「……なんだ、それ?」
寝る前に用を足すために便所へと向かい、寝室に戻って来ると
優紫は頭に防災頭巾のようなものをかぶっていた。いや、防災頭巾というよりかは布が薄い。耐久性はなさそうだ。食堂で飯を作っている婆さんたちがかぶっている頭巾のほうがよく似ているかもしれない。
その頭巾の中に
優紫の長くて綺麗な髪は、きっちりしまわれている。
「ナイトキャップですよ」
眉を顰めている俺に微笑みながら
優紫は答えた。
「ない、と、きゃっぷ……」
「ナイトキャップ! 夜のお帽子だよ!」
聞き慣れない言葉に戸惑っていると、
優紫の膝の上に座っていたやちるが声を上げた。手には何かを握りしめている。やちるはその手を
優紫へ差し出す。受け取った
優紫は、それを広げてやちるの頭へかぶせた。どうやら
優紫がかぶっている物とまったく同じ物だったらしい。やちるの髪の毛も頭巾の中へしまわれると、頭巾が取れないように紐を結んでいた。
「……これから、飯作るのか?」
ついさっき、
優紫は「さて、そろそろお布団に入りましょうか」と言っていた。だから飯を作るわけがない。だが、俺には二人の頭巾が髪の毛が落ちないように料理をする時にかぶる頭巾にしか結びつかなかった。
優紫とやちるは、顔を見合わせて笑う。
「いいえ、違いますよ」
「剣ちゃん、さっきご飯食べたのにもうお腹すいたの~?」
くすくすと肩を揺らして笑う
優紫に、俺が投げ掛けた問いは的を大いに外したと気付く。やちるは頭巾の用途が分からない俺を嘲笑するような笑みを見せてくるが、非日常感が漂ってくる異質な頭巾のおかげか鬱陶しさはかなり緩和されていた。
「ご飯作る時じゃなくて、寝る時にかぶるの!」
「……寝る時に頭巾なんざかぶるもんなのか?」
外にも出ないのに、何のためにかぶるんだ。
用途は分からないが、かぶっている
優紫たちの姿は──
(……なんとも言えねえ可愛さだな)
幼いやちるが頭巾をかぶると、子供らしくて当たり前のように似合っている。なぜ今までかぶっていなかったのか、不思議に思うぐらいだった。
そんなことを思わせる頭巾をかぶった
優紫もやちると同じ幼い雰囲気を纏っており、目が離せなかった。
膝に乗せて好きなだけ撫で回したい衝動にかられる。頭巾をかぶっていなくても、いつでもそうしたいのはそうなのだが。
(こんな頭巾ひとつで、どうしてこんなに幼く見えんだ……?)
赤子がかぶっている頭巾に似ているから?
丸みのある綺麗な額が無防備に曝け出されているから?
ついいじめたくなる形の良い耳がよく見えるから?
もしかして、全部か?
「──剣八さんもかぶってみますか?」
優紫にそう問われ、ハッとした。
しまった。
優紫が頭巾の用途を説明してくれていたが、まったく耳に入っていなかった。これを寝ている間に被っていると——摩擦がどうとか言っていた気がする。結局分からずじまいだが、わざわざかぶるのだから何か良いことがあるのだろう。
「……いや、俺はいい」
優紫の大きさに合わせて買った物だろうから、きっと俺はかぶれない。柔らかくて細い
優紫の髪と比べて俺の髪は硬くて太いし、柔そうに見える頭巾の布を破いて壊してしまいそうだ。
それに、かぶっている
優紫はまるで赤子のような幼さがあって可愛いが、俺はきっと間抜けに見えるはずだ。
「……そうですか。残念です、ナイトキャップをかぶった剣八さんはきっと可愛いだろうな、と思っていたので」
優紫の声の調子が下がってしまった。
(かぶりたい、って言ったほうが良かったか……?)
