床の上に並べられている五つのボタンをやちるちゃんは星のように輝いている瞳で見つめている。やちるちゃんは一つのボタンへ小さな手を伸ばし、ボタンを押した。間を置いて、やちるちゃんは不思議そうに首を傾げた。もう一度ボタンを押し、さらに首を傾げる。
「まず音声を録音しないと鳴らないみたいですよ」
ボタンを一つ手に取り、裏側にある小さなボタンを押して試しに『ごはん』と言葉を投げかけてみる。
「押してみてください」
ボタンを手のひらに乗せ、やちるちゃんの目の前へ持っていく。やちるちゃんがボタンを押すと、『ごはん』と私の声が流れた。
「ほんとだー!」
これを待ち望んでいたやちるちゃんは声を弾ませて笑顔になる。
「はい、どうぞ」
再度、録音ボタンを押し、やちるちゃんのほうへ近づける。元気な声で「ごはん!」と言い終えたところで、録音ボタンから指を離す。
すると今度は、やちるちゃんの声が流れてくる。やちるちゃんは満足そうに笑い、他のボタンを手に取ると私と同じように「おやつ!」「おさんぽ!」「あそぼう!」と録音し始める。
なぜそんなボタンを用意しているかと言うと、数日前まで遡ることになる。やちるちゃんに「
優ちゃん、これ買ってー!」とせがまれながら見せられた伝令神機の画面にこの五つのボタンがあったのだ。用途を尋ねると、「これ使って、わんわんのわんわんとお話しするの!」と言っていた。“わんわんのわんわん”とは、つまり狛村隊長が飼っている犬の吾郎のことだ。なんでも、このボタンを使って飼い主と飼い犬や飼い猫が会話をすることができると知ったらしい。「わんわんは、わんわんの言ってること分かるけどあたしは分からないからこれ使うの。これがあったらわんわんがいなくても、わんわんが言ってること分かるでしょ?」とも言っていた。要するに、狛村隊長のように吾郎とお話がしたいそうだ。
「はい!
優ちゃんも!」
私が初めにやちるちゃんへしたように録音ボタンを押しながら顔へ寄せられる。
もうすでに犬と会話をするとしたら定番の言葉は録音し終わっている。あと一つは何がいいだろうか。犬と言えば──
「なでなで」
確認のために、やちるちゃんがボタンを押すと私の声が流れる。
「これで五つ揃ったね!」
「そうですね」
「じゃあ、早速わんわんのところ行ってくるね!」
「あ! 待ってください!」
「どうしたの、
優ちゃん?」
「今日はもう夜遅いので明日にしましょうか」
「えー」
やちるちゃんは笑顔から不満そうな顔になった。ころころと表情が変わるのが可愛らしく、頬が緩む。
私は口元に手を当てて、欠伸をして見せた。
「こうやって、吾郎も眠くて大きな欠伸していると思いますよ。明日の朝なら夜寝るまでたくさん時間ありますから、たくさんお話しできますよ」
「そっかー……わんわんのところに泊まるのは?」
大きな瞳で上目遣いで見つめられ、思わず了承してしまいそうになるのをグッと踏みとどまる。ここで頷いてしまっては狛村隊長にも吾郎にも迷惑がかかってしまう。心優しい狛村隊長は笑って許してくれそうだが。
「やちるちゃんがいなくなっちゃったら私も剣八さんも寂しくて眠れなくなっちゃいます……」
私のその言葉を聞いたやちるちゃんは、唇を尖らせてつまらなさそうにしていた顔から口元を緩ませて嬉しそうな顔になった。
「えー、そうなのー? もう、仕方ないな〜!
