「
優ちゃん、大丈夫……?」
「はい……だいじょうぶですよ……」
やちるちゃんが心配そうに眉を下げ、口も歪ませて今にも泣き出しそうな顔をしている。「大丈夫」と元気な顔で言って見せたいが、熱にぼうっと浮かされている頭が邪魔をしてくる。今の私はきっと、声にも顔にも覇気がないだろう。
「悪い……。俺が、うつしたよな……?」
やちるちゃんと同じように泣いてしまいそうな顔をしている剣八さんが消えそうな声で呟いた。
数日前、剣八さんは今の私と同じように風邪を引いてしまい寝込んでしまっていた。おそらく、私は彼の言うとおり彼から風邪を貰ったのだろう。肯定するのも、否定するのも、彼を傷付けてしまう気がした私は彼の手を握って微笑んで見せた。ちゃんと笑えていれば良いのだが。
私が笑って見せると、剣八さんの悲しそうな顔が少し晴れていく。落ちてた口角も上にあがっているのが見える。やちるちゃんの手も握ると、同じように口角があがっていく。
やちるちゃんは「あっ」と声を漏らし、私の額の上に置いていた手拭いを取ると私の枕元に置いてある桶へ入れて水に浸してた。じゃぶ、じゃぶ、と洗うように手拭いに水を含ませると、それを絞ることなく私の額の上に戻そうとした。ぼたぼたと通り道に水滴が落ちている。
「待て、やちる」
私の顔に辿り着く前に、剣八さんが手を重ねて制止させた。手拭いを桶の上へ戻し、手を重ねたまま固く絞っている。
「いっぱい出てくるねー!」
音を立てて、桶に戻っていく水にやちるちゃんはけらけらと笑っていた。
(私も、小さい頃は一人で上手く絞れなかったなあ……)
そんな二人の様子に私は昔のことを思い出していた。母が寝込んだ時に看病をしたくても、上手く手拭いが絞れなかったことをよく覚えている。その時は父が、今の剣八さんのようにしっかり絞るコツを教えてくれた。
「
優ちゃん。はい、どうぞ」
今度は水滴の道を作らない手拭いを持ち、私の額に置いたやちるちゃん。熱でぼうっとしている頭がひんやりと冷やされて気持ちいい。
礼を告げると、やちるちゃんは満足そうに満面の笑みを浮かべていた。一人では上手くできていなかったとしても、真っ直ぐな思いが嬉しくて心がすっかり癒される。自分の両親もこんな気持ちだったのだろうか。
「……そろそろ昼だけどよ、何か食えそうか?」
「はい。……剣八さんが、作ってくれるんですか?」
「ああ。粥で良いか?」
「卵粥、にして欲しいです……」
「分かった」
あの日の剣八さんのように要望を伝えると、また彼の表情が晴れていくのが分かった。
「あと、……」
「ん?」
手をぎゅっと握ると、剣八さんは優しく笑って首を傾げる。この表情と声、仕草が好きな私は、きゅんと胸が疼いた。
「りんごを、うさぎさんにして欲しいです」
私の言葉を聞いた剣八さんは少し考えた後に、ほんの少しだけ眉を顰ませる。
「あたしも、あたしも! うさぎさんのりんご、食べたい!」
それと反対にやちるちゃんは、ぱあっと笑顔になった。剣八さんの腕を掴んで揺り、強請っている。
「……俺にできると思ってんのか?」
「ふふ。剣八さんが作ってくれたうさぎさんのりんご、食べたいです」
もう一度お願いしてみると剣八さんは指先で頬をぽりぽりと掻き、「分かった」と呟いた。
*
台所のほうから聞こえてくる料理をしている音と一緒に眠りに就いた。
どれぐらい眠っていただろうか。
重い足音が聞こえ、寝室の戸が開かれた。その音にすっと体が浮くように目が覚める。
「悪い、起こしたか……?」
「いえ……丁度起きたところですよ」
また眉を寄せて悲しそうな顔をしてしまっている剣八さん。私が微笑むと安心したように雰囲気が柔らかくなる。