優紫に「可愛い」と言われるのは嫌ではないが、自分で間抜けと思っている姿を晒すのは恥ずかしい。どんな相手を前にしても、自分の見てくれを気にしたことがなかった。
優紫だけだ。こんな成りなのに、「少しでも格好良く見られたい」と思ってしまう。
だが、幸せそうに笑う
優紫を見れば、俺が一人で繰り広げているこの心の葛藤はすぐに忘れてしまうのだろう。
「——では、髪を梳かさせてください」
櫛を手にした
優紫が優しく笑った。
「じゃあ、剣ちゃん! ここ座ってくださーい!」
やちるは俺が頷くのを見ると
優紫の膝の上に座ったまま、目の前の床を軽く叩く。
そこへ下ろすと、優しく髪の毛を持ち上げられ、
優紫はゆっくり俺の髪の毛を梳かし始めた。
自分でやると、髪の毛が櫛に引っ掛かって頭が引っ張られるが、不思議と
優紫がやるとするすると抵抗なく櫛が通る。
「……」
丁寧に、丁寧に、触れたらすぐに壊れてしまう脆い物を扱うかのように優しく梳かされる。自分の心までとかされている感覚になる。心地よくて、気を抜いたら眠ってしまいそうだった。
「剣ちゃん、髪の毛伸びたねー!」
「ですね」
「どこまで伸びるかなー……あ、そうだ! あたしも梳かしてあげるよ、剣ちゃん!」
「では、やちるちゃんは右半分をお願いしますね」
「はーい!」
つい、うとうとしていると夜にそぐわない活気溢れるやちるの声が聞こえて我に返った。
(……寝ちまってた)
ふと、横にある鏡台へ目を移すと
優紫の横顔が見える。
優紫は嬉しそうに微笑みながら俺の髪を梳かしていた。やちるも
優紫を真似て、櫛を髪へとおす。
「……楽しいか? 俺の髪の毛、梳かして」
優紫とやちるの髪の毛は柔らかく、指どおりが良くて、触り心地が良いが到底自分のものがそうだとは思えない。
「楽しいよねー! ね、
優ちゃん」
「はい。剣八さんの髪の毛を一本一本愛でることができて楽しいです」
一聴すると、歪んだ狂気さを感じるような言葉。
だが、
優紫の柔和な性格をよく知っている俺には優しく包み込んでくれるような温かな純粋な愛を感じる言葉だった。
「ハッ……
優紫も中々に独占欲が強ェな」
「あら、いけませんでしたか?」
「いいや、まったく」
「髪の毛までぜーんぶ私の剣八さんですよ」
「
優ちゃん、ずるーい! あたしもだよ!」
「ふふっ、私とやちるちゃんの剣八さんですね」
二人の遠慮ない独占欲に声を上げて笑うと、
優紫も同じように笑った。
「だから、終わるまで大人しくしていてくださいね」
「ああ、分かった」
さっ、さっ、と櫛がとおるたびに髪の毛が擦れる音が頭に響く。それが、きゃっ、きゃっ、と髪の毛が喜んでいるように聞こえた。
(……髪の毛も気持ち良さそうに鳴いてやがるな)
そんなことを思いながら目を閉じる。
「剣ちゃん、いいな~。
優ちゃん、次あたしもやってね?」
「はい、いいですよ。もう少し待っててくださいね」
髪の毛一本一本が本当に生きていたら、
優紫の手の動き一つ一つを余すことなく感じ取れていただろうか。
大切に愛でてくれている
優紫へ想いを返せていただろうか。
いや、髪の毛一本一本が自我を持って動いていたら流石に気色悪いな。
面妖な狂人科学者に似た気色の悪い発想に至ってしまい、奇怪な姿をしたあの男が頭に浮かび上がる。せっかく、
優紫のおかげで良い眠りにつけると思ったのに最悪だ。
後悔しても俺は、夜の静けさへ身を投じた後だった。
終