「
優紫さん」
いつもと変わらない卯ノ花隊長の優しい笑顔だが、今日は特別な楽しさを感じさせるものがあった。その理由は次に続いた言葉で明らかになった。
「今年の慰安旅行は、十一番隊と合同で現世の海へ行きますよ」
「海、ですか?」
「はい。
優紫さんは海へ行かれたことはありますか?」
「いえ。ないです……」
「まあ! それでは、楽しむためにしっかり準備をしなければなりませんね」
卯ノ花隊長は意外とこういう行事が好きなようで穏やかに話しているが、抑揚がいつもより強く感じる声色だった。目も輝いており、まるで少女のような雰囲気だ。上司の可愛らしい姿に、思わずほっこりとして微笑んでしまった。
「今回は更木隊長も一緒ですしね」
卯ノ花隊長の一言に、単純な私は顔が熱くなる。そんな私を見て、卯ノ花隊長は片手で口元を隠しながらくすくすと肩を小さく震わせて笑っている。
「水着はお持ちですか?」
「い、いえ」
水着というものは瀞霊廷通信で目にしたことはある。だが、実物は持っていない。現世では当たり前に身に着けるものだそうだが、下着ととても似ているため、自分が身に着けのは少し気恥ずかしく感じてしまう。
「それでは一緒に買いに行きましょう。私と勇音も新調しようと思っていたところなので」
「え!? でも……」
「一緒に買いに行きますよ」
にっこりと笑う卯ノ花隊長の笑顔の奥に、断れない圧を感じた。この笑顔に反発できるのはきっと剣八さんぐらいしかいないだろう。
「行きますよね?」
「は、はい……」
有無を言わせない空気に圧倒され、私は頷くしかなかった。
*
卯ノ花隊長に言われるがままに購入することになった白い水着。始めはワンピースの水着を買おうと手に持っていたのだが、今私が身に着けている水着——ビキニと言う本当の下着のように上下分かれている水着を卯ノ花隊長が私の元へ持って来たのだ。そして、一言。「これになさい、
優紫さん」とあの拒否を許さない笑顔で言われてしまったのだ。私はもちろん反論することはできなかった。せめて、と唯一卯ノ花隊長へ進言できたことは腰回りと足を隠すことができる布——パレオという物を合わせて買いたいということだけだった。
「よく似合っていますよ、
優紫さん」
卯ノ花隊長はそう言ってくれるが、こんなに肌を晒すのは下着以外で身に着けたことがない。人前に出るには少なすぎる布面積に心もとなさ過ぎて、そわそわと浮き足立って落ち着かなかった。無意識に背中を丸めてしまう。
「そ、そうでしょうか……」
「ええ。ですから、しゃんと胸をお張りなさい」
「はい……!」
卯ノ花隊長の言葉に真っ直ぐ背筋が伸びた。不思議だ。先程まで胸を独占していた不安はどこかに行ってしまった。
「卯ノ花隊長もよく似合っています……綺麗です!」
「まあ。ありがとうございます」
卯ノ花隊長は私なんかより肌を大胆に露出している水着を着用している。ビキニタイプのものより胸元が強調されているが、卯ノ花隊長と柔和な雰囲気と気品がある立ち振る舞いでまるで絵画に描いたよう美しさを感じた。私もこうありたい、と改めて思った。
卯ノ花隊長と会話を交わしながら更衣室から浜辺へと歩く。
さらさらとした細かい砂を踏むと優しく肌に触れる感触が心地良かった。真夏の日差しを浴び、きらきらと輝く砂浜。今、私の目の前には写真では見たことがある海が広がっている。写真で見るより、ずっと広くて大きい。限りなく広がる海が澄み渡った空と溶け合っているように感じた。波が穏やかに揺れ、砂浜に優しく打ち寄せる音が心地良く耳に響てくる。塩の香りが漂う潮風が頬を撫で、擽ったい。
この光景に見惚れていると、大きな霊圧が近付いてきた。私にとって、とても愛おしい存在。でも今は、彼と顔を合わせるのが恥ずかしかった。私は思わず、卯ノ花隊長と背に隠れる。卯ノ花隊長に消し飛ばしてもらった不安がまた私の胸に帰ってくる。彼には既に下着姿も、体の隅から隅も見られてはいるのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「……おい、卯ノ花。
優紫を隠すな」
「あら、私は隠してなんかいませんよ」
彼——剣八さんは私たちの目の前まで足を止め、卯ノ花隊長を見下ろしていた。卯ノ花隊長の背に隠れているため、表情は見えないが不機嫌そうな低い声色だった。
「じゃあ、そこをどけろ」
「それは出来ません」
「やっぱり隠してんじゃねえか」
「彼女は自分の意志で私の背に隠れているのですよ。彼女が何かから身を隠したいと思ったのならば、それから守るのが上司の務めなので」
「つまり隠してるってことじゃねえかよ」
「隠していません。守っているのです」
「屁理屈言うな。とっとと、どけろ」
「そんな怖い顔をしていらっしゃったら、ますます逃げてしまわれますよ」
