三人で湯船に浸かると浴槽から勢い良くお湯が溢れてしまい、浴室に置いていた風呂椅子や桶がぷかぷかと漂っていた。やちるちゃんはその様子に声を上げて笑い、楽しんでいる。
お湯が排水溝から流れていき、何の変哲もない光景に戻るとやちるちゃんはじゃぶじゃぶと両手でお湯と戯れ始めた。その両手を顔に近付けて、すんすんと匂いを嗅ぐと、にこりと笑う。
「今日のお風呂、甘い匂いがするね!」
「ばれちゃいましたね。金木犀の入浴剤を入れてみました」
私を後ろから抱き締めるようにして座っている剣八さんも片手で軽くお湯と戯れると、その手を顔に近付けた。
「甘い香りしましたか?」
静かに頷く剣八さん。
やちるちゃんは剣八さんの動作を真似たり、お手本にすることが多いが、剣八さんも同じようにやちるちゃんの動作に習うことが多い。二人が互いを信頼し合っていることが伝わってくる。二人のこの関係性が私は大好き。そしてなにより、可愛いのだ。
「きんもくせい、って前に優ちゃんが教えてくれたいっちーの髪の色してる小っちゃいお花がたくさん咲いてる木?」
「はい、その金木犀ですよ。まだ暑い日が続いていますが、秋を感じたくて買ってみたんです」
八月は終わり、九月に入った。暦的には秋にあたるが、残暑は続いている。爽やかで煌めく眩しさがある夏も好きだが、涼やかで落ち着いた秋も好き。様々な旬な食べ物もあり、草木も衣替えを行い、景色も美しく変わる秋。そんな秋が待ち遠しく、剣八さんとやちるちゃんと一緒に秋を迎え入れたかった。それもあり、この金木製の香りがする入浴剤を購入した。
「私、この香り好きなんです」
そう言うと剣八さんは、また手を自分の顔へ近付けて匂いを嗅いでいた。
「秋の香りですよね」
剣八さんのほうを少し振り向くと、頬を緩めて優しく微笑んでいる。
金木犀の甘い香りがふわりと漂い、剣八さんの柔らかな笑顔が心の奥にじんわりと染み込んできた。彼の胸に背を預けた瞬間、心がくすぐられるように揺れる。お腹に回っていた剣八さんの腕にぎゅっと引き寄せられる。まるで全てを包み込んでくれるようなぬくもりに、思わず目を閉じてその瞬間に身を委ねた。剣八さんも私の頬に顔をすり寄せる。
そんな私たちを見たやちるちゃんは、私の胸に飛び込んでくる。そして、すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「秋の香り! みんな同じ匂いになったね! これでいつ秋が来ても準備バッチリだね!」
浴室いっぱいに響く声でそう言ったやちるちゃんの頭を優しく撫でると、またふわっと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
*
数週間後。
「やちるちゃーん、起きてくださーい」
「う〜ん〜……」
丸まっている小さな体を揺するが、やちるちゃんは拒むようにぎゅっと固く瞼を閉じた。そして、私から逃げるようにころりと寝返りを打ち、向かい側に肩肘を付いて寝転んでいた剣八さんの胸へ身を寄せている。
「今日は、やちるちゃんがお寝坊さんですね」
「昨日遅くまで騒いでたからな」
いつもは先に起きた私とやちるちゃんが剣八さんを起こすのだが、今日はやちるちゃんが一番最後。昨晩は、酒盛りをしていた剣八さんと一角さんと弓親さんと一緒にやちるちゃんも夜更かしをしていた。とても楽しそうにしていたから、強く早く寝るようには言えなかった。
「やちる、起きろ」
剣八さんは体を起こして胡座をかいて座り、やちるちゃんも同じように向かい合って座らせる。だが、くてんとまた布団に寝転がってしまう。ころころと寝返りを打ち、今度は正座をしている私の膝の上で眠り始める。
「ふふっ……」
こうして子供らしくぐずっている姿がとても可愛い。頭を撫でるとこちらへ手を伸ばしてくる仕草が、何とも言えない愛おしさを引き立てている。
剣八さんはため息をつくと立ち上がり、寝室の縁側に繋がる戸へ向かった。ゆっくり戸が開かれると、少し冷たい空気が部屋の中に入ってくる。
やちるちゃんに目を戻すと柔らかい頬をむにっとさせながら眠り続けていた。
「
優紫」
頬を指先でつつきながら、どうやってやちるちゃんを起こそうかなと考え込んでいると剣八さんに名前を呼ばれた。顔を向けると、手招きをされる。
やちるちゃんを抱きかかえ、剣八さんの隣へ向かう。隣に立つと剣八さんは私の腕からやちるちゃんを受け取り、軽々しく片手で胸に抱いた。
「どうしましたか?」
「秋の香りがする」
その言葉に誘われて空気を吸うと、柔和な甘い香りが鼻腔をくすぐった。ほっと安らぐような優しさに包まれる。
これは、金木犀の香りだ。
「本当ですね」
剣八さんと目を合わせると口角を上げて笑う。そして外へ目をやり、秋を探すように庭を眺めていた。
「やちるちゃん、秋が来ましたよー。早く起きて挨拶しましょう?」
剣八さんの腕の中で眠っているやちるちゃんの背中をとんとんと優しく叩く。
「んう〜……ちょっとまってて、っていって〜……」
それだけ言うと剣八さんの胸元の寝間着をぎゅっと握り、またすやすやと眠りの世界へと旅立っていく。
私たちは顔を見合わせて笑っていると、甘い香りを纏った風が私たちを撫でた。金木犀の香りのおかげか、やちるちゃんは先程より気持ち良さそうにすやすやと眠っている。
「なんだか私も眠くなっちゃいました」
「もう一眠りするか?」
剣八さんに肩を抱かれ、頬に優しい口付けが落ちてきた。
「そうしたいのは山々ですが、私たちはお仕事ですからね」
「つれねえな」
「剣八さんまで駄々をこねないでください」
つまらなさそうに口を尖らせている彼が愛おしく思えて、微笑むとまた頬に口付けが落ちてきた。
「……こっちは、"一眠り"じゃアすまなくなりそうだから我慢な?」
そう言いながら剣八さんは私の唇を親指の腹でそっと撫でる。私を見つめる瞳には金木犀とは違う甘さを纏っており、大きく心臓が跳ねた。
彼の言葉も相まり、とたんに恥ずかしくなってくる。熱を持ち始めた顔を隠すように俯き、広い胸へ体を預けた。
「もう一眠りするか?」
剣八さんは笑いながら、同じ問いを私へ投げる。
「……お仕事に遅刻しちゃいます」
「やっぱり、
優紫はつれねえなァ」
はあ、とため息を落とすが剣八さんは楽しそう笑い、私を抱き寄せた。筋肉質な胸板がより肌に伝わってくるせいで、平静さを保つことができない。どきどきと騒いでいる胸はまるで昨晩はしゃいでいたやちるちゃんのようだった。
「でも……すこしだけ……」
金木犀の香りと彼に包まれながら眠れば、どんな甘くて幸せな夢が見られるのだろうか。
目を閉じると、剣八さんは私の頭を優しく撫でる。少し肌寒い中、彼の温かさを感じながらその甘さを少しだけ堪能した。
終