優ちゃんも剣ちゃんもあたしがいないとダメなんだからー!」
「そうですよ。私たちはやちるちゃんのことが大好きなんですから」
嬉しそうに体をくねくねとさせているやちるちゃん。何とか気持ちを切り替えることに成功したみたいだ。
「じゃあー……」
何かを閃いたと言わんばかりの表情でやちるちゃんは録音をし終えたボタンの一つを押した。
『おやつ!』
と、ボタンからやちるちゃんの声が聞こえてくる。やちるちゃんは、にんまり笑った後に口を大きく開けて何かを待っている。我慢するご褒美、そして私の願いを叶えるご褒美が欲しいみたいだ。
「ふふ、歯磨きして寝る時間ですから少しだけですよ?」
私がそう言うとやちるちゃんは大きく口を開けまま笑うと数回頷いた。
近くにある座卓の上に置いてある小さな缶を手に取る。封を開けると顔を覗かせたのは、様々な色の金平糖。その一つを摘んで、やちるちゃんの口の中へと運ぶ。口が閉じられると、すぐにボリボリと聞こえてくる。その音がやちるちゃんらしくて癒されてしまう。
『おやつ!』
食べ終えたやちるちゃんはまた、ボタンを押して口を広げた。
「はい、どうぞ」
また一つ摘んで、口の中へと運ぶ。するとまたボリボリという音。そしてまた口を大きく広げて、ボタンを押すやちるちゃん。その一連の流れを二回続けた。
「これでおしまいにして、歯磨きしましょうね」
摘んだ金平糖を見せながら言うと、少し残念そうにしながらもやちるちゃんは大きく頷いた。最後の一粒も豪快にボリボリと食べ終えたやちるちゃんはまたボタンを押す。
『なでなで』
今度は私の声が聞こえてきた。頭を私へ差し出すやちるちゃんが可愛らしくて、笑みが溢れてくる。桜色の髪の毛を優しく撫でると、やちるちゃんは満足そうな笑顔を見せてくれた。
「えへへ……じゃあ、歯磨きしてくるね! あ! あと、明日わんわんのところに持って行くのに袋もいるよね! この前、うっきーがくれたお菓子が入ってた袋持ってくる!」
バタバタと慌ただしく部屋を出ていくやちるちゃんの背中を見送ると、開けたままになっていた襖から剣八さんが姿を現した。
髪の毛が濡れて、少ししんなりしているお風呂上がりの剣八さんはいつ見ても、何度見ても、胸の奥がくすぐられてしまう。
「お帰りなさい、剣八さん」
「うん……ただいま」
剣八さんは私の元に来ると、向かい側へと腰を下ろした。間には、あの五つのボタン。すぐにそれは剣八さんの興味を捕えられた。
「なんだ、これ?」
剣八さんから不思議そうに見つめられているボタンを一つ押してみる。
『ごはん!』
やちるちゃんの声が大きく響いた。私はそれに続けてボタンを二つ押す。
『おさんぽ!』
『おやつ!』
「……やちるの声、か?」
同じくやちるちゃんの声が響く。剣八さんは用途が分からずに首を傾げていた。
「このボタンを使って、私たちと同じ言葉を話せない動物とお話しするみたいです」
「動物?」
「狛村隊長が飼っている犬の吾郎とお話しするんだって、やちるちゃんが楽しみにしているんですよ」
「これで犬と話せんのか?」
信じがたそうにボタンを見つめている剣八さん。確かに私も信じがたいが、現世では人間の生活や仕事を手伝っている犬も多くいる。知能が高い動物だから、きっと不可能ではないことだろう。
「犬は賢いですからね。ちゃんと教えたらきっとお話しできますよ」
そう言ってみたが、剣八さんは想像できなかったのか未だに不思議そうにボタンを見つめていた。
「まあ確かに俺らみてえに死神、しかも隊長やってるしな」
「こら、剣八さん」
「……悪い」
笑いながらそんなことを言った剣八さんを指摘すると、誤魔化すようにもう一つのボタンへ手を伸ばした。それは、まだ音を鳴らせて見せなかったボタンだった。
『なでなで』
ボタンから再生されたのは私の声。
剣八さんはそれを聞き、瞼をぱちぱちと瞬かせてボタンを見つめている。もう一度、剣八さんはボタンを押した。
『なでなで』
