雨
(四席もほんの少し登場します。名前変換不可です。)「剣八、お前結婚してたのかっ!?」
十一番隊隊舎にオレンジ頭──黒崎一護の間の抜けた声が響いた。その台詞に今まで騒いでいた奴らは急に黙りこくり、俺達へ目を集めていた。一護の視線だけは俺の左手へ向かっている。
「……今更、気付いたのか」
一護の視線の先へ俺も目を落とす。俺の感情とは真反対に陽の光を浴びて輝く銀色のそれがそこにはあった。
「あの時は戦いでそれどころじゃなかったからな。殺されるかもしれねえって時に呑気に確認する余裕ねえよ」
一護は俺と戦った時の事を言っているのだろう。いつもなら戦いのことを思い出して気分が高揚するが、今はそんな気分にはなれなかった。
「それで剣八の奥さんってどんな人なんだ? 同じ十一番隊に居るのか?」
更木隊・隊長の伴侶。その肩書きを持つ人物が気になって仕方が無いのか一護は辺りを見渡す。静まり返った隊舎には一護の声だけが響いている。
「剣八の奧さんだから相当手練れた奴なんだろうな。剣八みてえに強いのか? 勿体振ってないで──」
「一護ッ!」
興味津々に辺りを見渡していた一護の台詞を制するように一角と弓親が食い気味に一護の名を呼んだ。なつめは一護の頭を拳で殴り、やちるは一護の脛を蹴った。
「痛ってえな! 何だよ、お前等! 何すん……だ、よ……?」
神妙な面持ちの四人に見つめられるが状況が掴めない一護の声は段々と小さくなった。
「……」
数秒の沈黙だった。でもやけに長く感じた。その沈黙を俺が破る。
「死んだ」
「………え」
一護が俺を振り返り、目を丸くしている。小さく深呼吸をし、もう一度俺は言葉を発した。
「──俺が殺した」
*
「────」
身体が軽く揺すられ、眠りの底から引っ張られる。優しく心地良い声が耳に届く。他人に眠りを邪魔されるのは酷く不快なことだが、それは嫌では無かった。閉じていた瞼を薄く開けると太陽の光が差し込み、目が眩んだ俺は再び目を閉じた。
「剣八さん、朝ですよ」
少しずつ脳が覚醒し、今度ははっきりと言葉が聞き取れた。ゆっくりと瞼を開き、明かりに目を慣らしていく。ぼやぼやとした視界に人影が映る。
「おはようございます、剣八さん」
明るさに目が慣れ、俺の名を呼ぶ彼女の顔立ちをはっきりと視界に捕らえた。
「──
優紫」
名前を呼ぶと、目を細めて優しく微笑まれる。
「おはよう」
身体を起こし、
優紫の後頭部に手をやる。さらりと絹のように柔らかい髪が指に絡む。そのまま自分の方に優しく引き寄せる。
優紫の柔らかい唇に自分の唇を重ねる。ゆっくりと離れ、お互い見つめ合う。
(足りねえ……)
もう一度顔を近付ける。そんな俺に
優紫も同じことを思ったのか目を閉じて自ら顔を寄せる。再び互いの唇が触れ合い、俺は薄く口を開き
優紫の下唇を舐め、優しく噛み付く。そうすると
優紫は俺の上唇を俺と同じよう甘く噛みついて小さい口で吸う。俺と同じことをしているのに
優紫がすると幼い子供のように、小動物のように思えて可愛くて仕方がなかった。少し唇を離し、再び口付ける。舌で
優紫の歯列をそっとなぞり合図を送る。すると遠慮がちに少しずつ
優紫は口を開く。
優紫の舌に自分の舌を絡めて深く口付ける。それに
優紫は小さく肩を震わせる。口付けはもう数え切れない程しているというのに、未だに慣れない
優紫の初心な反応が堪らなく俺を駆り立てる。空いている手で
優紫の手を取り、指を絡める。もう限界だと言うように俺の手を強く握り締められた為、名残惜しいが唇を離す。唾液が糸を引き二人を繋ぐが、すぐにぷつりと切れてしまう。少し息が荒く肩で息をする
優紫がゆっくりと瞼を開き俺を見つめる。
「もう、剣八さん……」
頬を赤く染めて困ったような、少し怒っているような表情で俺を見つめている。くすりと笑みが溢れた。