卯ノ花隊長はそんな剣八さんに物ともせず、普段と調子を変えることなく言葉を交わしていた。
「……
優紫」
剣八さんに名前を呼ばれる。その声が親に置いて行かれてしまった子供のような寂しさがある声で、私は段々と悪いことをしてしまっているような気分になった。卯ノ花隊長の背から顔を少し覗かせると、剣八さんと目が合った。寂しげな瞳に誘われるように私は卯ノ花隊長の背からゆっくり姿を出した。じっ、と私の姿を凝視する剣八さんの視線を全身に感じる。駆り立てられる羞恥心に俯くと急に足が砂浜から離れ、浮遊感に襲われた。
「きゃっ……! けっ、剣八さん……!」
反射的に閉じた瞼を開くと彼に抱え上げられていた。落ちてしまわないように彼の肩に手を置くと、剣八さんは顎を軽く上げて私を見上げた。目を細め、鼻根に少し皺を寄せている表情は何かを耐えているように見える。
「剣八さん……?」
「……」
剣八さんは何も言葉を発さず、そのまま歩き出した。卯ノ花隊長に頭を下げると、微笑みながら上品に小さく手を振っていた。
活気に溢れる海岸から少し離れ、大きな岩が点在する静かな浜辺で剣八さんは私をそっと下ろした。距離を取るように少し後ずさると背後にある岩が背中に触れた。剣八さんは閉じ込めるように私の顔の横に両手をつき、私を見下ろした。もう、身を隠す場所も逃げ道もない。
「どうして隠れてたんだ?」
真っ直ぐに私を射抜く彼の瞳に心臓が早鐘を打った。
「水着が、恥ずかしくて、……」
隠すように胸元で腕を交差しながら小さな声で呟くと、剣八さんの瞳が上から下に動いた。頭のてっぺんから足先まで凝視される。目が再び合うと、剣八さんは私の手を取った。その手を自分の頬まで持っていき、私の手の甲に頬を摺り寄せていた。
「可愛い……」
頬をほんのりと紅潮させ、剣八さんはぽつりと呟いた。甘い熱を孕んでいるその瞳に、息が詰まりそうなほど益々心臓の鼓動が早くなる。
「誰にも見せたくねえ……」
腰と肩に筋肉質な太い腕が回され、優しく抱き締められる。胸板に顔を寄せると彼の鼓動が聞こえた。私と同じように忙しなく音を立てている彼の心臓。呼応するように私の心臓もさらに高鳴る。私の心臓の音も剣八さんへ伝わってしまいそうだ。
「……今すぐ、食いてえ」
剣八さんは、頭の奥まで響く掠れた低い声で私の耳元で囁く。何も考えずに頷き、承諾してしまいそうになった。大胆な水着を身に着けているため、気持ちも大胆になってしまっているのだろうか。でも、このまま彼に流されて許してしまえば、きっと私は体力が尽きて眠ってしまうことになるのは明白だ。初めての海だから、みんなとの思い出も大切にしたい。
「……みんなと遊びたいです」
私がそう伝えると剣八さんは目尻を下げ、切なそうな顔で口を小さく開いた。
「ごめん……」
剣八さんは許しを請うように私の頬に自分の頬を寄せた。彼の甘くて熱い吐息が耳にかかり、私の心臓は落ち着くことはなかった。
「あとで、なら……良いですよ……?」
小さな声で伝えると剣八さんにギュッと強く抱き締められた。
「っ、
優紫……好き……」
その言葉に私の胸は、愛おしさでいっぱいになった。
「キスは良いか……?」
私が小さく頷くと剣八さんは目を閉じ、ゆっくりと顔を寄せた。私も目を閉じ、期待に包まれながら彼の唇を待っていると突然明るい声が聞こえた。
「剣ちゃん、
優ちゃん! スイカ割りしよ~!」
慌てて目を開くと、剣八さんの肩からやちるちゃんが顔を覗かせていた。鼻の頭に砂を付けたやちるちゃんは、にっこりと口を大きく開けて無邪気に笑っている。
「や、やちるちゃん……!」
「つるりんが偽物のスイカ役してくれるんだって! 本物のスイカを誰が割れるか勝負しよ~!」
いつからここにいたのかと今度は焦りで私の心臓は騒ぎ始めるが、やちるちゃんは何も気にも止めていない顔でにこにこと笑っている。
「早くしないとあたしがスイカ割っちゃうよ~!」
やちるちゃんは剣八さんの肩から飛び降りると砂浜を軽快に駆けて行く。
「つるりん、早く偽物のスイカ役やって~! 剣ちゃんと
優ちゃんも呼んできたから!」
「僕がスイカの柄を書いてあげるよ、一角」
「だからッ! やらねェって言ってんだろッ!!」
遠くでやちるちゃんたちが言い合いしている声が聞こえる。いつものように仲が良いみんなに自然と笑みが零れた。肩を震わせて笑っていると、剣八さんに腰を抱き寄せられて耳元で囁かれた。
「遊んで疲れたから、あの約束は撤回するっていうのは無しだからな?」
剣八さんの言葉にまた私の頬に熱が集まっていく。彼を見つめながら頷いて応えると、鼻を鳴らして満足げに笑う。
「じゃあ、遊ぶか。みんなと」
「……はい」
剣八さんは腰に回していた手で私の手を取り、指を絡めて手を繋いだ。剣八さんと並んで歩きながら、みんなの元へ向かう。
彼の手から伝わってくる熱が、しばらくは私の熱を逃がすことはなかった。
終