それは想像もしなかった言葉だった。
身体が固まってしまい、瞬きも忘れてしまった。
「おめでとうございます。
優紫さん」
虎徹隊長は祝福の言葉を私に贈る。それでも私は言葉を失ったままだった。
「本当に、おめでとうございます!
優紫さんのお腹に、更木隊長とのお子さんがいるんですよ……!」
虎徹隊長はもう一度言葉を繰り返した。私の手を優しく包み込んで、少し潤んでいる瞳で私を見つめている。
──更木さん達は子供を作らないの?
私は今まで何度その言葉を耳にして来ただろうか。夫婦仲は良好な私達。しかし私達の間には子供は居ない。悪意があってその言葉を私に掛けた人は居ないだろう。だが、それを聞く度に胸がきしりと音を立てた。剣八さんとの子供は欲しい。けれど、私達夫婦が結婚してから幾年もの間、子供を授かる事は無かった。そればかりは仕方の無い事だと思っていた。欲しいと思った時に授かるものでは無い。欲しくないと思っている時に授かる事もある。自分達の意志では左右させる事は出来ないのだ。
中々、子宝に恵まれない私達に卯ノ花隊長から不妊の検査や治療を提案された事もあった。けれど、私は気が進まなかった。周りの夫婦と自分達を見比べて、焦って、固執して、本当の目的を失いたくはなかったからだ。私の目的は『愛する人との子供、家族を作る事』では無く、『愛する人達と共に日々を過ごす事』だった。
それに、自分の血を分けた子ではないが私には自分の娘のように思っている大切な子がいた。可愛らしい笑顔で笑う、桃色の髪の女の子。母親ではない私を本当の母親に対するように甘え、慕ってくれた。あの子と剣八さんと過ごす時間はとてもかけがえのないもので、私の日々を豊かなものにした。
しかし、あの子は忽然と姿を消した。何も言わずに私達の前から居なくなってしまった。その日から私の胸には、ぽっかりと穴が空いてしまった。
「本当におめでとうございます、
優紫さん」
段々と私の視界はぼやけ、虎徹隊長の表情を認識する事は出来なくなってしまった。頬を一筋の涙が伝ったかと思うと、次々と涙が頬を流れていく。その涙は、膝上の手の甲へと止め処なく落ちた。大きな声を出して泣いてしまいそうだった。声を押し殺して私は顔を覆った。
私達は子供が欲しいと望みながら中々授かる事が出来なかった。その事情を知っている虎徹隊長は、何度も祝福の言葉を口にしながら私と一緒に泣いていた。
過去にも何度か妊娠の兆候があり、検査をしてもらった事がある。しかし、そのどれもが期待していたものでは無かった。だから今回もきっとそうだろうと思った。まだ寒さの残る季節。仕事が忙しかった事もあり、体調を崩してしまったのだと思った。そんな私に、虎徹隊長は検査をしましょう、と語り掛けた。期待して失意したくなかった私は中々頷く言葉は出来なかった。それでも虎徹隊長は何度も何度も私を説得した。諦めない虎徹隊長に私は折れ、小さく頷いた。けれど私はやはり勇気が出ず、腹部の超音波検査中にモニターから目を逸らして、固く瞼を閉じていた。
「ありがとう、ございますっ……。虎徹隊長っ……」
「私は何もしていませんよ。ほら、見て下さい」
虎徹隊長は私の背を撫で、印刷したエコー写真を差し出した。私はそれを受け取り、涙を拭う。まだ微かにぼやける視界。その写真には確かに小さな赤子の姿があった。まだ信じられない私はお腹を擦る。はっきりと身篭っていると誰もが分かるようなお腹とは程遠いが、ここにいるのだと思うと赤子の体温と鼓動が掌に伝わってくる気がした。
「本当に、ここに……剣八さんと私の赤ちゃんがいるんですね……」
「はい」
「……ここで、生きているんですね」
「はい」
「本当に、ほんとうにっ……」
「はい。まだ小さな身体で霊圧もまだ
優紫さんのものに隠れてしまって判別はできませんが、更木隊長と
優紫さんのお子さんは
優紫さんのお腹の中でしっかりと生きていますよ。私が保証します」
実感を持てない私を悟って虎徹隊長はその言葉はゆっくりと優しく、けれど強い口調で言い聞かせた。また涙が溢れて来てしまった私につられて、虎徹隊長も泣いてしまった。
ああ、彼に早く会いたい。早く伝えたい。
彼は驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。どんな顔をするのだろうか。彼の反応を想像しながら私はエコー写真に写るその子をそっと撫でた。
*
私は逸る気持ちを抑えながら十一番隊へと向かった。四番隊から十一番隊までの道は何度も歩いた。何度も見てきた景色なはずなのに、何故か初めて見るようなそんな感覚がした。
――知ってしまったら、体が全部新しく入れ替わってしまったような不思議な感覚になる瞬間があるの。
昔、母にそう言われた事を思い出した。それはどんな時だったのか、と聞いたが母は笑って秘密だと言った。もしかしたら母も私がお腹に居ると分かった時なのかもしれない。母と訣別した今はもう聞く事は出来ないが、きっとそうなのだろうと確信に似た気持ちだった。
何度も歩いた道、何度も見た景色。そこにきらきらと輝く光が溢れている。その光は優しく私を包み込む。昔の自分ではなく、新しい事が始まった。私がまだ知らない世界。不安はあるけれど、彼と一緒ならば何も臆する事は無かった。私は再び頬を伝い始めた涙を拭い、一歩一歩地面を踏みしめて歩いた。