「
優紫もノリノリだった。良かっただろ?」
「意地悪を言わないで下さい……」
俯いてしまった
優紫の顎を掬う。潤んだ葵色の瞳で俺を見つめている。欲情が見えるその瞳に俺は口角が上がるのを感じた。もう一度唇を重ねようとした時に、軽い足音がこちらに近付いて来た。
優紫もそれに気付き、俺の胸を軽く押して距離を取ろうとする。そんな
優紫の腰を抱き、自分の方へ引き寄せた。
「剣八さんっ、やちるちゃんが!」
制止する声は聞こえていない振りをして
優紫の首元に顔を埋めて擦り寄る。鼻で呼吸をすると
優紫の香りで満たされていく。俺が好きなとても安らぐ香り。
「こら、剣八さんっ」
「
優ちゃん! 剣ちゃん起きた〜?」
小さな足音の主は活気のある弾んだ声を発しながら俺達が居る部屋へとやって来た。
「あ〜! 剣ちゃんずる〜い!」
俺達を見たやちるは不服そうな顔で不満気に言い放った。駆け寄ったやちるは俺と同じように
優紫に抱き付き、頬を擦り寄せて甘えている。彼女はそんなやちるに微笑み、優しく頭を撫でている。
(ああ、幸せだ……)
柄にも無くそう思った。
「あ! そういえば
優ちゃん! お味噌汁がごぽごぽ〜って泡がたくさん出てたよ!」
「大変! 煮詰まっちゃう!」
優紫は、俺達の腕を振り解いて急に立ち上がる。そしてそのまま台所の方へと小走りで向かった。俺とやちるは顔を見合わせて、目をぱちくりさせる。やちるは歯を見せて笑い、口を大きく開いた。
「大変だ〜!」
やちるは
優紫の真似をしながら、その後を駆けて行く。寝室に俺だけ取り残されてしまう。
欠伸を一つ漏らし、寝癖が付いた頭を掻く。重い腰を上げて俺も二人の後を追った。
*
食卓に並んだ朝食の香りが俺の鼻腔を擽り、腹が鳴った。
「いただきます」
食卓を囲んだ俺達三人は手を合わせて、声を揃えて合掌する。今日の朝御飯は味噌汁に焼き魚とひじき煮。箸で魚の身を解し、口に運ぶ。やちるも同じように解した魚の身を口に運んでいた。
「美味い」
「美味し〜い!」
「ふふ。ありがとうございます」
優紫の作る料理は、どれも優しい味付けで心が温かくなる。他の奴が作った料理では物足らず美味しくなく感じる程すっかり胃袋を掴まれてしまった。
この先ずっと、
優紫の作った飯が食べたい。飯だけではなく、
優紫とこの先ずっと一緒に――
「剣八さん?」
箸を止め、
優紫を見つめていると目が合った。不思議そうに首を傾げ、こちらを見ている。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもねえ」
俺は再び箸を動かす。誤魔化すように味噌汁を飲み、「美味い」と呟く。それに対して
優紫は「ありがとうございます」とまた微笑んだ。
「そう言えば剣八さん」
「ん?」
「天気予報では降水確率が高いので、今日は傘を忘れずに持って行って下さいね。梅雨に入って肌寒くなってしまったので、雨に濡れてしまうと風邪を引いてしまいますからね」
優紫は俺と目を合わせてそう言った。
「分かった」
「やちるちゃんも忘れずに、ね?」
「は〜い!」
やちるは右手を上げて元気よく返事をする。
「
優紫は今日休みだったな」
「はい、今日は一日お掃除の日です」
笑いながら
優紫はそう言った。
「朝御飯を食べている時にする話では無いですが、今日の御夕飯は何を食べたいですか?」
「唐揚げ!」
「唐揚げは昨日食ったろ」
「ふふ」
俺達は他愛もない会話をしながら朝食を胃袋に収めた。
*
「お仕事サボってお昼寝は駄目ですよ?」
「分かってる」
優紫は度々俺の事を子供のように扱う。しかし、それを
優紫に言っても「していない」の一点ばりだ。
「しっかりお仕事しているか見ていてあげて下さいね、やちるちゃん」