「やちるちゃんは?」
「向こうで昼飯食ってる」
私のお昼ご飯を乗せたお盆を持って、私の枕元までやって来ると剣八さんは静かに腰を下ろした。
「体、起こせるか?」
「はい」
上体を起こすと、剣八さんが背中を支えてくれる。
「ありがとうございます」
礼を告げると、ふわっと両腕で軽々と持ち上げられ、気付くと剣八さんの胡座の上に座っていた。
「こっちのほうが、
優紫は楽だろ?」
悪戯げに笑う剣八さん。その様子を見る限り、すっかりいつもの調子に戻ったようだった。
剣八さんの広い胸に身を寄せる。とくとく、と聞こえてくる心臓の音にとても落ち着いた。
「……そうですね」
剣八さんはお盆に乗せて持って来た土鍋の蓋を開ける。すると、もくもくと広がる湯気と共に食欲を誘ってくれるおだしの良い香りが漂ってくる。ふんわりと柔らかそうな卵とご飯。その上に葱と刻み海苔も散らされており、思わず唾を飲んだ。
彼はれんげで取り皿に取ると、小さめの匙に持ち替えた。それでお粥を掬うと、ふうふうと優しく息を吹きかけて熱を冷ましてくれている。
二人に比べると小食の私に合わせたお粥の量。私の口に含みやすい小さめの匙も、やけどしないようにしてくれているのも、すべてから彼が私を気遣ってくれている優しさが伝わってくる。彼に面と向かって「優しい」と言うとすぐにその言葉を受け入れないが、こうして相手の立場になって考えてくれる優しさが私は大好きだ。
「あーん」
剣八さんはそう言って、粥を乗せた匙を私の口元へ寄せた。彼の言動が私の胸をしきりに甘く締め付ける。
ああ、かわいい。
くすり、と頬を緩ませながら口を開く。すると、ゆっくり匙が口に入る。食べやすい温度に冷まされたお粥。咀嚼すると柔らかく崩れるお米、ふわふわと舌ざわりの良い卵と口の中に優しいおだし。美味しい。
あっという間に口の中からなくなってしまった。まるで餌を待つひな鳥のように私はすぐにまた口を開く。すると、今度くすりと笑ったのは剣八さんだった。剣八さんは、また匙でお粥を掬うと息を吹きかけて熱を冷ます。冷まし終えると、また私の口の中にお粥がやってくる。
「美味いか?」
味わいながらゆっくり咀嚼していると、優しく笑みを浮かべている剣八さんに尋ねられる。頷くと、剣八さんはまたくすりと笑っていた。
「……とっても美味しいです」
「腹いっぱいになったら、そこで終わっていいからな?」
「全部、食べたいです」
私がそう告げると、嬉しそう笑いながら次のお粥を冷まし始めた。
そのまま最後まで剣八さんに食べさせてもらい、あっという間に土鍋からお粥がなくなってしまった。両手を合わせて「ごちそうさまでした」と言うと、剣八さんに頭を撫でられる。膝の上に乗せられ、ご飯も食べさせてもらったために、子どものように扱われている気分になってしまうが、彼にもっと甘えたい・甘やかされたいと思うのは熱のせいだろうか。
取り皿と匙をお盆に戻し、次に剣八さんはラップをかけたお皿を手に取った。そこには、私がお願いして作ってもらったうさぎさんのりんごが二匹。
「……ふふっ」
「だから、俺にできると思ってんのかって言っただろ?」
笑ってしまった私に剣八さんは少しむっとした表情でお皿からラップを取り外した。りんごの皮で作られたうさぎの耳は歪な形をしており、一匹は左右の耳の大きさが極端に違い、もう一匹は片耳がなかった。
ほんとうに、かわいい。
