「今日は鰻か?」
台所で晩御飯の支度をしていると頭上から声が聞こえた。私が振り返るより先にお腹にぎゅっと腕が回り、背後から抱き締められた。背中にじんわりと感じる温かさと、ふわっと香ってくる石鹸の香り。顔を見なくても誰かなのかは分かる。
「剣八さん。お風呂、気持ち良かったですか?」
お腹に回っている私の腕より太くて筋肉質な腕に手を添え、振り返るとそこにはお風呂上がりの剣八さん。彼は頷くと、私の頬にすりっと頬を摺り寄せてきた。その仕草がまるで人懐っこい大きな犬のように感じてしまった。湯舟で先程まで温まっていたためか、いつもより明らかに体温が高い。犬ではなくて赤ちゃんみたい、と思ってしまった。流石にそれを彼に伝えてしまったら怒られてしまうかもしれない。
「今日は土用の丑の日なので鰻ですよ」
「土曜日じゃないのに土曜日なの?」
ひょっこりと剣八さんの背中から小さな顔を覗かせたのはやちるちゃん。やちるちゃんも剣八さんと同じく湯上りで頬がいつもより赤らんでおり、一層愛らしさを感じた。
「はい。そうですよ」
私が頷きながらそう言うと、剣八さんとやちるちゃんは目を丸くした。ぱちぱちと数回瞬きすると目を見合わせていた。
「剣ちゃん、どういうこと?
優ちゃん、お熱あるのかな?」
やちるちゃんは、剣八さんの耳元に近付くと口元を手で隠して小声で囁いていた。私たち三人は距離が近いため、一言一句しっかり聞こえてしまった。
「
優紫、大丈夫か……?」
やちるちゃんの言葉を鵜吞みにした剣八さんは、私の額に手のひらを当てて心配そうに私を見ていた。そんな二人にくすっと小さな笑い声が漏れてしまった。
「大丈夫ですよ。熱はありませんよ」
あんまり笑ってしまっては二人に失礼だと分かっていながら、我慢できずに私は声を押し殺して笑ってしまった。二人は同じ方向へ首を傾げ、不思議そうに笑っている私を見ていた。
「“土用”は曜日ではなく、季節の変わり目という意味なんです。“丑の日”は日にちを十二支で数えた時の一つですね」
私の説明を聞きながら、また剣八さんとやちるちゃんは目を合わせた。今度は鏡合わせで同じ方向へ首を傾げていた。なかなか分かりやすく説明するのが難しい。私も父や母に『土用の丑の日』を教えられた時もなかなか理解できなかったものだ。
「夏は体調を崩しやすい季節でもあるので、土用の丑の日は精が付くようにと丑の日の『う』にちなんで、『う』の付く食べ物を食べれば夏バテしないと言われているんですよ」
「ういろうとか梅干しとか?」
「そうですね。そういうことです」
やちるちゃんから出てきた食べ物の名前を聞いて、『う』の付く甘いお菓子があれば良かったのにと思った。それをやちるちゃんのために用意すれば、きっととびきりの笑顔を見せてくれただろう。
「だから今日は鰻なのか」
「はい。ご明察通りです」
「精、か……」
私が小さく拍手すると、剣八さんは顎に手を当てて何かを考える素振りをしていた。
「俺の鰻も食うか?
優紫」
何かを思いついたように剣八さんは真っ直ぐ私を見つめながらそう言った。
「……食欲ないですか?」
「いいや。違えけどよ」
お風呂上がりすぐに台所へ夕飯を確かめに来たから食欲がないとは思えなかったが、やっぱり違う意図があるようだ。
「剣ちゃん!」
やちるちゃんは剣八さんの頬に手のひらを押し付けて、頬を膨らませている。眉尻を吊り上げているやちるちゃん。何かに怒っているみたいだ。
「何だよ」
「ちゃんと自分で食べて」
「そうですよ。私のはちゃんとありますから大丈夫ですよ。剣八さんもしっかり食べて、精を付け下さいね」
「……精」
やちるちゃんは押し付けていた手のひらをまたぐっと力を込めていた。それでも剣八さんは平然としながら、口を開いた。
「なあ、
優紫。他に精が付く食べ物は、何があるんだ?」
剣八さんは興味が湧いてきたのか、質問を投げかけてきた。
「そうですね。定番なのは牡蠣とか、山芋とか、スッポンですね。あとは、納豆も良いみたいですよ」
『納豆』という言葉を聞いて、剣八さんは反射的に眉を顰ませ、口をへの字に結ぶと嫌悪感を表情で表した。
「精が付くので剣八さんもこれから毎朝食べますか?」
「食わねえ」
私の言葉を食い気味に即答されてしまった。
「好き嫌いはいけませんよ」
「嫌いじゃねえ。食ってないだけだ。俺は良いから
優紫はもっと食え」
珍しい。剣八さんは私が納豆を食べるところを見るのも嫌がっているのに。納豆を食べた後は歯磨きをしていたとしても、しばらくは口付けもしようとしないほどだ。彼を見つめる私の瞳に疑問の色が浮かんでいるのを見た剣八さんは、片方の口角を吊り上げて笑った。
「精が付くんだろ?」
「も~! 剣ちゃん! これからご飯なんだから、そういうこと考えたらダメなんだよ!」
やちるちゃんが今度は剣八さんの耳を引っ張っていた。
「痛ェよ」
数秒遅れて私は剣八さんが言わんとしていることを理解し、頬が急に熱くなった。そして心臓も早鐘を打つように鳴り始める。
「食うか、鰻」
剣八さんはやちるちゃんに耳を引っ張られながら、尖った犬歯を見せてニヤリと笑った。その笑顔に余計顔が熱くなり、目を合わせているのが恥ずかしくなってしまう。熱くなった頬を両手で覆い、彼から視線を逸らしながら私はそっと小さく頷いた。
終