また子供扱いと捉えたくなるような事を言いながら、やちるの頭を優しく撫でている。
「うん! 任せて!」
そう言って自分の胸を拳で叩いたやちるは、俺の肩へと飛び乗った。普段は
優紫と一緒に家を出て、四番隊まで送り届けた後に俺達は十一番隊へと向かう。今日は
優紫が非番の為、此処で暫くの別れだった。
「行ってらっしゃい、剣八さん」
「ああ。行ってくる、
優紫」
そう言って俺と
優紫は軽く口付けをする。
「あたしも!」
それを見たやちるが肩から身を乗り出す。そんなやちるを見て、くすりと笑った
優紫が背伸びをする。
優紫が届くように腰を落とした。
「行ってらっしゃい、やちるちゃん」
優紫はやちるの頬に口付けを落とし、もう一度頭を撫でる。
「えへへ! 行ってきます、
優ちゃん!」
気が向かなかった。このまま
優紫と一日を過ごしたかった。名残惜しかったが俺とやちるは
優紫に手を振りながら家を出発し、十一番隊へと向かった。
*
時計を睨み付けるが秒針が進む速度は変わりはしない。就業時間まで後少しだと言うのに、その後少しがとても長く感じる。
腹が減った。早く家に帰って、「おかえりなさい」と俺を出迎えて笑う
優紫を抱き締めて、
優紫の作った飯が食いたい。
視線で急かしても整然と時を刻み続ける時計に舌打ちを付いて、俺は机の引き出しを開ける。そこには、掌に収まる大きさの四角い白い箱がある。俺はそれを手に取り、箱を開いた。中には、光を浴びてきらりと光るものが二つ。指輪だ。
「………」
婚姻を申し込む時に現世では指輪を贈るらしい。たまたま十一番隊隊舎に落ちていた瀞霊廷通信を拾い、暇潰しにぱらぱらと眺めていた時に得た情報だ。尸魂界には浸透してはいないが、言葉にしなくてもお互い愛し合っていると周りに主張できる事が気に入った。
それに、俺の
優紫への気持ちを何か形にしたかった。そんな想いに突き動かされて俺はわざわざ現世まで出向いてこれを購入した。
箱の中で輝く指輪の内側には外国の言葉を掘られている。俺には読めないが、『今も。そして、これからも』という意味らしい。これを購入した店の店員がそう言っていた。何か相手に伝えたい言葉を刻んでみるのはどうかと店員に提案され、例として挙げられた中の一つだった。その言葉を見た時に
優紫の顔が一番に浮かんだ。そんな単純な理由でその言葉を刻む事を決めた。
「剣ちゃん。それ、いつ
優ちゃんに渡すの?」
先程まで姿を消していたやちるが俺の肩から顔を出して覗き込んで来た。
「一ヶ月もず〜っとここに入れっぱなしじゃん!」
やちるの言う通り、実はこの指輪は一ヶ月も前に購入した。買ったは良いが何と言って渡せば良いのか。本当に
優紫は俺なんかと婚姻を結んでくれるのか。らしくもなく考え込んでしまい中々渡せずにいた。
「ねえ、今日渡しちゃおうよ! 絶対
優ちゃん喜ぶよ! あたし、早く剣ちゃんと
優ちゃんに結婚して欲しい! そしたら
優ちゃんとずっと一緒にいられるもん! ね〜え!」
腕を掴まれ、ガクガクと身体を揺すられる。
「早くしないと
優ちゃん、どっか違う人のところに行っちゃうよ!」
今度は俺の耳を引っ張りながら説教をしてくる。
「耳、引っ張んじゃねえよ」
「ねえ〜、今日渡そうよ〜!」
「………」
「剣ちゃんの言葉ならきっと何でも喜んでくれるよ! だっていつもニコニコ笑ってくれてるもん!」
「……そうだな」
俺がそう言うと、やちるは満面の笑みを浮かべた。良い雰囲気の時とか、良い台詞だとか、考えても思いつかないものを考えているからずっと渡せないんだ。飾った言葉ではなく、ただ素直に俺のそのままの気持ちを伝えれば
優紫もきっと笑って頷いてくれるはずだ。俺が好きな
優紫の笑顔を思い浮かべていると、就業時間終了を知らせる鐘が鳴った。
「あ! 終わった! 早く帰ろう、剣ちゃん!