このりんごもかわいいし、何よりも彼が一番かわいい。私のためにりんごをうさぎの形に一生懸命に切ってくれている剣八さんが頭の中に浮かんでくる。細かい作業が苦手な剣八さんが自分の手には小さい包丁を持って、四苦八苦していただろう。好きな人が困っているところを見たい、という趣味はないのだが、うさぎの耳として残していた皮を切り落としてしまった時の剣八さんはとてもかわいい表情をしていたはず。「やってしまった」という顔で目をまん丸にした後に、がっくりと肩を落としたのだろうか。そんなことを考えながら目で片耳がないうさぎを撫でていると、想像だけでまた胸がくすぐったくなってくる。
いとおしさで剣八さんに口付けをしたくなってしまう。唇同士だと、また剣八さんが風邪を引いてしまいそうだ。そう思った私は、剣八さんの頬へ口付けた。
「……」
食べやすいようにりんごに爪楊枝を刺してくれていた剣八さんは固まってしまい、ぱちぱちと瞬きした後に私と目を合わせた。
「……ごめんなさい。剣八さんのことを好きだなって思ったら、我慢できなくなっちゃって」
寝間着の袖で、私が口付けた箇所を拭う。その腕を、剣八さんに絡め取られた。剣八さんの深緑の瞳と目に私が映る。
「頬じゃなくて、キスがしてえ……」
頬をほんのりと赤く染めて、懇願するようにその瞳で訴えられる。
私だってキスがしたい。
感情に合わせて動く、いとおしい唇を私だけのものにしたい。
でも今許してしまえば、また自分たちの好きにキスができなくなってしまうかもしれない。
「唇だと剣八さんにうつっちゃいます」
「うつっても良い」
「だめですよ。うつっちゃったら、また当分キスができなくなっちゃいますもの」
「少しだけなら良いだろ?」
「そういう気の緩みが、きっかけになってしまうんですよ」
「……」
剣八さんは言い返す言葉が思いつかないのか、黙ってしまった。だが、顔を近付けて来る。これは強行突破だ。
「剣八さん」
「……」
名前を呼んで見るが、止まる気はさらさらないようだ。
私は剣八さんが手に持っているお皿からりんごを一つ手に取る。そして、近付いて来る彼の唇にりんごのうさぎさんの口を重ねた。
「……」
「何も気にしないで、あなたとたくさんキスがしたいので——今は、我慢ですよ?」
「……、……分かった」
剣八さんはうさぎさんの口から唇を離すと、唇を尖らせて小さく呟いた。拗ねてしまった子どものように見えてしまう。ふたたび心をくすぐられ溢れてくる笑みに耐えながら、私はうさぎに形どられたりんごに小さく噛り付く。咀嚼すると、しゃくしゃくと音が響いた。酸味のあるさっぱりとした甘味が口の中に広がっていく。普段食べるりんごと同じ種類なはずなのに甘く感じた。
(さっき、剣八さんと口付けてたからかな?)
このうさぎさんも剣八さんのかわいさに私のようにきゅんきゅんと胸が疼いてるのだろうか。
この甘さが剣八さんへの恋心からくるものだとしたら少し妬けてしまう。
なんて、熱のせいか少しおかしなことを一人で考えてしまい、口角が上がるのが分かった。
「唇がだめなら──」
りんごを食べ進めている私の顎を、剣八さんは片手で掬う。
「俺も頬にさせてくれ」
そう言いながら剣八さんは私の頬に口付けた。ふにっ、と柔らかい唇の感触。それはすぐに離れていってしまう。
名残惜しさを感じていると、ぎゅっと太くて筋肉質な腕に抱き締められ、腕の中に閉じ込められる。とくとくと響いていた剣八さんの鼓動が、今はどきどきと私と同じように早鐘を打っていた。
「しっかり食べて、お薬きっちり飲んで、たくさん寝て、はやく元気になりますね?」
剣八さんはこくりと頷き、私の首元に顔を埋めて頬を摺り寄せていた。
「だから、私が眠るまで手を握っててもらえますか?」
「ああ……」
これだけぴったりとくっついていたら、キスをしていなくても風邪がうつってしまうかもしれない。
そんな野暮なことを口にはしないで、私も彼の背へ手をまわした。
終