十一番隊隊舎の門をくぐり、彼の霊圧が感じる方へと足を運ぶ。武道場に近付くと彼の姿が見えてくる。
「剣八さんっ!」
彼の名前を呼ぶ声が思わず弾んでしまう。
私の声を聞き、直ぐにこちらを振り返る剣八さん。目が合うと優しく微笑んでくれる。
「
優紫」
「剣八さん!」
彼との距離は後数メートル。
「具合は大丈夫か?」
今朝、体調が悪かった私を気遣ってくれる。それに答えなければいけないのに、遂に逸る気持ちを抑える事が出来なくなってしまった。駆け寄り、彼の胸へ飛び込んだ。普段はそういう事をしないと知っている剣八さんは少し驚いていたが、しっかりと私を受け止めてくれた。
「
優紫?」
彼は様子を伺うように私の名前を呼んだ。
周りに十一番隊の方々が居ると言うのに私は何も気に掛ける事が出来ず、より抱きしめる腕に力が籠った。
「剣八さん」
「どうした?」
「剣八さん……剣八さん……」
早く伝えたいけれど、言葉にすると夢から醒めてしまうような気もした。代わりに何度も彼の名を呼ぶ。
「けんぱち、さん……」
「何かあったか?」
次第に震えた声になっていく私に剣八さんの表情は酷く心配そうなものになってしまった。
私はそれを振り払うように彼の両頬に手を添え、笑った。すると今度は不思議そうに私を見つめた。
「
優紫?」
私はそっと彼の頬から手を離し、彼の大きな右手を取った。
「ここに――」
そして、その右手を自分のお腹へと導く。
「剣八さんと私の赤ちゃんがいるんです」
私はその言葉を口にした。剣八さんは数回瞬きをしただけで固まってしまった。
「私たちの子供が、ここで……今、生きているんです」
もう一度伝えると剣八さんはゆっくりと目を見開いた。虎徹隊長に診断を受けた私も先程はきっと、こんな様子だったのだろう。
「……本当、か?」
「はい。こんな嘘を言いませんよ」
「本当に、俺と
優紫の子供が……ここに……」
剣八さんはそっと私のお腹を撫でた。
「はい。まだぺたんこですが、確かにここにいます」
「……そうか」
剣八さんはそれだけ呟き、私を抱き締めた。私も彼の背へ手を回し、抱き締めて彼の胸へ身を寄せた。彼の心地よい規則的な心拍音が聞こえた。抱き締める前に見えた彼の表情は私が想像したものより幸せそうだった。
「ありがとう、
優紫」
剣八さんは私の耳元に口を寄せ、呟いた。私はそれに対して首を振った。
「ありがとうございます、剣八さん」
夢なのでは無いかとまだ信じ切れていない私だったが、彼の幸せそうな顔と優しい体温に包まれてゆっくりと自分の中で現実なのだと確信が出来た。
今日は、二月十二日。あの子の誕生日だった。あの子が姿を消した日から一番彼女の事を思い出す日。そんな日にこんな幸せな出来事が起こるなんて思いもしなかった。
もしかしたら、お腹の子はあの子からの贈り物なのかもしれない。何時までも寂しがっている私に贈り物をしてくれたのだろうか。自分に都合の良い解釈だけれど、そう思ってしまう私がいた。
「お腹の子が、もし女の子だったら付けたい名前があるんです」
「……俺もだ」
私の言葉に剣八さんは目を見張り、目を閉じて小さく微笑んだ。
「名前は―――」
私達、二人は声を揃えて同じ名前を口にした。
それは、もう一度優しく抱き締めたい大切な子の名前であり、いつまでも私の憧れで惟一人こうありたいと願う人の名前。
*
「
優紫さん、頑張って下さい! 後もう少しです!」
あれから十ヶ月程、時が過ぎた。私は今、分娩室に居る。私も何度か分娩の介助をした事がある。お産は大変だと分かってはいた。だが、雷に撃たれ身体が引き裂かれるような全身に広がる激痛だとは思わなかった。余りの痛みに気を飛ばしそうになってしまう。本当に命懸けなのだと、ぐわんぐわんと鈍く痛む頭で思う。
「頑張って下さい!
優紫さん!」
私は虎徹隊長の合図に合わせて再び力んだ。
すると、分娩室に赤ちゃんの鳴き声が響き渡った。私はそれに酷く安心して、全身から力が抜ける。感じた事の無い大きな、大きな疲労感。
「
優紫さん、おめでとうございます。可愛くて元気な女の子ですよ!」
今にも溢れ落ちてしまいそうな程目に涙を溜めながら虎徹隊長は、産声を上げている赤ちゃんを抱き締めて歩み寄る。
虎徹隊長に腕に抱かれている小さなその子。剣八さんと私の子。やっと逢う事が出来た。
痛みに耐える涙ではなく、嬉しさから涙が溢れてくる。虎徹隊長は、赤ちゃんをゆっくりと私の腕に抱かせる。小さな身体からずっしりと命の重みを感じる。胸に抱くと次第に泣き声が止んで、すやすやと眠り始めた。腕の中のその子をしっかりと目に焼きつけるように見つめた。
もしかしたら、と思う私もいた。
「やっぱり、貴方だったんですね。私も剣八さんも、ずっとずっと……貴方の事を忘れたりなんかしませんでしたよ……」
薄らと生えている桃色の髪にそっと触れると小さな手を伸ばして私の指を握った。まるで私の言葉に返事をしているかのようにそのまま離そうとはしない。
「――おかえりなさい、やちるちゃん」
腕の中のその子が一瞬微笑んだような、そんな気がした。
終