優ちゃんが待ってるよ!」
「ああ」
指輪の入った箱を引き出しではなく、懐に収める。立ち上がるとやちるが肩に飛び乗る。隊首室の戸を開けて外に出ると遠くから重低音の音がした。雷だ。空を見上げると灰色の雲が空を覆っていた。
「今日、
優ちゃんが傘を持って行くようにって言ってたのに忘れちゃったね」
「……一雨来そうだな」
「剣ちゃん、早く帰ろう?」
「ああ……」
何が、と問われてもはっきりとは答えられない。だが一瞬、嫌な予感がした。それを振り払うように小さく頭を振り、
優紫が待つ家へと急いだ。
*
俺達が家に辿り着く前に雨は降り始めてしまった。始めは、ぱらぱらと小雨だった。しかし、直ぐに雨粒は大きくなり、バケツをひっくり返したような激しい雨が降り始めた。雨にうたれ、死覇装はずっしりと重くなる。
「う〜……濡れちゃった〜……」
家の玄関へと駆け込む。やちるは俺の肩から飛び降りて、ぶるぶると動物のように身体を震わせて水滴を飛ばしていた。
「やめろ、やちる。汚れるだろ」
朝に今日は掃除をすると言っていた
優紫を思い出した。折角、
優紫が掃除をした床や壁へ水滴が飛び散る。
「
優紫、帰ったぞ」
「
優ちゃん、ただいま〜!」
「悪い。雨に濡れちまったから何か拭くもの持って来てくれねえか?」
「このまま家の中に上がっちゃったら折角
優ちゃんがお掃除してくれたのに汚しちゃうね」
「もう汚してただろ」
「まだ家に上がってないから汚してないもーん。あーあ、お腹空いちゃったけどご飯より先にお風呂に入らないとだね〜」
「………」
「……剣ちゃん?」
家の中から足音も声も何も聞こえない。
「……
優紫?」
寝ているのだろうか。それとも今日は一日掃除をすると言っていたが、夕飯の買い出しに出掛けたのだろうか。再び嫌な予感が俺を襲う。
「あ! 剣ちゃん! ダメだよ、汚しちゃうよ!」
やちるの言葉を背に、俺は泥で汚れた草履を履いたまま家の中に上がった。台所へと繋がる戸を開くと良い香りが鼻腔を掠めた。台所にある鍋の蓋を開けると湯気が立ち込める。中には味噌汁。まな板には切りかけの野菜。
つい先程まで此処で夕飯の支度をしていたが、何か急用を思い出してこの場を離れた。そんな
優紫の姿が想像できた。足りない食材でも買いに行ったのだろうか。でも、それなら俺達に使いを頼めば良い。
「剣ちゃん!」
遅れてやちるが台所へとやって来た。
「あたし達と
優ちゃんの傘が無いの! あたし達が傘を忘れちゃったから迎えに来ようとしてくれたのかな? ……
優ちゃんとすれ違わなかったけど入れ違いになっちゃったのかな?」
「………」
胸がザワつく。理由は分からないが嫌な予感が益々大きくなる。
感じた事の無い焦りが俺を遅い、心臓の鼓動が痛いぐらい早くなる。呼吸が浅くなり、苦しい。
今までにも似たような状況はあっただろ。急に雨が降り始めて、
優紫が傘を持って俺達を迎えに来てくれた事が。今回はすれ違ってしまっただけ。きっと
優紫も今頃、十一番隊で俺達が既に帰った事を聞いて、俺達と同じようにすれ違ってしまったと思っているはず。
このまま、湯でも浴びて冷えた身体を温めていれば
優紫も帰ってくるかもしれない。それで、
優紫に言われたのに傘を忘れた俺達は軽く小言を食らうんだ。
もしくはもう一度外に出て、
優紫を迎えに行っても良い。傘が無いのにわざわざ濡れにもう一度外に出たことに叱られるのも良い。
そう考えても嫌な予感は小さくはならない。
(何故だ? どうしてこんなに落ち着かない?)
手が冷たくなっていくを感じる。足が震え、気を抜いたら倒れてしまいそうだった。
「………ッ
優紫!」
「剣ちゃんっ!」
俺は激しく雨が振る外へ飛び出した。霊圧探知能力が無い俺は
優紫の霊圧を何も感じる事が出来ない。
だが、こっちだと本能が俺に語り掛けて来る。その方角へ向かって駆ける。この嫌な予感はただの思い過ごしであって欲しい。
──おかえりなさい、剣八さん。
心地良い声色で俺の名を呼んでくれ。
──もう。剣八さんもやちるちゃんもそんなにびしょびしょになって……! 雨が降るから持って行くように、と言いましたのに。
呆れたように笑ってくれ。
──でも、私も忘れちゃっていましたからおあいこですね。風邪を引いてしまいますからご飯の前にお風呂に入って来て下さい。
優しい笑顔で笑ってくれ。
「…………」
俺は、足を止めた。
目の前には、大きな血溜まり。
そして。
その中心で俺が
優紫へ贈った葵色の瞳と同じ色の髪紐が赤く、紅く染まっていた。
終