春の湊に佇む君へ
(社会人更木剣八とアイドル夢主) 出会いは偶然だった。
その日俺は、業務時間内に処理しきれなかった締め切りが差し迫った仕事を自宅へと持ち帰った。簡単に夕飯と風呂を済ませ、デスクに座って作業を始める。眠気覚まし目的のためタブレットで動画投稿サイトを開き、トップページに表示されたアーティストのMVを適当に見繕い、再生を開始した。テレビCMでよく聞く曲や耳にしたことがない曲。様々な曲が流れた。特に好きなアーティストもいなければ、思い入れのある曲もない自分にとってはただの音でしかなかった。自分にもそう言うものがあれば、毎日同じことの繰り返しでつまらない日々にも色が宿るのだろうか。そんなことをふと思った。夜のせいか、つい感傷的になってしまう。または新しい環境に胸を躍らせる者が多い春だからだろうか。未来へ目を輝かせて歩く者を見るたびに、自分と比較してしまう。俺は夢もなければ、希望もない。
深いため息が溢れた。
「……」
そんなことを考えている暇はないと頭を軽く振り、目の前の作業へ集中した。
*
大方作業が終わり、デスクに置いてあるデジタル時計に目をやると日付が変わろうとしていた。
(……そろそろ寝るか)
就寝の準備をするために、動画を止めようとタブレットへ手を伸ばした。その時、ピアノの音が流れ始めた。
「……」
伸ばした手が止まった。
そのピアノの音は、悲しくも温かくも感じた。
ゆったりとしたピアノのイントロが終わると、少し疾走感があるメロディが流れ始めた。
大切な人との別れに桜が散り、春が終わっていくことの憂いを重ねて表現している曲だった。よくある恋愛ソングなのかもしれない。恋愛なんて生まれてこの方したことがない。だが、言葉の一つ一つが胸に響いた。
曲と共に流れる映像は複数人の十代、二十代ぐらいの若い女性が踊りや表情で曲を表現していた。もちろん誰が誰だか分からないければ、判別もできない。
だが、その中でつい目で追ってしまう人物がいた。その人物だけは場面が切り替わってもどこにいるのかすぐに分かってしまった。
主要メンバーに位置するのかは分からないが、要所要所のシーンで画面に映し出される彼女はまるで曲の一部になったかのような表現をしていた。
──君のいない僕の春はどんな桜が咲くのだろうか
君の春に咲く桜は どうか優しいものでありますように
普段なら「綺麗事を並べやがって」と一蹴していたかもしれない。
曲の終盤で彼女がソロで歌ったその歌詞が胸に響いて、離れなかった。彼女ではない制作側の"大人"が作った歌詞だと分かってはいたが、彼女の心地よい優しい歌声から紡がれる言葉が俺の心を溶かした。
温かく包み込んでくれるような嘘のない笑顔が俺を甘く、柔く、抱き締めた。初めて味わう、不思議な感覚だった。
イントロと同じようにピアノのアウトロでその曲は終わった。余韻に浸るように少し呆けてしまったが、次の曲に移り変わる前に急いで曲を一時停止した。シークバーを彼女のソロパートへ戻し、もう一度再生ボタンを押す。二回目に見るそのシーンは一度目より美しく輝いて見えた。もう一度一時停止し、シークバーを戻す。彼女の微笑んでいるシーンで動画を止める。
自分から見ると年端も行かない彼女が見せる、悲しさも寂しさも罪も罰も全てを包み込んでくれるような微笑みが自分へ寄り添ってくれているようだった。手の甲に濡れが、自分が泣いていることに気付いた。
『春の湊に佇む君へ』
それがこの曲のタイトルだった。曲のタイトルを知ると、この曲がより自分へ寄り添ってくれているように錯覚した。
動画投稿日を確認すると、丁度一年前の今日だった。
投稿アカウント名には『Courage:D』と書かれている。『Courage』は確か──
(フランス語で『勇気』だったか……?)
動画の概要欄にある公式サイトのURLをタップした。開いたページの雰囲気からすぐに女性アイドルグループだと分かった。グループ名は『勇気をあげる』らしい。オーディションを勝ち取ったメンバーたちが意見を出し合って決めたと書いてあった。
メンバーの紹介ページを開くと、ずらっと宣材写真が並んでいた。一人、一人、画面を指で撫でながら確認し、自分の目を引いた彼女を探した。
(いた……)
そこには動画で見たよりも髪が長くなり、顔立ちも少し大人っぽくなっていた彼女の姿があった。
「
春宮、
優紫……」
宣材写真の下に書いてあった彼女の名前を呟くと心臓が高鳴る。
それはつまらない日々を送っていた俺の心に綺麗な桜が開花しはじめる合図だった。
終