私の声がまた聞こえてくる。先程まで不思議そうにボタンを見つめていた剣八さんは、迷いのない瞳で真っ直ぐ私を見つめてくる。
『なでなで』
その瞳に吸い込まれていると剣八さんはもう一度ボタンを押した。剣八さんの頭へ手を伸ばすと、私が撫でやすいように頭を下げる。
本当に可愛い人。
まだ少し湿気が残る髪の毛に手を埋めて、頭を撫でると纏っている空気が一層柔らかくなったように感じた。そんな剣八さんに私の頬も自然と緩んでくる。
撫でていた手を止め、離そうとすると剣八さんはすかさずボタンを押す。
『なでなで』
再び、私の声が剣八さんの手元から聞こえてくる。床に置かれていたボタンをいつのまにか剣八さんは両手で握りしめていた。
こういう一つ一つの行動が本当に可愛らしくて、いつだって私の心を掴んで離そうとしない。
「あー! 剣ちゃん、それ、わんわんと使うんだから壊しちゃダメ!」
剣八さんの頭を撫でていると、歯磨きを終えたやちるちゃんが手に袋を持って帰ってきた。
「壊さねえよ」
「でも剣ちゃんは喋れるでしょ!」
駆け寄り、剣八さんの手から『なでなで』のボタンを没収したやちるちゃん。それを袋の中へと収めていた。剣八さんに取られないように急いで床へ置いていたボタンを次から次へと掴み、袋の中へ少し乱雑に収められていく。袋の中でボタンがぶつかり合い、ガチャガチャという音と共に『おやつ!』『おさんぽ!』と音声が聞こえてくる。
「よし! これなら剣ちゃんに壊されないし、忘れないね!」
ボタンを入れた袋を座卓の真ん中に置いたやちるちゃんは自信満々にそう言った。その袋を少し残念そうにみているのは剣八さん。
「……」
「あのボタン欲しかったですか?」
声をかけると、目を少し見開いき驚いた顔で私を見つめてくる。
「そんな顔をしてましたので」
「……」
「言ってくださればいつでも、なでなでしますよ」
剣八さんは私から少し視線をずらし、恥ずかしそうにしながらも言葉を探していた。剣八さんの瞳がこちらへ向き、再度目が合うと口を開いた。
「恥ずかしい、だろ……はっきり言うの……」
歯切れ悪く言葉をぽつぽつと降り始めた雨のように溢す剣八さんはいじらしく見えてくる。やっぱり剣八さんは私の心を離してくれない。
「私は剣八さんの言葉で伝えてくれると嬉しいです」
「……ずっと……いつでも、
優紫になでなでして欲しいって思ってるし……キリがねえから……」
「私も剣八さんのことをたくさん撫でたくなってしまうので、なでなでさせてください」
剣八さんはほんのり赤く頬を染めながらゆっくり頷いた。そんな彼をみていると恥ずかしさがこちらにうつってくる。とくとく、と私の心臓も早鐘を打ち始めた。
「なでなで、してくれ……」
小さく口を開き、小さな声で呟いた。
ああ、私の心は潰れてなくなってしまうかもしれない。
それほど、甘えてくる剣八さんがあまりにも可愛いくて胸が強く締め付けられた。
「はい、お安いご用ですよ」
剣八さんの頭を撫でていると、自分の頭頂部を指差しながらやちるちゃんが間に割り入ってくる。
「剣ちゃん、ずるーい。そんなに撫でてもらってたら、ここだけつるりんみたいに頭ツルツルになっちゃうんだからね!」
その言葉で頭の中に剣八さんの姿が浮かんでくる。とても声に出して言えないが、その姿にくすくすと笑いが込み上げてきた。
じとっとした不信感がある瞳で剣八さんに見つめられ、「ごめんなさい」と謝りながら私は誤魔化すように頭を撫でる。
「あたしも撫でてー!」
「はい」
差し出された桜色の頭をもう片方の手で撫でた。やちるちゃんは手の動きに合わせ、嬉しそうに体を揺らし始める。
「じゃあ、次は
優ちゃんの番! 剣ちゃんも撫でられてばっかりじゃダメなんだからね!」
「ふふ、じゃあお二人ともお願いしますね」
「……分かった」
「まっかせてー!」
今の私たちは他人から見れば少し滑稽な様子かもしれないが、ただただ幸せで心ゆくまで穏やかな時間を過ごした。
終