「剣八さん」
やちるが一足先に眠りにつき、「そろそろ俺たちも寝るか」と声をかけると俺の機嫌を窺うような声色で
優紫に名前を呼ばれた。顔色も遠慮がちでどこか不安そうだった。俺が気付かなかっただけかもされないが、つい先ほどまでは普段の
優紫だった。笑顔で俺と他愛もない会話を交わしていた。
「どうした?」
膝に手をつき、背中を丸めて目線の高さを合わせる。声に棘がないように、包み込むように言葉を返す。すこし安心した顔つきになった
優紫は、ゆっくり唇を動かした。
「……特に理由はないのですが」
「ああ」
そこで一度
優紫は口を閉じる。目を泳がせ、胸の内を言葉にするか、しないかを悩んでいるようだった。
胸の奥にためこんでしまうのは、良くないことを俺は身をもってよく知っている。こういうのは素直に胸の内から出しちまったほうが良い。
「急に寂しくなったというか……何だか不安になってしまって……。でも、それがどういう不安なのかは言葉にできなくて……」
優紫は自分の感情をうまく説明できないことにもどかしさを感じているような表情で、声が弱く震えてうた。俺に何もかも伝えたいのに、自分の中で気持ちが整理できない。そのもどかしさも
優紫の瞳を曇らせているように感じた。
夜だからかもしれません、と続けた
優紫は眉尻を下げて困ったような顔で笑った。遠くを見つめる表情を浮かべながら眉尻を下げて困ったように笑う。そんな姿に不謹慎にも「かわいい」と思ってしまう。こうして打ち明けてくれているのは俺を信頼してのこと。それを自覚し、嬉しさも込み上げてくる。どこか頼りなさげな
優紫の肩が愛おしく、そして切なかった。
俺も意味もなく、理由もなく、不安に思ってしまうことがある。心にぽっかりと穴が空いたような感覚。そんな虚無感がじわじわと胸の中へ広がっていく。
優紫のことを信用していないわけではないが、勝手に遠くの存在だと思ってしまう。その重暗い気持ちを
優紫はいつも温かなものに変えてくれている。
俺も、そうしてやりたい。
「そうか」
「……」
腰に手を回して軽く抱き寄せる。すると、小さくて細い手で胸元の着物を縋るように握られた。俺を真っ直ぐ見つめる瞳には、俺しか映っていない。夜の静寂がこの世界に俺と
優紫だけだと錯覚させてくれる。
俺の呼吸音が、心音が、やけにうるさく感じる。
「その不安、どうやったら拭えそうだ?」
俺の着物を握っている手を自分の手で包み込む。暗闇を照らす部屋の明かりを集めて、つやつやと光る髪を撫でた。
きっと自分のために死んでくれ、と言われたとしても俺は喜んでこの命を差し出すだろう。そんなことを
優紫へ言ってしまえば、物騒なことは言わないで欲しいと真剣な顔で言われるに違いない。自分の想像が作り出した
優紫も愛おしく思え、頬が無意識に緩む。
優紫は柔らかな頬に影を落とす長い睫毛を震わせながら胸に閉じ込めていた想いをゆっくり形にした。
「……私が眠るまで……抱き締めてくれませんか?」
野蛮すぎる俺の考えより遥かに健気すぎる願いだった。
優紫は俺を上目遣いで見つめながら、不安そうに俺の返事を待っている。愛おしすぎて心が潰れてなくなってしまいそうだ。
「寝るまで、で良いのか?」
「朝まで……」
頬が緩むのを抑えきれないまま尋ねると、
優紫は言葉を紡ぎ始めた。だが、すぐに止めて沈黙する。
迷いがまだあるようだが、真っ直ぐに俺と目を合わせている瞳は離さなかった。
「……ずっと……ずっと、抱き締めていてください」
「お安い御用だ」
優紫を抱き上げ、寝室の布団へと移動する。
すでに眠っているやちるの隣へ
優紫を寝かせ、その横に俺も寝転がる。そして
優紫の要望どおり、抱き締める。優しく、包み込むように。
体温、って言うものは不思議でひどく安心できる。
優紫も同じようで、今にも眠ってしまいそうにうとうととしていた。
「ありがとうございます……剣八さん」
寝言のように囁かれた言葉は、柔らかく甘く、温かった。俺の胸もじんわりと温められていく。
心を曇らせる不安をこれからも俺が拭いたい。
優紫の寝息が小さく耳に届き、胸の中でこみ上げる愛しさに身を任せるように、俺は顔を近づけた。頬をそっと手の甲で撫で、頬へ唇を重ねる。触れるだけのはずが、体温を感じた瞬間、さらに深く包み込みたくなる衝動にかられた。
「俺が守ってやる……安心して眠れるように」
もう一度、唇を重ねる。想いを込めた口付け。唇を離す瞬間、自分が微かに震えていることに気付き、どれだけ自分が
優紫を大切に想っているかを実感した。心が不思議なほど穏やかになる。
「おやすみ」
明日の朝は俺から彼女に「おはよう」を贈りたい。
そうすれば、明日の彼女は笑顔が絶えない日をおくれるだろうか。
終