退かなーい!」
ぎゃーぎゃー騒いで五月蝿いなつめは俺に向かって人差し指で右瞼を引き下げ、赤い粘膜を見せながら舌を出した。普段ならその生意気な態度に対して軽く制裁を加えるところだが、今はそんな事はどうでも良かった。兎に角、早く確かめたかった。更に強さを増す雨音に俺は耳を塞ぎたくなった。
「お前に見放されても別に良い。勝手にしろ」
「あたしじゃなくて──」
「なっちゃんどうしたんですか?」
まだ廊下に座ったまま不平不満を俺にぶつけるなつめの台詞が誰かに遮られる。それは早く俺が耳にしたかった人物の声。俺となつめはその声がする方へ顔を向けた。そこには、俺が焦がれていた彼女の姿があった。
「剣八さんもどうかされたのですか?」
床に座るなつめとその前に立っている俺の光景に首を傾げて、きょとんとしている。何が起こったのか、推測が出来なかったのだろう。
「
優紫……」
名前を呼ぶと
優紫は返事をするように俺と目線を合わせて、目を細めて微笑んだ。
「姐さーん!」
ほっとした俺の視界が歪むのを知らないなつめは溌剌とした声を上げた。
「姐さん! 今日、姐さんが非番だから四番隊に行っても会えないから寂しかったよー!」
俺が退けろと言っても意地でも退かなかったなつめはすっと立ち上がり、
優紫に抱き付く。
「今日もお仕事頑張りましたか?」
「うん! 頑張った!」
優紫は嬉しそうに笑い、なつめの頭を撫でている。デレデレとだらしない顔で
優紫に抱き付くなつめの表情を見ていると次第に苛立ってきた。なつめが男だったら、とうの昔に殴り倒していただろう。
「うっそだ~! くるくる、今日も仕事サボって他の隊へ遊びに行って、ゆみちーに怒られてたじゃん!」
「うっ……副隊長、何故それを……! でもでも! 直ぐに帰って来て、ちゃんと今日の仕事は片付けたもん!」
いつの間にか眠りから覚醒したやちるも俺の脇から飛び出して
優紫へ抱き付いていた。
「
優紫」
騒いでいる二人を微笑ましそうに眺めている
優紫へ声を掛ける。すぐに目線は俺へと移った。
「剣八さんもお疲れ様です」
優しい表情で俺を見つめる
優紫の瞳には俺がしっかりと映っていた。
「傘を忘れて行っていましたよ」
そう言って、
優紫は俺の視界に入るように手に持っていた俺達の傘を胸の位置まで持ち上げた。
「持っていくように、と言った私も忘れちゃっていましたから、おあいこですね」
それは夢の中の俺が聞きたかった言葉だった。眉を下げながら困ったように
優紫は笑った。
「ですので、お迎えに来ましたよ」
気が付くと
優紫を抱き締めていた。状況を掴めないなつめはきょとんしながら俺達を見つめ、やちるは俺の隊長羽織を小さい手で握り締めていた。
優紫の華奢な細い腕が俺の背中へ回り、優しく俺の背を撫でた。
「一緒に帰りましょう、剣八さん」
「……ああ」
たった一言だったが一聞で分かるほど俺の声は震えていた。気を緩ませると泣いてしまいそうだった。
──どうか気付かないでくれ。
そう願う俺だったが
優紫は察してしまったのか、抱き締める腕の力が強くなった。
「一緒に、帰ろう」
腕の中で身を擦り寄せる
優紫は頷いて、もう一度俺の背を優しく撫でた。
もう雨音は気にならなかった。
終